リゾートアルバイトのとある風景(改訂)

第一章プロローグ

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1998年2月・長野オリンピックから2002年4月・リゾートアルバイトでオレが白馬を訪れるまで。

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「今度は高いか!?」
「よぉし、大丈夫だ!」
「高い! 高くて、高くて高くて高くて行ったーぁー!!」
「よっっしゃーぁ!!」
「大ジャンプだハラダーァー!!」

 その記憶を脳裏に、その残像を瞼の奥にぼんやりと浮かべながら、オレはここに立っている。そして、ここにそびえ立つ二つを見上げ、オレはまたため息をつくのだった。ノーマルヒルとラージヒル、二つのジャンプ台は、今でも紛れもなくオレの目の前にそびえ立っている。しかし視点を反対に移せば、二つのジャンプ台の前に立っているのはオレ一人だけなのだ。観客席は深い雪に埋もれ、ときおり突風が吹いてもロープがポールにぶつかるカタカタという音がむなしく響き渡るだけで、そこにはためく国旗は一つもなく、オレは独り寒さに身をすくめた。



 1998年2月7日から22日にかけて開催された第18回冬季オリンピック長野大会は、自国開催で金メダルの期待がかかる日本人選手も少なくないのに、当初世間の関心はあまり高くないといわれていた。オレも実はそんな無関心層の一人で、浅利慶太の演出する開会式以外には特に注目していなかった(それにしても、ちぐはぐでみっともない開会式だった)。ところが、大会四日目にスピードスケート男子500メートルで清水宏保が前評判どおり金メダルを獲得し、翌日には女子モーグル決勝で里谷多英が日本人女子初の冬季五輪金メダリストとなり、さらに四日後にジャンプ・ラージヒル個人で船木和喜が満点の飛型で金メダルを、原田雅彦がヒルレコードで銅メダルを獲得すると、オレの胸の奥に眠っていたスポーツ好きの虫がにわかに騒ぎ始めて居ても立ってもいられなくなった。
翌日、オレは大学で唯一親友と呼べる同級生のマサオをけしかけて自家用車を出してもらい、二人して一路長野を目指した。
 1998年2月16日、ラージヒル団体の前夜、午前零時を回った頃、オレたちは白馬に入った。国道406号線が千国街道に合流すると、遙か八方尾根に暗闇を背後に引き連れるようにしてオレンジ色のカクテルライトを全身に浴びたノーマルヒルとラージヒルが姿を現した。日本初となる並列型のその威容は壮観でもあり神秘的でもあったが、何より、21世紀最後のわが国の政治的・経済的・文化的威信の集大成のようでもあり、オレは胸騒ぎ以上に武者震いを覚えた。

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 翌日、そこで起こったことについては、今さら説明する必要はないだろう。とにかくすべてがすばらしかった。胸騒ぎや武者震いを突き抜け、オレはマサオや大勢の観客たちとともに無限の快感と興奮に浸った。周りの見知らぬ輩と抱き合って歓喜と感動をわかちあうような軽率な行動は絶対にすまいとオレは思っていたが、そんなことはとっくに忘れてしまっていた。決して大げさでも月並みでもなく、四人のジャンパーともに会場全体がそのとき一つになった。原田雅彦の涙とともに、自分の目頭と喉の奥に強烈なものが込み上げてくるのを、オレは抑えようとしなかった。

 長野オリンピック当時、オレは大学卒業を間近に控えた春休みを過していた。卒業といっても、オレには他の大勢と同じような万感の思いなどまるでなかった。三年間の浪人生活の後に入学したオレにとって、大学での四年間は満たされない日々だった(理系のくせに柄にもなくミッション系を選んだのがそもそもの失敗だった)。授業はつまらない。サークル活動はくだらない。同級生たちはもの足りない。
 何より満たされなかったのは、オレはいわゆるカノジョができたことが一度もかった。だから、キャンパスライフを謳歌している気分になったことは一瞬たりともなかった。そのうち、ぼちぼち就職活動が始まり、カノジョだのキャンパスライフだの言っている場合ではなくなってきた。就職難のご時世、オレは地元・宇都宮市内の住宅施工会社になんとか滑り込んだが、正直、フレッシュマンの意気込みにはほど遠かった。このまま何事もなく学生生活を終えてしまうのかと思うと、とてもせつなくやりきれなく、彼女ができるまで留年しようかと本気で考えたこともあった。
 長野オリンピックが開催されたのは、まさにそんなときだった。清水宏保。里谷多英。船木和喜。オレと同年代の日本人選手の活躍はこの上のない励みだった。そして原田雅彦。
“オレも原田みたいに、誰よりも高く遠く別世界へ飛んでいけたらなぁ…”
そう胸の内でつぶやき、ため息をついているまさにそのときだった。

「あのぉ、さっきジャンプ場で隣にいらした方ですよね?」
ラージヒル団体の観戦を終えた直後、みそら野地区にある喫茶店=オールド・リバーで時間を潰していたオレたちに、二人組の女の子が話しかけてきた。

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二人ともオレたちと同じ年の頃で、一人は十人並みだったが、もう一人はしめやかに輝く瞳と控えめな口元ながら艶やかな唇をしたとびきりの美人だった。オレ自身はさほど彼女たちを気にとめてはいなかったのだが、彼女たち、特に美人のほうがなぜかオレのことをよく覚えていて、
「原田のジャンプのとき、ものすごい声出してましたよね?」とか、
「甘酒飲もうとしてこぼしてませんでした?」とか、いろいろ突っ込んできたのでオレは気を良くし、マサオはマサオで、彼持ち前のなりふり構わぬ社交性を発揮したこともあってオレたちはすぐに意気投合し、長野市内のセントラルスクウェアにメダル授与式見を一緒に見に行くことになった。
 セントラル・スクウェアにはやはり熱狂的な人数が詰めかけていた。大粒の雪が舞い降り、日没とともに寒気は厳しさを増す一方だったが、オレは額の汗を拭った。岡部孝信、斉藤浩哉、原田雅彦、船木和喜。四人のゴールドメダリストが姿を現し、先刻の白馬での熱狂が再現された。金メダルを掲げて表彰台の中央に立つ四人を眺めながら、オレたちはセンターポールを上昇する日の丸をともに見上げて君が代を聞いた。会場全体で君が代の大合唱になったのにはオレは少々違和感を覚えたが、その違和感はどこか説得力のあるようにも思えた。マサオはバカみたいに鼻の穴を大きくして歌っていた。彼女たちも歌っていた。そしてオレ自身も君が代を歌うと先刻の白馬と同じ、いや、それ以上の快感と興奮に襲われた。
“この快感と興奮はいったい何なんだろう?”
そのとき、オレがそのような自問をすることはなかった。
 さて、勢いに任せたオレたちは、二人を白馬まで送り返すのにかこつけて彼女たちのホテルに押しかけた。時分が時分なので門前払い覚悟で宿泊をかけあうと、幸運にも、つい今しがたキャンセルが出たとのことで、まんまと飛び込みに成功した。
「天は我らに味方したか! オリンピックマジックで絶対ヤレるよ今日は!」
マサオが気色満面でオレの肩を叩いた。「オリンピックマジック」とはなんとも彼らしいお粗末な表現だったが、まさかそれが本当になるとは。

「ダメッ、ここじゃ、」
腰回りをまくり上げて股間に手を伸ばそうとしたオレを、彼女が制した。オレたちの目の前真正面で戦いを終えたノーマルヒルとラージヒルが寡黙な輝きを放っていた。

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 にわかには信じがたかったが、チェックインのあと、近くのメキシカンバーに飲みに行ったオレたちは、そのまま酔いに任せて一対一でシケ込むことに成功した。オレの相手は美人の彼女だった。しかもあろうことか、彼女のほうから、「ジャンプ台に行ってみない?」と誘ってきたのだ。
オレは再び彼女と唇を重ね合わせた。口づけがこんなにも甘いものだと初めて知った。つわものどもが夢のあとか、辺りには人工降雪機の無機質な機械音が響きわたっているだけだった。場所も気候もわきまえずに燃えたぎったオレは、再び彼女の股間に手を伸ばした。
「イヤッ、ダメだって! 風邪引いちゃうよ」
そう言いつつも、彼女の吐息は正直だった。ノーマルヒルとラージヒルを横目に、オレは彼女のクビレに両手を掛けた。



 大学卒業後、オレは地元・宇都宮市内の施工会社に就職した。地元ではそれなりに名前の通った中小企業だったが、しかし、そこはまさに社会のハキダメだった。「鶏口となるとも牛後となるなかれ」―大手に入られなかったやつの負け惜しみに過ぎない諺だが、それでも、在学中に取得したいくつかの技能資格が少なからず活かせるのを期待していた。しかし甘かった。来る日も来る日もゴミのような雑務に追われるばかりだった。
 社内の風紀も限りなく乱れていた。さして絶対数の多くない老若男女のほとんどが、いわゆる出会い系サイトにうつつを抜かしていた。職場で人目を盗んで、あるいは人目をはばからず、誰彼となく携帯電話を片手に親指の鬼になっている光景を見るにつけ、また話題といえばほとんどそればかりの会話を聞くにつけ、吐気を催すほど不愉快で、いつしかオレは残業もほどほどに毎日脱兎のごとくオフィスを飛び出す毎日だった。
 馴れ合いの会社だった。もともと経営者一族の縁故を頼りに従業員を雇って仕事を取ってくるような会社だから、緊張感の欠片もなかった。「月給泥棒」と揶揄されるような名誉職だけの年輩社員がやたらいるのも、オレたちのやる気を削いでいた。副社長もその一人だった。彼の仕事といえば、午前中花壇に水をやって午後ソファーに腰かけて新聞に目を通しながら景気の動向をグチるぐらいしかなかった。
「今頃、彼女はどうしてるだろう。」
デスクや出先で、オレは仕事の手を休めてはあの日の白馬を想った。



「どうしたの?」
彼女がオレに振り向いて不審そうに尋ねた。

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彼女の下半身にオレのをあてがおうとした瞬間、オレが動きを止めたからだった。いきなり萎えてしまったのだ。なぜに? 寒かったから? 体勢が悪かったから? たしかにそれもあった。そもそも、女の子のカラダというもの、特に下半身に対して免疫がなさすぎた。何しろ、童貞でこそなけれ、女の子とまともに付き合ったことが一度もなかったのだから。
そしてそれ以上に、原田雅彦のことを思ったからだった。先刻までこの場所で繰り広げられた歓喜と感動がとっさによみがえり、同じ場所で下半身をあらわにしている自分がとてつもなく恥ずかしく汚らわしく思えてきた。
「なんか、よくわかんないんだけど…」
ホテルに戻ってもオレたちは仕切り直しもなく、結局、そのまま連絡先も聞かずに翌日、別れてしまった(ちなみにマサオのほうはあれから、ちゃっかり決め込んだとのこと)。



「イオカサン、マタポートシテルネ! キョウオヒルヌキヨ!」
上海人の陳さんがまたオレをからかいに来た。彼ら外国人労働者に日本語を教授するのもオレの仕事の一つだった。
「昼飯抜きでもいいから辞めたいよ、こんな会社」
「マタ、ソンナコトイテ! 私ダテヤメタイ、コナカイシャ!」
大学卒業後、オレは原田雅彦にあやかって新しい世界へ羽ばたくはずだった。 それなのに、なんなんだこのテイタラクは?! オレは自分自身が腹立たしくてならなかった。そして返す返すも、白馬でのあの一夜が歯がゆくて悔しくて仕方がなかった。

“あの日の白馬に戻りたい!”

オレの脳裏に長野オリンピックばかりが浮かんでは消えた。あの日あの時、白馬で誰よりも高く遠くへ飛んでいった原田雅彦の残像が。

 折からの建設不況の煽りを食らい、オレの勤める施工会社が倒産した。去年の暮れ、2001年12月のことだ。
 何らかの伝で別の同業者に拾ってもらうことは不可能ではなかったし、自ら地道に再就職活動をすることもできたはずだ。しかしオレはそれをしなかった。


 迎えた2002年1月下旬、オレは四年ぶりにここ白馬にやって来た。巷では日本選手たちの予想どおりの不調で、イマイチ盛り上がらないソルトレイクオリンピックの話題で持ちきりだった。そんな中、オレはある決意を秘め、四年前の五輪会場である、ここ白馬にやって来たのだ。
あの日あの時、ここで原田雅彦は誰よりも高く遠く、そして別世界へ飛んでいった。

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大学卒業後のオレも、誰よりも高く遠く、そして別世界へ羽ばたくはずだった。しかし、長野オリンピックから四年後、奇しくもオレがたどり着いた別世界は、原田雅彦が降り立ったまさにこの場所だった。
“あの日あの時あの場所での無限の快感と興奮、歓喜と感動の記憶を、1998年2月17日の白馬ジャンプ競技場での原田雅彦の残像を、再びリアルに甦らせてそれを心のよりどころにするしか今のオレには生きるすべがない”
そんな悲壮感の一切合切を断ち切り、オレの現実と決別するためだった。
“所詮はこれが現実なのだ。長野オリンピックの無限の快感と興奮、歓喜と感動は偽りで、原田雅彦の大ジャンプはまやかしにすぎないのだ!”
そんな偽りとまやかしを断ち切って現実と決別しなければならない。ノーマルヒルとラージヒルを爆破しなければならない。オレはそう決意した。

 1月末の白馬行きから宇都宮に戻って二ヶ月半、オレはどうやったらノーマルヒルとラージヒルを爆破することができるのか研究に研究を重ねた。その結果、技術的にはそれが可能であることがわかった。何しろオレが四年間勤めた施工会社には発破・粉砕部門があり、オレは甲種火薬類取扱保安責任者の資格を異例にも取得したのだ(それが唯一のモチベーションだった)。だから現時点で取り急ぎ必要なのは、現地における実地見聞、そして何より軍資金である。そこでオレはゴールデンウィークから白馬に住み込みで働くことにした。いわゆるリゾートアルバイトというやつだ。
 求人誌のリゾートアルバイト特集でそのホテル、パイプのけむりを見つけた。他のリゾート地と同じように、そこでもゴールデンウィークのかきいれどきにパートタイマーおよびアルバイトの大幅な人員補充をし、その中の数人を夏季の行楽シーズンから冬季のスキー・スノーボードシーズンの終了まで継続して雇用する。オレもその一人となったわけだ。いくつか採用をもらった中からそこを選んだのは、そこが白馬ジャンプ競技場に一番近かったこと以上に、他でもない、そこが四年前あの彼女とニアミスに終った一夜を共にしたホテルだったからだ。

 2002年4月下旬の昼下がり、オレはJR大糸線白馬駅のホームに降り立った。

「なんでまた白馬なんかに? リゾートバイトだったら箱根とか軽井沢とか、他にマシなところいっぱいあるのに」

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ホテルパイプのけむりに着いてすぐの顔合わせで、支配人から開口一番尋ねられた。
「実はノーマルヒルとラージヒルを爆破したくて」などと言えるわけがないので、
「オリンピックを見に来てから白馬が気に入ったので」と無難に答えておいた。
「なるほどねぇ」
投げやりにうなずく支配人だったが、まるで他人事のような彼の口ぶりに多少面食らった。
 一通りの紹介と説明が終ると、仕事は翌日からだったので、オレはさっそく白馬ジャンプ競技場へ向かった。ほんの数分の道乗りにもかかわらず、歩き出したオレの足どりは重たかった。なぜなら、支配人の先の一言がいきなり妙な説得力を帯びてきたからだ。
“ここがホントにあの白馬なのか?”
そんなしらけた言葉が思わず口をついて出そうになったほど、オレの四方の景色は長野オリンピックの当時と明らかに様変わりしていた。白馬駅の周辺から八方の旅館街にかけて人通りが驚くほど少なく、逆に多いのはシャッターの下りた、あるいはすでに廃屋となった飲食店や土産物屋、そして乗客待ちのタクシーだった。所々にある長野オリンピックのメモリアルペナントがかろうじて当時の面影を留めているものの、そこには活気のかけらもなく、ひどく肌寒さを感じるくらいだった。
ノーマルヒルとラージヒル、二つのジャンプ台は四年前と何も変わっていないはずだった。しかし、スタートゲートの真上にあるはずの夕陽はすでになく、借景のごとく向かって左側に迫真の山肌を見せるはずの唐松岳と五竜岳も、心なしか当時より遠くにあるように見えた。そしてその頂を覆っていた雨雲が次第に下へ下へと広がり、あっという間にオレの立つ二つのジャンプ台の真下まで包み込んだ。濃霧に輪郭を奪われてゆくノーマルヒルとラージヒルを見上げながら、オレはそれらを爆破して現実と決別する決意を新たにした。
しかし翌日、その決意を立ちどころに無意味にする通達が下された。
「井岡くん悪いんだけどさぁ、この連休、お客さんの入りが予想以上に思わしくなくてさぁ。このままだと夏休みも相当苦戦すると思うんだわ。そこで申し訳ないんだけど、このままここにいてもほとんど仕事がないから、この連休から、しばらく白樺湖店に行ってもらえないかなぁ? もちろん、遅くとも冬にはこっちに戻ってきてシーズンいっぱいやってもらうつもりだし、白樺湖までの往復の交通費も出すから」

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支配人の言っている意味が即座に呑み込めなかったが、白馬から離れなければならないとわかると、オレは顔色を変えないまでも、内心は拒絶反応が甚だしかった。
「白馬を選んで来てくれたのにホントに申し訳ないんだけど、そうしてもらうとこっちとしても助かるんだよねぇ。どうしても白馬で別のバイト先探すっていうなら仕方ないけど」

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第二章白樺湖 前編 ハーレム1

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白馬から白樺湖に移動になったオレが、アルバイトの女の子たちとヤリまくる。苦節三十年、モテないはずのオレがなぜ?

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JR中央本線を茅野駅で降り、車山高原行きの路線バスに乗る。八ヶ岳連峰の最北端、すり鉢を逆さまにしたような標高2,530メートルの蓼科山を正面に見ながら茅野市街を北上し、大門街道こと国道152号線に合流するとまもなく、急勾配の葛折りが始まる。それを登りきると右手の蓼科山の下方に、西日を乱反射した紺碧の湖が顔を出す。
“白樺湖って、いったいどこだよ?”
白馬の支配人に話をされた当初は、あまりにも突然だったこともあり、まるでチンプンカンプンだった。白樺湖とは茅野市北山。八ヶ岳中信高原国定公園の一角にあるリゾート人造湖だ。パイプのけむり白樺湖店はその西湖畔、霧ヶ峰と車山高原の入り口に当たる高台にあった。

「夏場は年々極端にお客さんが少なくなっているけど、今年はどうやら致命的だね!」
白馬の支配人は言った。
「このままだと下手したらウチも夏場は廃業か…」
その一言でノーマルヒルとラージヒルを爆破する決意を新たにしたオレは、今朝、白馬を発つ直前に再びジャンプ競技場に足を運び、彼らにしばしの別れを告げると同時に無言の約束をした。
爆破を実現するためには白馬を離れてはならなかった。ゴールデンウィークから半年間、ノーマルヒルとラージヒルのお膝元で資金を蓄えつつ計画を練り、スノーシーズン直前の11月にセンセーショナルに決行するという当初の予定が大幅に狂ってしまうからだ。だから、白馬でほかのホテルを手当たり次第当たってみたが、パイプのけむりと同等の条件で通年採用してくれるところは一つもなかった。後ろ髪を引かれる思いで、オレは遠ざかる二つのジャンプ台に何度も振り返った。

「白馬から? 井岡くん?」
ホテルに着くと、まるでネズミ小僧のような四十過ぎの小男がオレを出迎えた。どうやらこいつが白樺湖店の支配人のようだ。
「よろしく、スグルッチ!」
およそ支配人らしからぬ軽薄を絵に描いたやようなその第一印象に、オレは早くも逃げ出したくなった。
従業員寮はホテルから3・4分、駐車場の坂を上ったところにあった。もとはどこかのペンションだったらしく、部屋に入ると広い窓から白樺湖と蓼科山が一望できた。まさに絶景。オレは白馬への未練が多少和らいだ気にもなった。ただ、気掛かりなことがあった。
「じゃあスグルッチはカントクと相部屋だな。カントクと。ヒヒッッ!」
「カントク、って?」

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軽薄な笑みを見せる支配人を睥睨しつつ、オレは尋ねた。
「いや、寮長は別にいるんだけど、どちらかというとヌシって感じだよね。とにかくスゴイやつだから、カントクは。ヒヒッッ!」
何がどのようにスゴイのか聞けずに上ってきてしまったが、この部屋にその片鱗が見えるようだった。その「カントク」なるやつのだろうベッド周りが、まるで漫画家か小説家の書斎のように、書籍と下着と段ボールの散乱が甚だしかった。そのときだった。突然部屋の扉が開き、スリムでスマートな若者が一人入ってきた。
「新しいバイトの人?」
慌てて書籍を元に戻すオレをよそに、そいつはズカズカと歩み寄ると、オレに片手を差し出した。
「前田といいます。ヨロシク!」
オレたちは握手を交した。こいつがカントクなのだろうか? それにしては「ヌシ」のイメージとはほど遠い好青年ではないか? 突然の自己紹介に呆気にとられながら、オレは恐る恐る尋ねた。
「オレ? オレはカントクじゃないですよ! カントクはこの部屋の古川っていう人です。オレは隣の部屋なんで」
やっぱりそうか。彼は、「前田ヒロノブです。T大学の一年生です」と自己紹介した。わざわざ新入りの顔を拝みに部屋に乗り込んでくる彼の図太さに若干閉口したが、それより問題はカントクだ!
「ところでそのカントクって、何の監督なの?」
「ああ、なんか映画監督志望ってゆーか、自主映画ずっとやってたらしくって。実はオレが付けたんですけどね。カントクって呼び名。山本晋也みたいなポルノ監督のイメージで」
なんだ。じゃあ映画研究会出身のオレとは気が合うじゃないか。
「とにかくスゴイやつだって支配人が言ってたけど、何がどうスゴイの?」
「それは、会えばわかりますよ。フフッッ。カントク今日たしか4時半から仕事だから、もうすぐ帰ってきますよ。今、白樺湖一周してんじゃないかな? とにかくあの人、暇さえあれば白樺湖一周してるから」
前田の薄笑いで、せっかく和らぎかけていた不審感が増幅した。はたしてそのカントクは、前田や支配人が言う以上にスゴイやつだった。

「どうもどうも、古川と申します」
それから約三十分後、オレはカントクと自己紹介を交した。彼の何がすごいかといえば、とにかくその容貌だ。映画監督というハイカラな商売にはおよそ似つかわしくない、不毛な頭髪。中年太りのみっともないお腹。

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センスのかけらもない黒縁めがねに、乞食と見まがうほどの穴だらけの上着。変質者すれすれのキワドイ目つき。あえて例えるなら、ガッツ石松を最大限下品にしたような、いや、それはガッツ先生に失礼だ。とにかく、いくらパントリー担当といえ、サービス業には規格外の容貌だった。さらに驚いたことに、彼はオレより一つ年下の二十八歳だという。最初は冗談かと思ったが、初対面で冗談が言えるような砕けたキャラクターでもなさそうなので、やはり本当のようだ。
“ブウッ!”
「失礼!」
いきなりカントクがオレにはばからず屁をこいた。そしてこの夜からしばらく、オレはカントクの桁外れなイビキと寝言(寝笑い)に悩まされることになる。

 チェックアウト後の午前10時からチェックイン前の午後3時までが客室清掃の時間だった。ホテルパイプのけむりでは客室清掃を外部の業者に頼ることなく、すべて身内の従業員で賄っていた。10時になると2階のリネン室に集合し、それぞれが担当を割り振られて一斉に作業に取り掛かる。
「じゃあ井岡さんは、今日は金田さんと二人でベッドメイクをやってもらいます」
新入社員の工藤雅也くんが采配を下した。オレは四人いる女の子の一人、金田ネエさんこと金田直子さん(二十六歳と、アルバイトの女性陣では最年長)にベッドメイクの手順を一から指導してもらうことになった。
「よろしくお願いします」
「えっ? あっ、よろしくお願いします」
オレが挨拶をすると、金田さんはやけにおどけて挨拶を返し、すぐに目を伏せた。
「いいなぁ、井岡くん! いきなり手取り足取りじゃねぇかよ!」
湖東地区からパートタイムで来ているシゲさんこと上嶋シゲジさんがそう言ってからかうと、金田さんは途端に顔を赤らめた。
「工藤さん! オレ、昨日もユニットだったじゃないっすか! 今日はメイクやらせてくださいよ!」
前田が工藤くんに噛みついた。
「いや、ユニットバスの担当になった人は、たぶん連休いっぱいはユニット専門でやってもらうことになるから」
「キタネェよぉ! じゃあ井岡さんはずっと女の子とメイクかよぉ!」
「つべこべ言ってないで行くぞ! オレと工藤くんなんか、去年の秋から半年間、ずっとユニットしかやらせてもらえなかったんだから。贅沢言うなよ!」
シゲさんがそう言って前田を諭した。業者を入れないならではの和やかな空気が、オレの肌に合いそうだった。

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 客室のアメニティーは考えられる限りの必要最小限のものだった。必要最小限の備品で客室清掃の手間を最大限に省き、従業員の負担を最小限にとどめようというわけだ。
「金田さんはどこから来てるんですか?」
ベッドメイクの指導が一通り終ると、会話を持て余さないようにオレは積極的に話しかけた。
「えっ? あ、私は塩原です。栃木県の。わかります?」
金田さんは相変わらずおどけて答えた。さっきからずっとこの調子で、とにかく控えめに控えめにオレに接している。
「わかるよ。だってオレの母親の実家が塩原だから」
「えっ?! ホントですか?!」
初めて金田さんの頬がほころんだ。それまであまりにも沈欝で無機質な様子だったので、その笑顔がとても新鮮に映った。

その日の仕事を終えると、オレたちは親睦会も兼ねて野郎ばかり四人で飲み始めた。話題はもっぱら女の子のことだった。
「スグルッチ、どうだった? 今日、金田ちゃんとのメイク」
十歳以上年下のくせに、前田は早くもオレにタメグチを聞いていた。しかし、それを気に咎めるほど、オレの器は小さくない。
「いや、どうって言われても…」
「なんか金田ちゃんって妙に暗くない?」
たしかに前田の言うとおり、金田さんは妙に暗かった。155cm足らずの上背を猫のように丸め、常に憂鬱そうに無言でうつ向いているというのが、今日一日ででき上がった彼女のイメージだ(ちなみに、顔は特に可もなく不可もない)。
「なんであんなに暗いんだろう? 工藤さん、なんでか知ってます? 一番つきあいが長いじゃないですか」
「いやぁ、つきあいが長いたってたかが半月だし、それに、なんで彼女が暗いかなんて、ボクに聞かれても困るなぁ…」
噛んで含めるように答える工藤くんに、前田は不服そうに首を傾げた。
「それに、こういうところに働きにくる人って、何かしら内に抱えたものがある人が多いから、あまり詮索するのもどうかと思うけど」
「そうなんですか? じゃあ、工藤さんも何か内に秘めたものがあるんですか?」
「ボクは別にぃ…ただ地元で就職が決まらなかったから、気分転換にリゾートバイトもいいかなぁって来ただけだから」
「それでそのまま社員になっちゃった、と?」
「んー、まあ、そういうことになるのかな…」
「いいんですか? そんな安易な経緯で!」
「そりゃあ、ボクだって社員になるまで半年間、いろいろ悩んださ!」

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工藤くんはさすがにちょっとムキになった。彼は一浪半留で地元の岐阜大学を卒業し、一年間の就職浪人の後、ここに落ち着いたという{ちなみに、後に知ったことだが、六店舗(白馬・白樺湖・軽井沢・箱根強羅・同小湧谷・熱海)あるパイプのけむりの社員の大半が、この工藤くんのようなパターン。それだけ居心地が良いといえるかもしれない}。
「ふーうん。オレも結局、そんな安易な感じで就職しちゃうのかなぁ…」
前田はちょっと大人びた口許で言った。彼はまだ先月、高校を卒業したばかりの大学一年生だ。
「まぁ、人それぞれだからねぇ」
工藤くんは前田から目をそらしながら言った。彼は明らかに気分を害していた。
「カントクもやっぱり、何かイチモツ抱えてんの?」
前田の問いかけに、それまで澄ました様子で話を聞いていたカントクは途端に改まった。
「ボクは、あるねぇ…」
「なになに?? どんなイチモツ抱えてんの?? そのデカイ腹に」
「デカイ腹は余計だろう! 失敬なやつだなぁ!」
「カントク、何ムキになってんだよ?! バカじゃねぇ!?」
どうやらカントクは、容姿のことをからかわれるのが一番、逆鱗に触れるようだ。聞けば、初対面で軽薄な支配人に頭髪の薄さをツッコまれて硬直したらしい。
「バカとはなんだよ!?」
「まぁまぁ、」
「それで、カントクは何を抱えての?」
オレがお茶を濁すように尋ねた。
「えっ? それは、ヒミツ」
「なんだよもったいぶりやがって!! どうせ大したことじゃないだろ?」
「なんだよその言い草は?! まったく失敬なやつだなぁ!!」
「まぁまぁ、」
「とにかく、いいじゃない、ボクのことはどうでも。そのうち機会があったらで」
「なんだよ、そのうちって?! つまんねぇなぁ、カントク」
次はオレの番だろう。もちろんオレもイチモツどころかニモツもサンモツも抱えている。それをいかにかいつまんで説明すればいいのか? カントクのようにもったいつけてはぐらかすのは男らしくないが、かといって率直に白馬での謀略をしゃべるわけにはいかないし、白馬への思い入れから失業前後の経緯を時系列で述べれば、三人ともくたびれてしまうし。そもそもそれ以前に、白馬から白樺湖送りになったことがいまだ割りきれていない。叶うのなら今すぐにでも白馬に戻りたい。
「沢田さんは、何か抱えてるものあんのかなぁ?」

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ところが、前田はオレに振ることなく、そう言って考え込んだ。オレはホッとしたと同時にムッとした。
「さぁ? どうだろねぇ?」
「ぶっちゃけオレ、沢田さん気に入ってるんだよねぇ」
沢田さんとは四人いる女の子の一人で、聞くところによると、奈良出身の二十五歳。余計なお世話かもしれないが、常識的に考えて前田とは絶対に釣り合わない。
「とにかく、オレの今後の目標は、沢田さんと仲良くなること、それから、金田ちゃんを元気づけることだぜ!」

ホテルパイプのけむりは朝食も夕食もバイキング形式を採っていた。初めてレストランに入ったとき、オレは絶句した。そこで出される料理の一切合切が、いわゆるレトルト食品だったからだ。そこには季節の味覚や信州の山の幸があるわけでもなく、飲食業の経験どころか自炊すらまともにしたことのないオレでさえ、容易に要領を得られるような、つまりはすべてが段取り作業でしかなく、これっぽっちも料理とか調理とか呼べるような代物ではなかった。所詮飲食業なんて、おおむね段取り作業じゃないか、と言われれば身も蓋もないが、それにしても限度というものがあった。しかし、さらに絶句したのは、そんな最低の食事を”おいしい! おいしい!”と笑顔で食べる客が決して少なくないことだった。ホテルもホテルなら客も客。つまり、大半の客がコンビニやファミレス、ファーストフードなど、まがい物の食品ですっかり味覚が麻痺しているので、料理の良し悪しなどわかるはずがなく、ホテル側はこの程度のものでも充分満足するだろうと見越しているのだ。解凍加熱だけのレトルト料理にプロの料理人が必要なはずがなく、二三人の若手社員にアルバイトを適宜補えば十分。破格の宿泊料金の最大の秘密はここにあった(しかし、決してこのパイプのけむりが特殊な例というわけではないだろう。程度の差こそあれ、どこのホテルでもおよそ似たようなことをやっているはずだ)。
オレはとりあえずホール担当になった。ホールといってもたかが知れている。満室で三百席足らずの客の誘導、十数種類の食材と五種類の食器の補充と片づけ、おおむねその程度だ。客室清掃でも触れたように、パイプのけむりは従業員に極めて優しいホテルだ。それが良いか悪いかの議論はさておき、とりあえずオレのような無責任なアルバイトにはもってこいだった。
工藤くんがホールチーフで、「クッキー」

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こと久木野加奈子、茅野市内から通いのパートできている新妻サーファーの宮野尾瑞枝さん、そしてオレのアルバイト三人が、彼の補佐をするという体制になった。
「スグルッチ、ほら、ボヤボヤしてないで!」
看護婦上りのクッキーは鹿児島出身の二十三歳。土地柄とその角の立つ本名にふさわしく、言葉も行動も極めて鋭利で機敏だ。彼女は決して美人ではないどころか、むしろブススレスレだが、スレスレなりの魅力、つまり、顔形のハンデを補って余りある個性と知性の輝きがあった。実際、勤めてまだ半月足らずなのにホールの仕事を完璧にマスターし、チーフの工藤くんが彼女の指示を仰ぐこともしばしばだった。
「古川さん、拭き終ったお皿、なるべく自分で前に出してもらえます?」
クッキーは洗い場や厨房にもくちばしを入れる。ときには鬱陶しいこともあるのだが、そのくちばしが毎回、的を射ているので文句の付けようがない。それでも、文句を言うやつはいる。
「いつ持ってけってんだよ? そんな暇ないだろ、こっちは!」
クッキーが表に出たのを確かめてカントクが愚痴った。
「だからカントクさぁ、もうちょっと早くお皿拭き終わればいいんだよ!」
前田とカントクが洗い場の担当だった。ベルトコンベア式の洗浄機の左右に分かれ、前田が食器を擦って流し、カントクが受け取って拭いていた。
「これ以上、どう早くやれってんだよ?!」
オレが洗い場に立ち寄ると、二人はいつも口論していた。飲食業でのアルバイトが初めてというカントクのドンクサイ、というより、年寄りくさい動作に苛立った前田が発破をかけ、それにカントクが反発するというパターンだった。
「カントク遅い! 替わろう! これじゃ、コンベアが止まってばっかでどうしようもないわ!」
十歳近く年下の前田にやかましく言われるのが癪に触るようで、もともと目つきの悪いカントクの形相が、次第に赤鬼のようになっていった。

「ヘァァン…」
頼りない頭部に手拭いを乗せたカントクが、頼りないため息をついた。一日の仕事を終えると、オレたち四人は揃って風呂に入るのがいつしか習慣になっていた。白樺湖の夜景(さほど見るべきものでもないが)が一望できる露天風呂で、高原の夜風に当たりながらまったりと過すのが、ささやかな至福のひとときだった。
「使えないやつだと思われてんだろうなぁ…」
ため息に続いてカントクが今日一日を愚痴った。

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このところ、カントクは口を開けば愚痴というような有り様だった。
「何シケたため息ついてんだよ? カントク!」
前田が毎度のようにカントクに突っ込んだ。
「いやさっ、使えないやつだと思われてるだろうなぁ、ってね」
「使えないも何も、皿早く拭けばいいだけの話じゃん!」
「それができないから落ち込んでんだろっ!」
「なんでできないの?」
「ヘァァン…」
カントクがまた頼りないため息をついた。
「まあ、人それぞれ得手不得手ってのがあるからねぇ。だけど、まだ仕事始めたばっかりで慣れてないってこともあるし、そんなに落ち込むことないと思いますけど」
工藤くんが独特のソフトな語り口でカントクを慰めた。カントクの愚痴に対して前田がツッコみ、工藤くんがフォローし、オレが静観しつつも、時折コメント(比較的前田寄り)を挟む、というのがこのところの図式になっていた。
「でもさっ、マエピーだってボクと同じ時期に仕事始めたわけだしさっ、スグルッチなんかボクより後から入って、しかもボクと同じで、こういう仕事初めてだっていうじゃない」
「まぁ、個人差ってのがありますから」
「そんな難しく考えないで、とりあえず、ひたすら皿拭けばいいんじゃない?」
前田の調子に合わせるようにオレが言った。するとカントクは煮えきらなさそうに呟いた。
「なんなんだろうね。たぶん美意識の問題なんだろうね」
「ハァ???」
カントクの突拍子もないセリフに、オレたち三人は思わず呆気にとられた。その面構えから、よもや美意識などというハイカラな単語が飛び出すとは。
「何カントク、美意識って?」
すかさず前田が突っ込んだ。
「いやねっ、みんなはそう言うけどさ、ボクは嫌なんだよね。水滴が残ったままお皿を渡すのは。一滴も残らず拭き取らないことには、ボクの美意識が許さないんだよね」
「そ、それは…」
“ただの言い訳だろう!”と工藤くんは言いたげだったが、開いた口が塞がらなくなっていた。さすがの前田も絶句していた。当然だろう。面構えはともかく、カントクのベッド周りを見れば彼の言う美意識がデタラメなのは一目瞭然だ。そして、翌日からパイプのけむり内で「美意識」が俄かに流行語となった。


ゴールデンウィーク初日に、ちょっとした事件があった。
フロントクロ―ズを終えて寮に戻ると、何事かやけに騒然としているではないか。

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「スグルッチ大変だよ! 沢田さんがいなくなっちゃたよ!」
前田が息咳切らせて駆け込んできた。なんでも、夕方六時にフロント業務を終えて寮に戻ったはずの沢田さんが、荷物共々忽然と姿を消したという。とにかく、探しに行こうと前田は言う。すでに彼以外の面子は、宮野尾さんの車に同乗して沢田さんを連れ戻しに出かけたという。
「なんか、よりによってオレ一人、置いてけぼり食らっちゃってさぁ!」
前田は嘆いたが、オレは無駄なことだと思った。いたくないから逃げ出したわけで、それをわざわざ皆で大挙して連れ戻そうとするのは、お節介にもほどがあるというか、まるで不登校の児童の自宅にクラス全員で押しかけるような愚の骨頂だ。第一、リゾ―トアルバイトではありがちなことではないか。
「そりゃぁ、オレだってわかってるよ! だけどオレの場合ちょっと事情が違うじゃん!」
沢田さんにホレているからと前田は言う。それこそ迷惑な話じゃないか! と思ったが、こういうときには何を言っても埒が明かない。仕方なく前田につきあって沢田さんを探しに出かけたが、見つかるはずがなかった。
翌日、「辞めます」と、彼女から事後報告の電話があった。すでに昨日のうちに奈良に帰ってしまったという。
「いったいキミは何を考えてるの? いや、ハイじゃなくて、何を考えてるのって聞いてんの! ねえ?」
口の悪い支配人がここぞとばかり、受話器に向かって罵詈雑言を浴びせた。後に聞くところによると、沢田さんが逃げ出したのは、どうやら支配人のこの口の悪さが一番の原因らしい。オレにしてみれば、それが彼の親しみやすさになるのだが。
「もうダメ。やる気半減…」
沢田さんの失踪で、前田はかなり気落ちしてしまった。
「ヘッ、いいねぇ学生さんは、気楽で」
前田の対面で、カントクが皮肉たっぷりに呟いた。前田がそれを黙殺したのでカントクは一瞬殺気立った。前田のお気楽さはさておき、沢田さんがいなくなって直接の影響を被ったのはオレだった。彼女の穴埋めで、オレはレストランからフロントに部所移動になったのだ。
「じゃあ金田ちゃん、スグルッチにフロントの仕事、一から教えてあげて。手取足取り。ヒヒッッ!」
支配人は相変わらずの軽薄ぶりだが、オレは、
「いや、すでにベッドメイクで手取足取りしてもらってるんで」と適当に同調しておいた。
「愛のメイク? 愛のメイク?」

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しかし、あまり調子に乗りすぎると、口の軽い支配人が根も葉もない噂を吹聴して金田さんに迷惑がかかりかねないので、ほどほどではぐらかさねば。
「さぁ、どうでしょう? 金田さんに聞いてみないことには」
「金田ちゃん、メイクラブ? スグルッチと?」
支配人はそう言ってすぐそばにいた金田さんに迫った。
「えっ? いやっ…」
たちまち金田さんは顔を赤らめて言葉を詰まらせた。
「あれぇ? 真っ赤になっちゃって! ますます怪しいなぁ!」
支配人の鬱陶しいツッコミに金田さんは本気で恥じらっているようだった。シゲさんに冷やかされたときもそうだったように、イマドキの女の子にしては珍しい純情派の金田さんを、オレは(ひょっとして純情ぶっているだけか? という疑いも含めた)好奇の目で見やった。すると彼女は例の伏し目がちの視線でオレと目を合わせると、ますます恥じらいがひどくなった。これが彼女の地なのだろうか? それにしても、どうしてそこまで恥じらう必要があるのか、オレはちょっと不思議だった。

 ゴールドラッシュ。そんな言葉が陳腐にも当てはまるほど、ゴールデンウィークの入れ込みは凄まじかった。
「カントク、遅い!」
「うるさいなぁ! 一所懸命やってるだろ!」
洗い場の前田とカントクは相変わらず激しくやり合っていた。
「ブチョー、スパゲティーもうほとんどないよ! 早く厨房に伝えないと!」
「あー、ハイハイ」
いつのまにか工藤くんは「レストラン部長」になっていた。もちろん、呼び名だけの非公式なものだが。その部長が部下のクッキーに叱咤されてキリキリ舞いになるのだから、滑稽といえば滑稽だ。そしてオレは金田さんと、俗に「通い組三人娘」と呼ばれるパートの三船深雪さん、市川伊知子さん(冗談みたいな名前だが本名だ)、清水静さん(偶然なのかわざと揃えたのか、三人とも妙に名前の語呂がいい)たちに囲まれたフロント業務は、笑顔が絶える間のないほど楽しかった(ただし、支配人の鬱陶しさは相変わらずだが)。特に清水さんは往年の岡田茉莉子を彷彿とさせるような美貌の持ち主で、オレは年甲斐もなく浮ついた気分になった。
しかし、もっと年甲斐のないのがシゲさんで(五十代半ば)、普段は口から先に生まれたかのようなおしゃべりでベッドメイクをやっているくせに、清水さんと組んだ途端に貝のように神妙な顔付きになるので、オレがそれを冷やかすと、

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「何言ってんだよぉ?! まじめに仕事しろよぉ!!」と顔を真っ赤にしてムキになった。しまいには冗談か本気か、
「清水さんと不倫してぇ!」と、とんでもないことを言い出した。恐らく半分以上本気なのだろう。なぜなら、
「男は不倫してなんぼだろう!」などと普段から豪語しているように、彼は過去に何度も不倫経験があるらしい。しかも奥さんの親友と関係を持ったのがバレて大変な目に遇ったことが一度ならず二度もあるという、まるで『金妻』を地で行くようなシゲさんは、今でこそただのスケベ親父だが、若い頃はきっとモテたのではないか。決して二枚目ではないが(むしろ猿顔)、ロカビリーっぽい風貌で(ルパンかエルビスかというモミアゲの持ち主)かなかな女好きのするタイプだ。
「不倫がバレたときこそ男の真価が問われるんだぜ! ダメなやつはそれでお陀仏だけど、オレみたいなイイ男だと、逆に夫婦仲が燃え上がったりするからなぁ!」
シゲさんは自慢気に言う。なるほど、あながちそれも否定できない。それにしても、限度というものがあるだろう。その理屈でいえば、今回も夫婦間のカンフル剤として清水さんと不倫をするというのか?! そんな都合のいいことさせてたまるか! オレはシゲさんに妙な対抗意識が芽生えてきた。先んずれば人を制す。そこでちょっと一計を案じた。
「エエッッ?? それはちょっと…」
工藤くんは当惑して返事を濁した。オレは、ベッドメイクで優先的に清水さんと組めるように仕組んでくれないかと、こっそり工作したのだ。しかし、予想以上に彼の反応は渋かった。それもそのはず、工藤くんは苦虫を噛み潰すかのように言った。
「いやぁ、実はですねぇ、すでにシゲさんからも同じことを頼まれてるんですよねぇ」
“しまった! 先を越されたか!”
まるでKか先生かのような勢いで舌打ちをするオレだったが、シゲさんもシゲさんで相当セコイ。いったい、いつの間にそんな秘密工作をしたのか? まったく、隅に置けないというか、抜け目がないというか。
 結局、シゲさんにしてやられた形になったオレは、ゴールデンウィーク期間中、一度も清水さんとペアになることはなかった。その代わりと言ってはなんだが、通算で半分以上金田さんとペアになった。正直、ちょっとがっかりだった。味もそっけもない金田さんなら、ゲテモノ食いでクッキーのほうがまだマシだった。

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「スグルッチ、バイク乗れるよね? 連休明けに私、こっちで新車買うから、そしたらマエピー(前田)に借りて一緒に走りにいこうよ!」
一度だけクッキーとペアになったが、そのときの彼女は、金田さんとは打って変わって盛んにオレにコミュニケーションを求めてきた。
「おう! 行こうぜ!」
いくらゲテモノでも食い物がないよりかはマシだと思い、オレは積極的に食いついた。その雑食ぶりが後々思わぬアダとなるのだが。

 ゴールデンウィークといえどもここは標高1,500メートル超の高原リゾート。西日が陰ると時折、冷蔵庫を開けたかのような吹き抜ける。何しろ、所々にまだ残雪が見られるのだ。
 夕方からのフロント業務に就くべく寮の坂を下っていたところ、前方から背中を小さく丸めた女の子が一人歩いてきた。金田さんだった。
「あっ、お疲れさまです」
彼女はいつものように恥じらい気味に挨拶をした。
「休憩? どこ行ってたの?」
「えっ、ちょっと、白樺湖一周」
“なんかカントクと似たようなセンスだなぁ。”と思いつつオレは続けた。
「へえぇ、よく一周するの?」
「うん。暇なときは。時間があれば逆回りにもう一周したりするけど」
「カントクと気が合うじゃん! つきあえば?」と思わず言いそうになったが、やめておいた。口は災いのもと。彼女はとても冗談が通じそうなタイプではない。
「これからフロント?」
彼女が尋ねた。オレはうなずいた。
「私、5時からだから、あと一時間後に、また」
そう言って彼女は頬を赤らめた。別に深い意味で言ったわけではないだろうが、オレはとっさに行間を読んだ。そしてお茶を濁すように続けた。
「そういえば、前田が、金田ちゃんを元気づけるために白樺湖の白鳥に乗ろうって言ってたよ。近々誘われるんじゃん?」
「えっ? 二人で?」
「さぁ? たぶん」
「そんな、スグルッチも一緒に来て! 私を一人にさせないで!」
そう言って彼女はオレの袖を軽く摘んだ。彼女は初めてオレの名前を呼んだ。その新鮮さもさることながら、まるで哀願するような彼女の視線に、ちょっとドキッとさせられた。

「昨日までに気ついたことを言うと、ハンガーの向きが揃ってないとか、スリッパの種類がバラバラだとか、鏡の手垢が拭いてないとか、いろいろ問題はあるけど、もう今日は無礼講ってことで!」
シゲさんの総括で、この日の客室清掃は始まった。

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どこの行楽地でも同じだが、5月5日になるとガタッと宿泊客が減る。勢い、5日のチェックアウトが過ぎれば、あとは野となれ山となれ、みんながみんな妙なハイテンションになる。
「やったぜ! ついに二分の壁、破ったぜ!」
前田が吠える。ユニットバスを一部屋二分以内で洗い終えたというのだ。マニュアルどおりまともにやれば、よほどのベテランでないかぎり少なくとも五分はかかる。マニュアルを無視してハショれるだけハショったとしても三分は必死だ。だから前田が二分で終えたというのは、手抜きというより、もはやヤケクソだ。
「清水さん、オレと不倫しない?!」
ヤケクソがもう一人。シゲさんが清水さんとの最後のベッドメイク(清水さんはゴールデンウィークのみの短期アルバイト)でついに切り出した。
「オホホホホッ…」
岡田茉莉子なら”アホッ!”と一喝されて終るところだが、清水さんは上品に哄笑してはぐらかした。
「いや、オレ、本気だからさぁ!」
「オホホホホッ…」
いくら三割弱冗談とはいえ、少しは時と場所をわきまえろよ! と言いたくもなるが、つまりはこれも無礼講ということか。
「アベちゃん、今度合コンしようよ!」
こうなりゃオレもヤケクソの無礼講だ! 清水さんと同じく短期で来ている女子高生二人組の一人、アベちゃんこと安部美沙に、オレもベッドメイクついでに持ちかけた。
「エーッ! 合コンですかぁ? マジでぇ?」
「マジ! マジ! 合コン! 合コン!」
「お疲れさまです。」
金田さんが部屋に入ってきた。珍しく今日、彼女はユニットバスのようだ。彼女は相変わらず冴えない。それに気のせいか、今日は少し不機嫌な様子だ。よっぽどユニットが嫌なのだろうか?
「合コンっていつやるんですかぁ?」
「そうだねぇ、明日辺りどう?」
まったく、ヤケクソだ!

つつがなく終るかに見えたゴールデンウィークだが、最後の最後でスッタモンダに見舞われた。しかも、その引金はこのオレだった。
通常なら3時に終る客室清掃だが、連休明けならではのシフト調整で、オレとカントクとアベちゃんともう一人の女子高生、千と千尋こと原田千尋の四人が残って三十分だけリネン室でアメニティー(備え付けの品と言えばいい)の補充をしていた。
「あれっ? カントクは?」
しばらくして気がつくと、カントクの姿が見当たらない。
「カントクどこ行ったの?」
「さぁ?」

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「わかりません。」
女子高生二人も知らない。いったいどこで油を売っているのか?
「ちょっと廊下に出てさぁ、オジサーァン!って呼んでみなよ」
オレはアベちゃんにけしかけた。すると彼女はなんのためらいもなく、
「オジサーァン!」と、言われたとおりの大声でカントクを呼んだ。
「オジサーァン!―やっぱいないみたいですね」
「じゃあさぁ、あいつが戻ってきたら、オジサンどこ行ってたの?って聞いてみなよ」と、続けてけしかけた矢先に、カントクがひょっこり戻ってきた。
「あっ、オジサンどこ行ってたの?」
「…」
カントクが固まった。瞬間風速300メートルで気まずい空気が流れた。
「だ、誰がオジサンなんだよぉ!?」
カントクは顔面を引きつらせてアベちゃんに迫った。
「だ、だってスグルッチさんがそう言えって言ったんだもん!」
脅えたアベちゃんが弁明すると、カントクは物すごい剣幕でオレを睨んだ。
「オレは言ってないよ!」
カントクの剣幕に押されたオレは、とっさに偽証してしまった。
「ズルイ! 言えって言ったじゃん!」
「いや、まあ、冗談だから。それに、」
「許せん…」
オレの釈明を聞くまでもなく、カントクはそう一言吐き捨てて踵を返すと、またどこかに行ってしまった。
“どうせまたいつもの石頭だろう”とオレはたかをく繰っていた。 しかし、カントクはそのまま、終業時刻になっても戻ってこなかった。

「スグルッチ、マズイですよ。カントク、本気でキレてますよ」
工藤くんが真顔で耳打ちした。今夜はレストランを貸し切ってでゴールデンウィークの打ち上げが催される(ちなみに、今夜は宿泊客が一人もいない)。その前に一緒に一風呂浴びようかと工藤くんを誘ったところだった。なんでもカントクはあの後、腹立ち任せに車山高原まで一人歩きしたという。そして少し前に戻ってきてさっきまで工藤くんの部屋で、
「スグルッチはヒドイヤツだ!」と散々オレの悪口を当たり散らすので、
「とりあえず、スグルッチが戻ってきたら一緒にお風呂に行こう」となだめてみたが、
「もう顔も見たくない!」と吐き捨てて出て行ったという。
「とりあえず、謝っておいたほうがいいと思いますけど」
工藤くんは事態を憂慮しているようだが、オレは謝る気など毛頭ない。馬鹿ばかしい。たかがあれしき、職場放棄までして目くじらを立てることか!

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「しなっやかぁに歌ってぇ、寂しいときはぁ♪ しなっやかぁに歌ってぇ、この歌を♪」
工藤くんと風呂場に入ると、露天風呂から山口百恵が聞こえてきた。カントクだった。なんだ、言うほどのことじゃない。いたって上機嫌じゃないか! そこでオレは先ほどの「オジサン事件」などまるでなかったかのような気安さで、
「よーるはぁ、三十三のぉ♪ カントク、車山まで歩いて行ったんだって?」と歌いながら話しかけて露天風呂に入っていった。ところが、カントクはオレの顔を見た途端にピタッと歌うのをやめたかと思うと、プイッとオレにメンチを切って風呂から出ていってしまった。
「アハハハッ! カントク、ケッサク!」
そんなカントクの様子を見て前田が大爆笑した。
「カントク、わかりやす過ぎ!」
前田は大喜びしているが、オレは唖然、工藤くんは“ほら言わんこっちゃない”で思いのほか調子が狂ってしまった。

「ボクはオジサンと言われたことに腹を立ててるんじゃないんだ! 女子高生を利用してボクを貶めようとするスグルッチの卑劣なやり口に腹を立ててるんだ!」
「卑劣なやり口って、ただの冗談じゃねぇかよ!」
「いや、あれは冗談じゃないね。明らかにボクを貶めようという悪意に満ちてたね。だから、ボクはもうスグルッチとは口も聞きたくないし、顔も見たくないんだ!」
「カントク、器小さすぎ! そんなんで映画監督なんかなれんのかよ?」
「いいんだよボクは、器が小さくたって! 器の小さな映画監督だってたまにはいるだろっ!」
「カントク、ホント、ガキだな」
「いいんだよ、どうせボクはガキだから!」
以上が、カントクが前田に喋った一部始終。オレは開いた口が塞がらないというか、ほとんど絶句。工藤くんは苦虫を噛み潰して頭を抱えた。
「やっぱり謝っておいたほうがいいんじゃ?」
「謝るこたぁないでしょ! だってあの女子高生たちかすれば、カントクもスグルッチもオジサンじゃん! ましてやカントクはあのツラだし」
「あのツラだから、でしょう」
「そんな、ツラのことからかわれていちいちムキになってたらどうしようもないでしょ! むしろ自分でツラのことネタにしてみんなを楽しませるくらいじゃなきゃ、とても映画監督になんかなれないでしょ!」
若いのに前田はなかなか的を射たことを言う。
「そりゃぁ、マエピーやスグルッチはそれなりに男前だから。

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ツラのマズイ人にしかわからない気持があるのさ。ボクもどっちかってゆーと、あまりいいほうじゃないし」
そう言う工藤くんはスネオとラーメンの小池さんを足して割ったような面構えだが、決してマズくはない。
「じゃあ何、ブチョーも女子高生にオジサンって言われて、それがオレとかスグルッチの差し金だったら、やっぱりカントクみたいに激怒するの?」
「それは、わからないけど。まぁ、明らかに悪意があれば怒るかもしれないけど」
「で、スグルッチに悪意はあったの?」
「悪意も何も、ただの悪ノリなんだけど。無礼講の延長で。なんであそこまで怒り狂うのか、オレの常識ではちょっと理解できないね」
「たしかにカントクは常軌を逸してるからなぁ。中身も外面も」
オレは支配人が開口一番に言った「スゴイヤツ」の意味がようやく身に染みてわかった。
 打ち上げパーティーが始まった。カントクには頃合いを見計らってお酌がてら適当に謝っておけばいいだろう、ということでオレは無礼講納めに臨んだ。
「あぁあ、ここに沢田さんがいればなぁ」
「まぁまぁ、そんな過ぎたことを」
前田は少しがっかりしながらも、若さに任せてお酒とおしゃべりを進めた。
「ねぇ清水さん、オレと不倫しようぜ!」
シゲさんが性懲りもなく清水さんを口説き始めた。こうなりゃ、さすがに黙って見ているわけにはいかない。
「清水さん、シゲさんみたいなオジサンは放っといて、オレと清く正しい交際しませんか?」
オレは、いけしゃあしゃあとシゲさんと清水さんの間に割って入った。
「な、なんだよスグルッチ?! オジサンとは失礼じゃないか!!」
シゲさんは一瞬本気でムッとしたようだが、それもオレはお構いなしだ。
「オホホホホッ…」
しかし清水さんは相変わらず上品に哄笑するばかりで、まるで暖簾に腕押し。まったく、岡田茉莉子さながらに掴みどころがなかった。そこでオレはいったん矛先を反らした。
「無理! 絶対に無理だから!」
新妻のパートタイマーである宮野尾さんが、オレのアプローチをむげに突っぱねた。シゲさんに倣ってオレは彼女に、
「オレと不倫しない?」と持ちかけたのだ。清水さんでも宮野尾さんでもどちらでもよかった。どうせヤケクソの無礼講なのだ。
「そんな堅いこと言わずにさぁ! 旦那が単身赴任中の期間限定でいいからさぁ!」
「いや無理! ホンット無理だから!」

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そんなオレの傍らで、クッキーが手厚く料理を盛ったりお酒を注いでくれたりした。まるで世話女房のような彼女の甲斐甲斐しさに、オレはすっかりいい気分になって酔っぱらった。
「チェッ、スグルッチのヤロウ、調子付きやがって。」
そんな言葉を噛み殺しながら、不機嫌にグラスを傾けているカントクの姿が横目に入った。カントクが憤るのも無理はない。何しろ、オレ自身が密かに仰天しているのだ。オレはいったい、いつからこんな「無責任男」になったのか?! あくまでもシゲさんの連鎖反応なのか、それとももともとそのような素養があったのか。とにかく、これまでのオレでは考えられないことだった。冗談でも女の子に面と向かって口説いたことなど一度もなかった。ましてや”今日はこの子か明日はあの子”でバタフライよろしく渡り歩くなど。それだけ砕けて開放的な職場であり、社員からアルバイトまで、まるで一つの家族のような、いや、今時の家族にはあり得ないほど強固な連帯感があった。
「何? 不倫談義? オレも仲間に入れてくれないかなぁ! ヒヒッッ!」
「支配人、アンタ来月挙式じゃねーか!」
「ん? そうだっけ? ヒヒッッ!」
万事こんな調子だ(ちなみに、支配人は来月、四十にしてようやく結婚する次第。それも十五歳年下で、アルバイトの女の子を引っかけたお約束のパターン)。退職した施工会社に比べたらまさにパラダイスだった。まったく陳腐な形容詞だが、それが決して侮れない事態に、まもなくオレは遭遇することになる。

「スグルッチ、よかったら、白樺湖まで散歩に行かない?」
縁もたけなわを少しすぎた頃、そう言ってオレを誘ったのは金田さんだった。彼女は最初こそ大勢の無礼講についていけず、一人で居たたまれなさそうに、あるいはカントクと二人であぶれ者同士肩を寄せ合うようにおとなしくしていたが、そのうち空気感染したのか、社内の「仮装大将」こと若手社員のシンタローくんが持ってきたザ・デストロイヤーの覆面を被って精一杯おどけてみせていた。思わぬ人の思わぬ誘いにオレはちょっと戸惑ったが、女の子のほうから夜の散歩に誘われたことなど初めてだったので、オレは大いに気を良くして彼女の誘いにうなずいた。
「ごめんね。いきなり誘い出しちゃって。もっとみんなと騒ぎたかったんじゃない?」
真っ黒な白樺湖を眼前に、金田さんはやたら改まって言った。

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「いや、別に騒ぎたいわけじゃないけど…」
騒ぎたいわけじゃないけど、一体全体改まっちゃってどうしたというのだ?? オレは今日一日ずっと無礼講のノリで来ていたので、彼女の改まった姿勢にちょっと調子が狂ってしまった。
「スグルッチが羨ましいな。あんなに思いっきりはしゃげて」
「いやぁ、シゲさんや前田に便乗しているだけだから」
「私、なかなかみんなの輪に入っていけなくて…」
もしやお悩み相談じゃあるまいな?! しみったれたのは勘弁してほしかった。せっかくの楽しい無礼講が台無しになるではないか。
「でも、」と、彼女は一呼吸して言った。
「スグルッチが来てから変わった」
とっさにオレは彼女から目を逸らしてしまった。彼女がオレになんらかの反応を促すような意図的な瞳をしていたからだ。いったい、彼女は何を言わんとしているのか? オレが来てから変わったとは、いったいどういう意味なのか? 彼女は言う。オレが来た途端に職場の雰囲気が良くなったと。俄かには信じ難かった。たしかに、支配人と妙に意気投合して半ばツーカーでやっているせいで、職場の角がとれつつあるのかもしれない。それでも、いわゆるムードメーカーということでなら、オレなんかより前田のほうがよっぽどふさわしいのではないか? しかし、それは違うと彼女は言う。
「たしかにマエピーはムードメーカーかもしれないけれど、スグルッチにはそれ以上に、足腰の座ったリーダーシップがある」と。リーダーシップ。やはり信じ難かった。ノーマルヒルとラージヒルを爆破するために白馬にやって来たはずが、いきなり白樺湖に回されて釈然とせぬまま働いているオレが、リーダーシップだなんて。
「そ、そんなことは…」
何か言わねばならなかった。しかし、オレは口ごもってしまった。いったい何を言えばいいのだろう。
「ほかのみんなもそう思ってると思う。たぶん」
はたしてそうなのだろうか?(少なくとも約一名は違う)たしかに、社員のシンタローくんを含めて住み込みの従業員中オレは最年長だ。しかし、だからといって自分がリーダー格だと思ったことはこれっぽっちもない。そもそもリーダーたるもの最低限仕事に対する責任感と積極的動機付けが必要なはずだ。仕事は苦ではない。楽でもないが、楽しみながらやっている。ゆえに心身の活力を言えば、苦痛と憂鬱以外の何物でもなかった前職とは雲泥の差だった。

<< 28 >>

しかし、責任感や積極的動機付けとはまるで無縁だった。
「みんなに聞いたわけじゃないけど、でも、少なくとも私は…」
彼女は小さく深呼吸し、少しうつむき加減で言った。
「スグルッチがいたからがんばれた。スグルッチがいたから…」
白樺湖の水面を洗った山風が、オレと彼女にまともに吹きつけた。突き刺さるくらいに冷たかった。突風でかき消された山の音が再びかすかに聞こえてきた。オレは後悔していた。誘われたときの彼女の目つきから、こうなることはある程度予測できなくもなかっただろうに。いや、たとえ予測できたとしても、無礼講真っ只中のオレが拒んだりしただろうか。つまりはこれも無礼講、適当に同調して抱きしめてキスしちゃえばいいのか。
「―金田さん、オレはそこまでの人間じゃないよ」
真っ暗な湖面を見つめながら、そう言うのが精一杯だった。
「スグルッチ二十九歳だよね? たった五つ違いかぁ、私と…」
彼女は意味深長な目つきでオレを見やったかと思うとすぐに目を伏せた。再び山の突風が吹きつけた。すっかり無礼講から覚めてしまったオレ。指先から爪先までほとんど常識的な感覚を取り戻していた。常識的な対応とはこのような場合、どうすることなのか? オレは必死で思案した。どこから聞こえてくるのか、相変わらず微かな山の音が…
「ぼちぼち戻ろうか。寒くない?」
そう言ってオレは腰を上げた。
四年前の白馬でのあの一夜を思い出していた。白馬での彼女と比較したら、まことに失敬だが、金田さんは数段落ちる。白馬での彼女とできなかったのに、ここで金田さんとできてしまっては嘘だと思った。だから、彼女の真っ向からの求愛を煙に巻くようでいささか心苦しいが、やはり、これが一番常識的な対応だった。彼女はちょっと物足りなそうにうなずいて立ち上がった。しかし次の瞬間、オレは我ながら思いがけない行動に出た。
「…」
オレは彼女の手を握って立ち上がった。我ながらびっくりするほど自然な仕種だった。無礼講の余韻が残っていたからだろうか? いや、そうではないような…そのままオレたちは寮に向かって歩き始めた。彼女の小さな手のひらはとてもぎこちない感触だった。
「ごめんね。私の手冷たくて」
彼女は小さく呟いた。
「いやぁ、そんな、冷たくないよ」
たしかに冷たかった。しかしオレは上機嫌だった。そう言う彼女はなかなかカワイかった。


<< 29 >>

 夏草や 兵どもが夢の跡

 ゴールデンウィークが終るとホテルは再び平穏を取り戻す。宿泊客は10分の1以下に激減し、前田や安倍ちゃんと千と千尋の女子校生二人組、岡田茉莉子の清水さんら短期アルバイトの面々は散々に去ってゆく。平穏というより、ほとんど静寂だ。まるで伽藍堂か、途端に寮とホテルがだだっぴろく感じられる(廊下に響き渡る靴音がなんとも切ない)。7月に入るまで、しばらくはこの状態が続くだろう。
「じゃあスグルッチ、また7月に。金田ちゃんをよろしく! カントクとも仲直りしろよ!」
夏休みまで前田は大学に戻る。クッキーも一週間ばかし鹿児島に帰省することに。というわけで、いきなりカントクと工藤くんと金田さんと四人住まいになった(シンタローくんは一応、寮内に部屋があてがわれていたが、諏訪市内にアパートも借りていてほとんどそっちに帰宅していた)。

「スグルッチがいたからがんばれた」
白樺湖畔での金田さんの告白をオレは度々反芻していた。純粋に嬉しかった。それなりの思惑があるとはいえ、女性からまともに評価されたのは初めてだった。何より言葉の響きが心地良かった。だから、彼女の求愛をそのまま受け入れることはできなくてもささやかに答えたいという、とっさの無意識がオレに手をつながせた。しかし、気の進まない見合いの相手に気に入られてしまったときのような腰の引け具合いがもう一方にあった。
 正直に言おう。仮に金田さんが魅力的な、率直にはオレの食指を動かす女性であれば、もっと忌憚なく言えば、金田さんが白馬での彼女以上の魅惑的な女性だったら、「オレもキミがいたからがんばれた!」などと調子のいいことを言って彼女を抱き寄せ唇を奪っただろう。いくら奥手のオレでもあそこまでおあつらえ向きだったら(それこそ白馬の穴埋めで、ここぞとばかりに飛びついたかもしれない)。しかし、彼女はそうではなかった。だから、四年前の一夜が冷静に脳裏をよぎったのだ。またその一方で、そうではないが一応は据え膳。恥の文化に則ってとりあえずは試食すべきなのか。しかし、ほしくもないのにいたずらに箸を付けて食中りを起こしでもしたら後々厄介だし、第一、そんな見境のないテーブルマナーこそ本来、恥ずべきではないか。そんなそろばんずくで逡巡したあげくの対応だった。

 それから二三日は何事もなかった。しかし、

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 その夜は宿泊客が皆無だったので、午後の客室清掃を終えるとホテルは稼働を止めた。
「それじゃ、後はよろしく! なんかあっても電話しないで!」
支配人はそう言い置くと、オレたち寮生四人を残してシンタローくんや副支配人格のミヤピーこと宮下ヒロシくんと共に意気揚々と撤収していった。そこで鬼の居ぬ間にオレたちは、誰が言い出したわけでもなく、宵の口から金田さんの部屋でささやかな宴会を始めた(カントクとは、”今度、真澄の生酒一升瓶を買ってくるから”ということで、なんとか仲直りをした)。大勢での無礼講も愉快だが、やはり有志でゆっくり語らうのに勝るものはない。
「私、今日はとことん飲んじゃおうかなぁ!」
金田さんはいつになく上機嫌のようだ。オレたち三人に代わる代わるお酌をしては自らも快調に杯を重ねていた(気のせいか、彼女はクッキーがいないとイキイキとしている)。
 疲れが溜っていたのか諸々気が抜けたのか、カントク秘蔵の真澄の生酒をコップになみなみ二三杯引っかけた途端に、オレは前後不覚気味になった。
「なんだよ、だらしねえなぁ! ボクの真澄を飲むだけ飲んどきながら!」 
カントクの悪態を聞き流し、オレはそのまま横になった。
「まぁ、スグルッチもだいぶ疲れてるんじゃ?」と、工藤くん。
まもなくオレは舟を漕ぎ始めた。

 気づいたの あなたが こんなに 胸の中にいること
 愛してる でもまさかね そんなこと 言えない

 CDプレイヤーの音楽(カントクの選曲)で、まどろみから呼び戻された。
「…」
脱力状態の右手に暖かい違和感があった。
「??」
オレは恐る恐る薄瞼を開けた。
「!!」
動揺以上に狼狽した。オレは起き上がろうとするのをやめ、寝返りをうつ振りで再び正体を消した。オレの枕元に金田さんの膝があった。オレが寝ている間にカントクと工藤くんの差し金なのか、金田さん自身の積極的行動なのか?? 彼女はオレの隣ではなく対面にいたはずなのに。とにかく、もう頭一つで膝枕になる格好で、彼女が後ろ手にオレの右手を握っていたのだ。カントクと工藤くんに見えていないはずがない。

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いったい、どういうつもりなのだ?? オレが寝ている間隙を突き、彼女は酒の勢いを借りて二人にカミングアウトし、ガラス張りのキャラクターに新装したのか? そうでなければ、あんなにも殻に閉じ籠りがちだった彼女が、人前でこんなにも大胆な振る舞いをするはずがない。しかし、それにしてはカントクと工藤くんの会話のトーンは至って平坦だ。もしそうでなければ…狸寝入りのうちに彼女に手を握られたまま再びまどろんでいった。
 いくばくもなく再び目覚めると、狼狽の度合いは増していた。彼女はオレのお腹に腰回りを押しつけるようにもたれかかっていた。後ろ片手に握られていたオレの右手はおへその位置で両手に握り替えられていた。今にでももう片方を彼女の腰に回して背後から諸差しに抱きつくか、そのまま右手をそっと彼女の股間に忍ばせてまさぐり始めてもおかしくない体勢だった。カントクと工藤くんの話し声も心なしか先ほどよりもトーンダウンしている。やはり、彼女はカミングアウトしたのだ。厄介なことになった。これからは二人のオレたちを見る目が少なからず変わるだろう。ホテル中に知れ渡るのも時間の問題だ(支配人の耳に入った時点でお陀仏)。しかし、何より厄介なのは今のこの体勢だ。動くべきか動かざるべきか、それが問題だった。しかし、
「まったく、やってらんねぇぜ!」
カントクが捨てセリフ気味にそう言って立ち上がった。
「まぁまぁ」
続けて工藤くんも立ち上がった。渋い空気が伝わってきた。二人はそのまま部屋を出ていってしまった。
 白河夜船に任せても狐の嫁入りの空模様では狸寝入りも息が詰まる。―オレは清水の舞台から飛び降りる覚悟で目を開けてゆっくりと起き上がった。
「―」
「―」
「好き! 大好き!」
蹲踞の姿勢から彼女はオレの胸に飛込むと、その短い腕をオレの短い首に巻き付けながらささやいた。熱すぎる眼差しだった。あんな眼差しで見つめられては受け止めないわけにはいかなかった。そして甘すぎる響き。あんな響きで抱きつかれては抱きしめないわけにはいかなかった。
「キスして!」
彼女に言われるまでもなくオレはそうしていた。まるでマタタビにありついた仔猫のように、彼女はオレの唇を貪った。そんな彼女に、オレは勢い腰が引け気味だった。しかし、彼女は貪欲だった。口回りを一通り貪り終えると、彼女はその鯉口を一気にオレの股間にまでもっていった。

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日頃の彼女からはとても想像のつかない、したたかな動作だった。彼女がオレのベルトとファスナーに手を掛けたのでオレは介添えをしてやった。あらわになったオレの下半身を彼女は懸命に慰安した。本当に頭の下がるような献身ぶりだった。しかし、彼女が望んでいるのはオレが頭を下げることではない。
「じゃっ、ぼちぼち」
オレは手筈を整えるべく体勢を改めた。
「ダメッ! スグルッチがホントに私のこと好きだって確信がないと最後までは」
しかし、彼女はそう言ってオレの直進を遮った。
「ホントに好きだよ」とは言えなかった。
「堅いことはぬきで、とりあえず、やっとこうぜ!」と言いたかった。
「好き! スグルッチは?」
「オレも好きだよ」とオウム返しで囁くのはわけない。しかし、
「私のこと好き?」
「―好きかどうかはオレの態度を見てくれ」
オレは彼女に覆い被さったまま静止して囁いた。歯切れが悪かった。煮えきらない、いや、そもそも煮えきるつもりのない腹の底そのままのセリフだった。彼女の腑に落ちなさそうな眉間も当然だろう。

 鹿児島に帰省していたクッキーが復帰し、五人の寮生活に戻った。通いの宮野尾さんも週末の三日間は泊まることが多かったので、実質的には男女三対三の六人が一つ屋根の下だった。
 6月の白樺湖は陽射しも木陰もこれ以上ないくらいだった。例年なら梅雨入りとともにグズついた天気が多くなるのだろうが、今年はどういうわけか晴天ばかりが続いた。中休みには白樺湖畔で寝そべったり、バイク乗りの支配人(族上りとの噂もあるが)の愛車ホンダTLR200(1980年代の4サイクル空冷ツインショック・トライアルマシン。支配人はかなり渋い趣味をしている)を拝借してビーナスラインを攻めにいったりした。
 丘の上からフルートの清冽な音色が聞こえてくる。見上げると緑の草むらに交じり、岩の上に腰を下ろした工藤くんがフルートを奏でている。吹奏楽部出身という彼は、天気の良い中休みにはこうして寮の向かいの丘に上って練習をしていた。ビーナスラインに向かってスロットルを開けるオレは、工藤くんに手を振る。彼も片手を挙げて答える。なんとものどかな光景に、オレは白馬の計画を忘れて白樺湖の安息に浸る。

「スグルッチ、今晩、部屋に行ってもいい?」
そう言ってクッキーは、復帰してから毎晩のようにオレの部屋に来るようになった。

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彼女は一応彼氏持ちだった。屋久島のゲストハウスで一年前に知り合ったとかいう彼は山男で、先日は穂高連峰を縦走した帰りに白樺湖に寄り、パイプのけむりに泊まってオレたち従業員を客室に呼んでお披露目の宴会を催すなど、なかなか砕けた間柄のようだ。
 クッキーとはけっこう馬が合った。初心者ながら、彼女はバイク乗りで、しかもついこの間、オレが付き添って茅野駅前のYSPでヤマハTTーR125の新車を注文したばかりだった(YSPまで、支配人のTLRでタンデムで行ったのだが、やたら力強くオレの背中にしがみついていたのは気のせいか?)。
 中休みが重なったときはやはりタンデムでビーナスラインを走りに行ったりした。ちょうど寮の真正面の道路が、いわゆるビーナスラインの入り口だった。キックスタートでスロットル全開、喜び勇んで飛び出すにもかかわらず、いつも後ろ髪を引かれるというか、リヤタイヤを引っ張られるような思いがしていた。後ろに乗せたクッキーが重いからではない。寮の玄関は従業員にとって敷地内唯一の喫煙スペースで公共の憩いの場でもあったのだが、オレがバイクに乗るときには決まってそこに金田さんがいるのだ。あるときは独りで、またあるときはカントクや工藤くんの隣で、背中を丸めて恨めしそうにオレを見送っているのだ。
 金田さんとはあれっきりだった。ズルイようだが、何事もなかったかのような面構えであれ以降、オレは彼女に接していた。あれはあくまでもおまけの無礼講だったのだと言わんばかりの。そんなオレの面構えに萎縮してか、彼女のほうもオレから一線を引いているようだった。このままうやむやで終ればそれに越したことはなかった。たしかにオレは彼女の求愛をまともに受け止めた。無礼講の勢いもあったし、純粋に嬉しくもあった。しかし、彼女の恋人ではオレにとって役不足、誠に僭越ながらそれが正直な気持だった。容姿や色気もさることながら、彼女のその後ろ向きな気質ゆえのうつ向いた姿勢と視線が、いかんせん受け入れ難かった。選り好みできる身分でないのを承知で忌憚なく言わせてもらえば、竹を割ったような明朗快活な女の子がオレの好みのタイプだった。そんな女の子と押しくらまんじゅうをするような底抜けに弾けたつきあいか、彼氏持ち旦那持ちの才色兼備な女性と薄氷の湖面を裸足で渡るような際どい関係がオレの恋愛像だった。

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そういう意味では、クッキーのほうが可能性があった。実際、このところ彼女と急接近しつつあった(彼女がオレに急接近していた)。可能性の本格化はさておき、せっかくの共同生活、本来なら大いに(節度をもって)羽目を外したいところだ。何しろ先に触れたとおり、学生時代のオレは人並みに羽目を外したことがほとんどなかったから。辛うじてあるとすれば、卒業目前の春休み、つまりは長野オリンピックの白馬での、あの一夜ぐらいだった(下半身のハメも文字どおり外れてしまったが。もし金田さんがあの子だったら、オレは諸手を挙げて受け入れただろう)。だから、ここ白樺湖はまさに捲土重来、しかし、羽目を外そうにもあの一件以来、手足に枷を填められたような気分になっていた。厄介なことに、カントクや工藤くんと一緒の場でも、オレとクッキーが仲良くしていると、金田さんがいたたまれない様子なのがありありとわかるのだ。もともとクッキーとソリが合わないようだが(先頃それを金田さんから打ち明けられた。正直、当惑)、それにしても、そこまで浮かない顔付きはないだろうというくらい、金田さんはみんなから浮いてしまっているというか置いてけぼりになる。そして。しばらくすると独りで去ってしまう。
「難しいねぇ」
ハゲ頭に手拭いを乗せたカントクが気だるそうにつぶやいた。ルームメイトのよしみで、オレは思い切ってカントクに金田さんとの一切を打ち明けた。もっとも、あの現場に居合わせて一部始終を目の当たりにしているカントクにすれば、“やっぱりそうか”とため息混じりに納得した。
「かわいそうだけど仕方がないねぇ。スグルッチみたいな男を好きになったんだから」
オレみたいな男とは、いったいどういう意味なのか? まるでオレが悪いやつだと言わんばかりではないか!
「悪いやつとは言わないけど、人格者じゃないのはたしかだよね。だって、金田ネエさんの気持をわかっていながら、そういうことをしたわけだからさ」
喧嘩を売っているのかこいつは?!
「まっ、据え膳食わぬは男の恥って言うから、しょうがないかもしれないけどさ。まっ、ボクには縁のない話だから、よくわかんないけどさ」
カントクはやたら寂しそうな顔色で言った。ひょっとして、
「カントク、童貞?」と、とっさにオレは尋ねようと思ったが、やめた。童貞かと聞かれるのは童貞にとって一番堪えるので。

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カントクに全裸でうろたえられてはとてもいたたまれない(それに、今は金田さんやクッキーにチヤホヤされていい気になっているが、オレだってほとんど童貞みたいなもの。 そんな自分を棚に上げて人様に「お宅は童貞ですか?」と尋ねるのは僭越ではないか?)。おそらく、カントク女性に対する相当なコンプレックスを抱えているのだろう。ここへ来たのもそれが少なからぬ起因でははないか? そんな詮索はやはり僭越だが、そもそもカントクはなぜ、ここ白樺湖にリゾートアルバイトに来たのか?
「まぁ、いろいろあるねぇ」
「いろいろねぇ」
前田の突っ込みではないが、「いろいろ」というときは大抵たかが知れている。
「実はインドに行こうと思って」
「えっ?? インド?!」
カントクの口からいきなり飛び出した単語に、インド人もびっくりでオレは面食らった。
「なんでまたインドなんかに?」
「まぁ、いろいろ思うところあってさ」
またしても「いろいろ」。それにしてもインドとはいかにもおあつらえ向きだ。「いろいろ」あった後の一人旅(ズバリ自分探しという現実逃避)は、インドかチベットかネパール、あるいは南米が通り相場だ。おそらくカントクもその口だろう。
「インドでゆっくりと自分を見つめ直してみようと思って」
すると、ガンジスで沐浴でもするつもりなのか?
「そうだね。昔からガンジスで沐浴するのが夢だったし」
なるほど、それもいいだろう(怪しげな書物がベッドの辺りに転がっているのはそれでか?!)。ただし、ドザエモンに間違われないように。ガンジスには死体がプカプカしているらしいから。そんなことを言うとまた機嫌を損ねるだろうが。それにしてもやはり、インドはあまりにもおあつらえ向きだ。どこに行こうとカントクの勝手だが、いやしくも映画監督を目指しているのなら、今日であれば、アフガニスタンかパキスタンかイラクに行くくらいのジャーナリズムスピリットは見せてほしい(それこそ、もっとおあつらえ向きかもしれないが)。もっとも、インドに撮りたいテーマがあれば別だが。
「いや、映画を撮るのはもうやめようと思って」
カントクは小さくつぶやいて視線を落とした。いつにない陰欝ぶりだった。なるほど挫折したわけだ。あえて尋ねはしないが、さもありなん。カントクはオレより一つ年下の二十八歳。そろそろ潮時ということか?
「9・11があったからね」

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再びカントクの口から飛び出した単語にオレは敏感に反応した。
「どういう意味?」
「あんなスゴイ映像見せられたら、映画はもう太刀打ちできないよ。所詮、映画はフィクションだからね。だから、現実以上のリアリティを映像で描けるかが勝負なんだけど、9・11で完全に引導を渡されたね」
映像のリアリティは湾岸戦争のときに随分取りざたされた。それ以降、ハリウッドがCG全盛で現実を超える(壊す)映像を競い合う一方で、ヨーロッパやアジア映画は人間の内面を奥深く描くことでハリウッドに対向した、といったような話題でオレたちはしばし盛り上がった。
 9・11。たしかに衝撃的な映像だった。映像のリアリティだけを見ても決して対岸の火事として悠長に構えてはいられない緊迫感でいっぱいだった。それは東京都庁もテロに狙われるかもしれないとか、海外旅行に行けなくなるとか、食料が輸入できなくなって飢饉が起こるかもしれないとか、きわめて身近な問題としてあの事件を受け止めた多くの人たちと同じ感覚だった(ブッシュ政権のマッチポンプではないかという疑惑は、だいぶほとぼりが冷めてからのことだ)。しかし、「世界は変わった」と直後からマスメディアで連呼されたような、文明史における象徴的な意味合いや国際政治のターニングポイントなどを、オレはあの事件から見出したわけではない。ニューヨークのツインタワーが崩壊しようと、オレがオレの現実と決別するのは、あくまでもノーマルヒルとラージヒル、白馬の二つのジャンプ台を爆破することなのだ。そのインスピレーションに多少は影響があったかもしれないが、あの事件にインスパイアされてノーマルヒルとラージヒルを爆破しようと思いついたわけではない。あの事件が起こる前から、オレはおぼろげながら白馬の二つのジャンプ台を爆破する青写真を描いていたのだ。つまりは9・11がオレの現実にくさびを打ち込んだというより、9・11という現実の事件がオレのほうに近づいてきたというべきか。
 9・11で夢を諦めたカントクは、自分探しの旅にインドへ。9・11で現実と決別する後押しを得たオレは、ノーマルヒルとラージヒルを爆破するために白馬へ。そんな二人の接点がどういうわけか白樺湖で。カントクは旅費を稼ぐために。オレはホテル側の一方的な都合で。

 金田さんと休日が重なった。シフト表のそれぞれの欄に「ヤ」の文字(「休み」

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の意味)が並んでいるのを見て、オレはちょっとした重圧を感じた。「一緒に出かけない?」と一言声をかけるべきか? それとも、あくまでも他人のふりでやり過ごすべきか? 取り留めのない逡巡だった。放っておけばいいと思いつつも、放っておけない。彼女に好きだと言わせておきながら、いや、言わせたわけじゃない。彼女が勝手に言ったんだ。彼女が勝手にオレに抱きつき、勝手にキスをし、勝手にフェラチオをしたのだ。オレに責任はない。あるはずがない。だから、休日を一緒に過ごさなければならない義理は一つもない。オレはいつもどおり、ホンダRTL200に一人跨る(すでに支配人から代金後払いで譲ってもらった)。キックスタート一発、フルスロットルでビーナスラインを駆け上がる。しかし、リヤタイヤを引きずるような重苦しい視線を背中に感じてスロットルが鈍る。金田さんがいつにも増して物憂げに背中を丸めてオレを見つめている。
「金田さん、よかったら今日、一緒に出かけない? 女神湖までバイクで行ってみようと思うけど」
朝食がたまたま二人きりだったので、オレは思いきって、いや、思わずそう声をかけてしまった。あの眼差しが耐えられなかった。あんな眼差しで見つめられるくらいなら、誘い出したほうがマシだと思った。それで彼女が喜んでくれるなら、なんの問題もないじゃないか? むしろお互いに喜ばしいことではないか? 彼女にとっては、思いを寄せる男性の背中に抱かれるこの上のない幸福感。オレにとっては、一人の女性に幸福感を与えるちょっとした満足感。この満足感はおそらく、いや、間違いなく初めての感覚だった。本当は、気に入った女の子が自分の手中にある最高の満足感と幸福感に浸りたいところだが、女性関係の満足感をまったく知らないまま三十路を迎えるよりはマシだと思った。それに、この満足感はなかなか悪くない。
 オレたちは女神湖畔にバイクを止めて寝転がった。開発の爪痕が痛ましい蓼科山の輪郭を舐めながら、6月の直射日光が二人の地肌を襲う。彼女はハンカチで顔面を覆っていた。オレは上半身を晒して日光浴と洒落こむ。
 女神湖までの十数分、彼女は力いっぱいオレの背中にしがみついた。ちょっとした満足感はいくらか違和感を伴うものだった。彼女の小さな温もりと肌触りを感じながら、オレは思った。間違っても二度と彼女に手を出すまい。いや、手を出される隙を見せまい。

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彼女のハンカチがそよ風になびく。彼女は安らかに目を閉じている。瞼の向こうには期するものがあるのだろうか? このままオレが重なれば、彼女には御の字かもしれない。ちょっと目先の利いた社会人なら、それくらいのことはするだろう。しかし、オレはただ、金田直子という小さな女の子に慕われているささやかな喜びを、素直な行為と言葉にすればそれでいいと思った。無理やり下心を煽って男女の形を整えても仕方がない、いや、下手をすれば取り返しのつかないことになりかねない。勢いに任せるのも間合いを計るのも一切禁物だと、オレは自らを戒めた。
「クッキーはスグルッチのこと、スゴイお気に入りだから…」
女神湖通りのダイニングカフェ・BELLで山菜ピザ(かなり絶品!)とブルーマウンテンを口にしながら、彼女がポツリと呟いた。えもいわれぬ眼差し、そう、いつもの眼差しだ。ただ、いつもと違うのは、オレの反応をうかがう目ざとさが挟まれていた。
「弱ったなぁ。オレがクッキーのお気に入りだなんて…」
そんな調子でオレはお茶を濁した。「クッキーはスグルッチがお気に入り」―これは今や周知の事実だった。正直、オレはまんざらでもなかった。クッキーに対しても金田さんに対しても特別な下心はなかった。ただただ愉快なだけだった。難しいこと、ややこしいことは御免だった。そもそもオレはそういった色恋沙汰とは、いや、色恋沙汰どころか一切合切の現実を断ち切るため、長野オリンピックの形骸であり、原田雅彦の残像であるノーマルヒルとラージヒルを爆破するために白馬にやって来たのだ。それが図らずも白樺湖になってしまった。それだけのことだ。蓼科山の頂きに初雪が降り積もる頃になれば、オレは白樺湖を去り、再び白馬の地を踏む。それまでは虎視眈々と息を潜めておくべきか? それとも、ひとまずは思いきり羽を伸ばすべきか? しかし、そもそも、伸ばすべき羽がオレにはあるのか? オレは女を知らない。女の心を知らない。女の体を知らない。女の潤いを知らない。女の温もりを知らない。そう、オレはヒョッコなのだ。ヒョッコはヒョッコらしく、ホテルパイプのけむりという手軽な箱の中で無難に立ち回っていればいいのではないか?
「でも、それはスグルッチが決めることだから…」
カフェテラスを高原のそよ風が吹き抜ける。風鈴の涼しい音色。もえぎが穏やかにざわめく。金田さんは上目使いでつぶやいた。

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いったい何を決めろというのだ? クッキーか金田さんかをオレに選べというのか?
女神湖から北へすぐのところにある長門牧場に足を伸ばした。ひと味違うと評判のソフトクリ―ムを食べた。牧草地を二人で歩いた。
「風立ちぬぅ 今わぁ秋 今日から私ぃわ 心の旅ぃ人ぉ」
聖子ちゃんの名曲を口ずさんだのは、金田さんではなくオレだった。湿っぽい雰囲気を吹き飛ばしたかった。
「草の葉に 口づけて 忘れたい忘れない アナタの笑顔」
なんだか手をつないでもいい気分になってきた。けれど、つながなかった。
 小諸方面に抜ける夢ノ平林道を走った。彼女はまた、いや、もっと力一杯オレの背中にしがみついた。
 途中の展望台でバイクも止めてベンチに腰かけた。眼下には女神湖の乱反射。初夏の西日は優しくも激しい。白樺湖も見下ろせる。遙か彼方には南アルプスの紫色の輪郭が。
 白馬での彼女のことを思い出していた。オレの三十年足らずの人生で、彼女がほとんど唯一の彩りだった。しかし、潤いを味わうのはニアミスに終ってしまった。返す返すも悔しくて不甲斐なくて仕方がない。あの後、どれだけ地団駄を踏んだことか。こんな悔しくて不甲斐ない思いをするのなら、もっと肩の力を抜いてもいいのではないか?
 ノーマルヒルとラージヒル、白馬の二つのジャンプ台を爆破するのがオレの絶対的使命であることに変わりはない。しかし、だからといって、それまでに女の子と楽しんではいけないというわけでもないだろう。それでくじけるようでは、所詮それまで。それより、ここでまた求愛をやり過ごしてしまったら、また地団駄の繰り返しになるだろう。もう地団駄はごめんだっだ。金田さんとはギクシャクし、それでみんなが余計な気を遣い、せっかくの寮生活がシラケモードになってしまうのは必死だ。それはあじけない。そんなことで地団駄を踏むくらいなら、形だけでも彼女とつきあったほうがマシではないか? だから、ここはひとつ金田さんの求愛を受け入れてやろう。金田さんのことが好きでもないのに。正直、彼女に食指は動かない。琴線に触れるわけでもない。もしそうであるなら、あのゴールデンウィークの湖畔でとっくになるようになっていただろう。オレの部屋であのときあそこまで行ったのは、あくまでも行きがかり上だ。しかし、こうなったら、あえて行きがかりに身を委ね、とりあえずは彼女の求愛を受け入れる。

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そのうち、食指が動くかもしれない。琴線に触れるかもしれない。仮にそうでなかったとしても決して損ではない。もし損をするとすれば、今後新しく入るアルバイトの女の子の中にオレ好みの(白馬の彼女のような)女の子がいて万が一、その子が金田さんのようにオレに思いを寄せるようなことでもあればだが。それはまず、いや、絶対にあり得ない。そんな、柳の下に三匹も四匹もドジョウがいるようなことは。
 オレは金田さんにキスをした。彼女は虚ろな眼差しでオレを見上げた。彼女にとってはまさに至福の瞬間だろうが、オレにはただの唇だった。自分から女の子にキスをするのは初めてだった。こんなものなのか? ちっとも甘くない。むしろ甘美なのは女神湖の夕暮れだ。彼女の小さな乳房を持て遊んだ。白馬の彼女の乳房より、手答えが薄かった。むしろ好感触なのは夢の平林道を攻めているときのグリップだった。
「好き」
彼女が言う。
「スグルッチは?」
私に決めたのね? クッキーじゃないのね?
「オレも金田さんが好きだよ」とは口が裂けても言わない。
「まぁ、そんな難しいことは、とりあえず、抜きにして、」
オレは二度目のキスをする。彼女はまた虚ろな眼差しで言葉を失う。こんなものなのか?

「まったく、やってらんねぇぜ!」
真澄の特選一升瓶を手酌にカントクがクダを巻いた。あの日以来、ほぼ毎晩、オレは金田さんの部屋に通うようになった。カントクには、その行きがかりを説明した。
「いや、まったく、色男だね、スグルッチは!」
これほどあからさまなやっかみも珍しい。カントクは間違いなく童貞だろう。色男と言われるのには違和感があるが、言葉の響きはなかなか悪くない。
「そうか、オレは色男なのか」
 相変わらず、クッキーは毎晩のようにオレの部屋にやって来る。指圧マッサージ、スキンクリームでスキンケアと、次第にオレへの行為がエスカレートしていく。 カントクはホゾを噛みながら一部始終を傍観し、
「へぇえ、まったく、やってらんねぇぜ!」と真澄の手酌でクダを巻く。クッキーはそのうち素っ裸になって本格的なサービスを始めるんじゃないか。そう思ったので、オレはクッキーより先に半裸になって彼女にマッサージのお返しをした。
「エーッ! じゃあ私も全部脱いじゃう!」
「ちっ、まったく、やってらんねぇぜ!」
カントクの苦笑いが引きつる。手酌も段々乱暴になる。

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オレとクッキーがセックスをするのは、もはや時間の問題だった。彼女がオレの部屋から帰るのが日に日に遅くなるので、オレが金田さんの部屋に向かうのも日に日に遅くなる。
「なるほど。今夜も次の女ってわけですか。まったく、色男は忙しいこってすなぁ!」
日に日に悪態じみてくるカントクのやっかみを背に、オレは部屋を出る。
「やってらんねぇぜ!」
カントクが吐き捨てるのが廊下まで聞こえる。
「飲んでぇ、飲んでぇ、飲まれて飲んでぇ、」
カントクの持ち歌は、今や百恵ちゃんから河島英吾に変わっていた。
「カントク、また歌ってるね」
金田さんは今夜も独り、辛抱強く待っている。募る話もないので、早々にセックスに入る。
「スグルッチ、あっ、工藤くんの部屋に聞こえちゃうよ、」
遠慮のないオレの腰つきに、金田さんが恥じらって言う。そのうち、彼女ほうが段々大胆になっていく。
「ほらっ、エッチでしょ!」
小さな乳房をあらわにし、彼女は剥き出しの股間をオレに擦り付ける。奥ヒダの卑猥な感触に、思わず声を上げそうになる。おそらく、工藤くんに聞こえているだろう。どんな思いでオレと金田さんのセックスを聞いているのか? カントクのように「やってらんねぇぜ!」と手酌をしているのだろうか? それとももっとオーソドックスに壁に耳を付けているのだろうか? そんなことを考えると、卑猥な金田さんに気後れする。間違いなく聞こえている。かなりリアルだろう。もう一つ向こうの部屋では、カントクが否応なく想像力を膨らませているのか?
 
 7月になった。八子ヶ峰や車山、白樺湖を取り巻く高原がレンゲツツジの朱色からニッコウキスゲの山吹色へお色直しを始める。一年で一番美しく忙しい季節に突入する。
 何か用事があるとのことで、金田さんが一泊二日で宇都宮に戻った。
「スグルッチも明日休みでしょ? じゃあ今夜は思いっきり飲もうよ!」
金田さんの留守を狙い澄ましたわけではないだろうが、クッキーが喜び勇んでオレの部屋に入ってきた。明日はオレも休みなので一緒にビーナスラインをツーリングしようと、やたらはりきっていた。それはけっこうなことだが、夜中の一時を過ぎても引き上げる気配がまったくない。
「さて、ボクはそろそろ寝るよ。お二人さんと違って、ボクは明日も早いんだからね」
そう言ってカントクが寝床に就いた。
「じゃあ、オレも寝るかな。

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ということでクッキー、また明日」
「イヤ! 私も一緒に寝る!」
“冗談だろ?!”と思ったが、どうやら本気だった。彼女は言う。「今夜こそは」と。今夜こそは、オレと一緒に寝てエッチしたいと。
 彼女が「今夜こそは」と言うには訳があった。近頃、彼女は夜だけでなく、昼の中休みにもオレの部屋にやって来るようになった。
「スグルッチ、今日これから暇?」
「4時からフロントだよ」
「なぁんだ…」
「なんで?」
「私、今日もう終りだから、もし暇だったらエッチしようと思ったのに」
あまりにも単刀直入な物言いだったので、オレは爆笑してしまった。
「ねっ、エッチしようよ!」
「ちょっと今日はもう時間がないなぁ。いくらオレが早漏だといっても、やるんだったらちゃんとやりたいし」
単刀直入な誘惑には、まともな冗談でかわすのが一番だと思った。
「じゃあ今度、休み時間が合ったらしようよ!」
「合えばね」
それ以来、彼女は毎日のように「今日はどう?」とオレの部屋を訪ねてきた。その都度オレは、「ちょっと今日は…」と言って断ってきた。
「私、エッチはいいと思うんだよね。カレシがいてもエッチは別だと思うから、やりたい男の人とは遠慮なくやることにしてるの。だからスグルッチともエッチしたいから、いつでも」
彼女はとてもまじめな顔つきで言った。なんとも頼もしい女人気質。女性なら誰しも少なからず思っていることを正直に口に出すクッキーに、とても好感が持てる。しかし、いかんせん、金田さんにバレて寮生活と職場に騒動を起こす危険を冒してまでエッチをしたいと思うほどの肉体的魅力を彼女に感じていなかった。こんなふうに下世話な冗談を交しているのが楽しかった。それがここへ来ていよいよ冗談では済まされなくなったのだ。
「ねっ、一緒に寝てもいいでしょ? どうせ明日の休みも一緒に過すんだし」
「ハァア、ボクもこの部屋で寝るんだからね! 一緒に寝るんだったらクッキーの部屋にしなよ! それだったらお二人さんで何をやってもボクの知ったこっちゃないから」
カントクがかなりの苦虫を噛みつぶしながら言った。
「じゃあ私の部屋に行こっ!」
冗談じゃない! 一応は金田さんに、それ以上にカントクに申し訳が立たないと思った。
「ダメダメ、明日一緒にツーリングに行くんだろ! だから、もう今日は寝るよ!」
「だってツーリングじゃエッチできないじゃん!」

<< 43 >>

「ボクの横だったらエッチできるって言うのか!?」と、カントクが青筋を立てる。
「だから私の部屋に行こって!」
「ダメ! 寝る!」
オレがベッドに潜り込むと、クッキーはオレを追ってベッドに飛び込んだ。
 カントクがいびきをかき始めるのを待ちかねたかのように、クッキーはオレの乳首をいじって吸い付いた。彼女に背中を向けてオレは抵抗したが、無駄な抵抗はおやめなさいと言わんばかりに、彼女は根こそぎオレにからみついてキスをした。正直、あまり甘くなかった。彼女は無理やりオレの手を取り、パジャマの下からその手で自分の乳房を愛撫すると、今度はその手をパンティの中に潜り込ませた。不覚にもオレは中指を動かしてしまった。かなり濡れていた。もっと不覚にもオレは勃起してしまった。すると彼女はふとんに潜り込むとオレのトランクスをずらしてフェラチオを始めた。ここまで来るともはや歯止めが利かない。彼女はオレのオチンチンを握って自分の股間にあてがった。いつの間にかコンドームが付いているのでびっくりした。彼女は重心をオレの中心に落とした。入ってしまったものは仕方がない。オレは横臥のまま、惰性で腰を動かした。彼女も横臥のままふとんに顔を押しつけて喘ぎ声が漏れるのをこらえていた。カントクはいびきをかいたままだった。

 新しい女の子が二人入った。支配人以下男子従業員の誰もがソワソワし始めた。毎シーズン新しい女の子が来るのが、この仕事の一番の楽しみだと支配人は言う。たしかにそうだろう。学級の席替え以上にダイナミックだ。
「この子カワイイじゃん! 実物はどうなんだろう?」などと履歴書の写真で女の子の品定めをする。これがまた楽しい。個人情報の流出も甚だしいが、どうせ履歴書にある個人情報なんて嘘ばっかりだからかまうもんか! というのが支配人のスタンス。そんな支配人となぜかやたらと気が合う。
「この子超カワイくない? 楽しみだねぇ! 今日来るんだろ?」
「そうですねぇ。楽しみですねぇ!」
「オマエ、金田ちゃんはどうするんだよ? よろしくやってんだろ? ヒヒッッ!」
悪事千里を走る。いつの間にか支配人にも筒抜け。カントクが言いふらしているのか? それとも工藤くんか? (実は金田さん本人がこっそり吹聴していると後に判明する)
「いや、まぁ、それは…」
その件に関しては、ひたすらお茶を濁すに限る。

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支配人に言質を取られたら、公式発表をしたに等しい。金田さんにすれば願ったりだろうが、オレにはちょっと都合が悪い。公式発表はオレの自由を奪いかねない。金田直子という枷が手足と下半身に。口には猿ぐつわ。今日来るようなカワイイ子と新たに打ち解けても手をこまねくことすらできず、工藤くんやシンタローくん、あるいは前田、あるいはシゲさんか支配人に唾を付けられるのを、ただ歯軋りしながら見ることになりかねない。それは嫌だ。クッキーとも今しばらくは際どい関係を続けたいし、せっかく白樺湖に来たのだから、リゾートライフを思う存分満喫したい。別にいいじゃないか! この三十年足らず、まともに女の子とつきあった試しがない。ここでようやく捲土重来! ちょっとばかり羽目を外してズルイ男になったからといって、誰にも非難される筋合いはないはずだ。
「こんな楽しい仕事はないね。毎年いろんな女の子が来るから、遊び相手には不自由しないし」
一見まじめそうな白馬店の支配人がちらっと言ったのが耳に残っている。
「今まで何人バイトの女の子食ったか、わかんねぇなぁ! お客さんも何人か食ったことがあるしなぁ!」
ハツカネズミの支配人も自慢げに言っている。支配人がお客さんを食うとは不届き千万だが、つまりはそれがリゾートなのだ。リゾート=セックス! オレは決めた。これから新しい女の子が入ってセックスをするチャンスがあったら、カワイイ子に限って金田さんの目を盗んでセックスをやりまくる! とりあえず、今日来るこの矢田亜希子似のカワイイ子とは是が非でもやる! しかし結局、その子はいつまで経っても来なかった。
「何だよ! ブッチかよ! まぁ、よくあることだけど、まさかこの子に限ってなぁ…」
支配人は相当がっかりしていた。まさか食うつもりだったのでは? こないだ二十五歳の彼女(もとはバイトで来ていたのを食われた)と結婚したばかりじゃないか! いや、この支配人ならやりかねない。オレも彼にあやからねば。とにかく男子は押し並べてがっかり。工藤くんもシンタローくんも、カントクも。
 さて、あとの二人はちゃんとやって来た。リエリエこと荒木理恵子さんは熊谷から。フルフルこと古山敬子さんは郡上八幡から。二人とも二十五歳のフリーターで、写真で見るより実物はなかなかのでき栄え。特にフルフルがすばらしい。

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その日、オレは半休だったので、夕方から白樺湖畔の岩場をマウンテンバイク(これも支配人から譲り受けた)で攻めて一風呂浴び終わったときだった。
「一緒に夕食に行こう」と、クッキーがフルフルをオレの部屋につれてきた。それがフルフルとの初顔合わせだった。開脚のストレッチをしていたオレはドキッとした。170cm近くの長身にスラッと伸びた手足に上下の完璧なクビレ。何より、シャキッと伸びた背筋が(クラシックバレエをやっていたという)、猫背のうつ向き加減でポケットに手を突っ込んで歩く金田さんとはまるで対照的だった。フルフルはクッキーの隣で控えめな笑顔でオレに会釈をした。オレは思わず頬が火照った。それは楽しげな予感だった。
 二ヶ月ぶりに新しい顔が食卓に並んだので(しかも上できの女の子が二人も)、夕食はいつになく盛り上がった。金田さんはクローズまでフロント勤務だったので、オレは彼女に気がねすることなくフルフルとリエリエと打ち解けることができた。一見おとなしそうなリエリエだったが、いざ打ち解けるとけっこうなおしゃべりで、
「私、お酒大好きなんで、毎日飲み会しましょう!」と、早くもエンジン全快。一方のフルフルは、決しておしゃべりではないが、おとなしいわけでもなく、打てば響くような聞き上手で、とても好感が持てた。早速オレはリエリエと携帯番号を交換した。フルフルは今どき珍しく、携帯電話を持っていなかった。
 夕食を終えて一段落すると、クッキーがフルフルを連れてオレの部屋に遊びに来た。すでにカントクは「やってらんねぇぜ!」といつもの手酌が始まっていた。今日は何がやってられないかというと、早速オレがフルフルとリエリエと打ち解けて携帯番号を交換したから。“金田さんという女性がいるのに、ちょっと調子良過ぎじゃないか!”と。口にこそ出さないが、とにかくカントクは羨ましくて仕方がないのだ。
「そんなに言うなら、自分も携帯番号を交換すればいいじゃないか!」と言うと、
「ボクは初対面の女の子に携帯番号を交換するような軽はずみな男じゃない!」とムキになる。まったくヒドイ言われようだが、カントクは自分の矛盾した態度を自覚しているのだろうか? そんなカントクを持て余しつつあったので、二人の来訪は好都合だった。フルフルを見てカントクの目の色が変わった。オレも居住まいを正した。

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「スグルッチ、これから私の部屋で飲み会やるんで、フロント終ったら来てね!」
勤務中にも関わらず、リエリエがオレの携帯にお誘いの電話をかけてきた。このところ毎日だ。
「いやぁ、スグルッチ、モテルねぇ! モテルのはいいけど。ヒヒッッ!!」
支配人がそばで皮肉っぽく言った。モテルのはいいけど、ちゃんと仕事しろと言わんばかりだ。
リエリエはクッキーと、フルフルは金田さんと相部屋になった。二人が入ってから毎日がやたら楽しくなった。客室清掃の割り当て表で(最近はオレ自らが作るようになっていた)二人とベッドメイクを仕込んだ。リエリエとフルフル、どちらとやったときもとても時間が短く感じた。特にフルフルはてきぱきとしていてオレのほうがリードされるようだった。彼女はフロントに配属されたので、オレが彼女の指導担当になった(支配人がおもしろ半分に決めた)。ぎこちない先輩の業務指導だったが、彼女は素直に付いてきてくれた。フロントの合間にレストランを手伝うこともあった。クッキーや宮野尾さん、リエリエと冗談を言い合いながら、なかなか息の合った仕事ぶりだった、

「今夜もまた飲み会ですか? いいですなぁ、モテル男は!」
フロントクローズを終え、リエリエの部屋に行くべく着替えているオレに向かってカントクが吐き捨てた。オレが楽しめば楽しむほど、カントクのひがみが露骨になっていた。
「カントクも一緒に来ればいいじゃん」
「ボクはリエリエに直接誘われてないですから」
直接誘われるも何も、こういう長屋暮らしのような寮生活では、誰かの部屋に集まるという決定がすでに告知となるので、オープン参加が当たり前ではないか?
「でも、スグルッチはわざわざ勤務中に電話がかかってきたわけだからね。ボクにはそんなことあり得ませんから」
そんなカントクを放っておき(いちいちつきあっていたらきりがない)、オレはリエリエの部屋を訪ねる。リエリエ、クッキー、フルフル、工藤くん、シンタローくん。
「金田ネエさんは、今夜疲れているからもう寝るんだって」
リエリエが残念そうに言った。相変わらず、金田さんはこういった飲み会にほとんど参加しない。ひょっとすると、オレがリエリエやフルフルと仲良くやっているのを快く思っていないのかも。

「今夜はあっちの部屋ですか?! お忙しいこってすなぁ、モテルお方は!」

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カントクのやっかみを聞き流し、オレは金田さんの部屋を訪ねる。リエリエの飲み会がないときに金田さんの機嫌を伺っておこうというわけだ。しかし、本当の目的は違う。フルフルに会うのが本当の目的だった。クッキーと二人でオレの部屋を尋ねてきたあの晩以来、オレはフルフルのことが気になって仕方がなかった。もっとフルフルのことを知りたい。もっと彼女と仲良くなりたい。彼女を抱きしめたい。フルフルが金田さんと相部屋になったのはある意味、好都合だった。金田さんには申し訳ないが、彼女を出汁にフルフルに会いに行くことができる。
「スグルッチ、なかなかおもしろいね!」
どうやらフルフルともオレは馬が合うようだ。話題は様々だが、とにかくおもしろいように会話が弾み、噛み合う。こんなことは初めてだった(クッキーはどちらかというと「私が、私が」と押し出しが強い)。
 女性とは言語が違うと思っていた。女性とまともにつきあえないのは、言語が違うからだと思っていた。しかし、フルフルは違った。彼女の言語はオレの言語と同じだった。
「カナダのどこが好きか? うーん、やっぱり、アメリカと同じ開拓国家でも、アメリカと違って温厚っていうか、住んでる人たちに、どことなく落ち着きがあるところかな!」(フルフルはここへ来る直前まで、ワーキングホリデーでカナダに暮らしていた。履歴書を盗み見てすでに知っていたが)
同じ聞き上手でも金田さんは、「へぇ、そうなんだぁ」と相づちを打つだけのことが多いが(聞き上手とは言えないかもしれないが)、フルフルは必ず気の利いたコメントを添えてくれる。
「私、先に寝るね」
金田さんがそう言ってベッドに横になった。三人で話していると、どうしても金田さんが置いてけぼりになりがち。そうなるとさすがにバツが悪いので、オレは引き上げざるを得ない。

「そりゃあ、金田ネエさんにとっちゃ、いたたまれないわな。スグルッチとフルフルが二人で盛り上がっていたら。もともと彼女は自分を押し出してコミュニケーションをとるタイプじゃないからね。周りが盛り上がってると一人で引いちゃうんだろうね。クッキーのときもそうだったじゃない?」とはカントクの弁。あえて話す必要もないのだが、やっかみにつきあうというか矛先を逸らすというか、オレは金田さんの部屋での近況をカントクに話した。

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「で、どうなの? スグルッチは金田ネエさんと本気でつきあう気はあるの?」
「いやまぁ、それは。ってゆーか、ぶっちゃけ最近、フルフルのことが気になってて…」
「なんだって?! まったくキミは、調子がいいというか軽薄だなぁ!! そんな気持で毎晩ネエさんの部屋に行ってたのかよ??」
金田さんとの関係をフルフルに知られたくないのが正直な気持だとカントクに言うと、カントクは額に青スジを立てんばかりの勢いで憤慨した。
「そんな気持でネエさんの部屋に行くなら、こっちは部屋に鍵かけてキミが戻ってこられないようにしてやるから!」(そしてさっそく翌晩、それは実行に移される)
寝る間際、カントクがおもしろいことを言った。
「スグルッチがそんな気持で金田ネエさんとつきあうんなら、オレがネエさんを誘ってもいいわけだな?!」
カントクの語気はわりとまじめだった。ひょっとしてカントクは金田さんに気があるのか? ちょっとびっくりしたが、オレは平然と答えた。
「いいよ。別に(誘えるもんなら)」

 金田さんが元気ない。やはり、オレがフルフルやリエリエと仲良くなったのが原因だろうか? 最近の彼女は日中通しのフロント担当になって客室清掃や夕方からのフロントをやらなくなり、職場で一緒になることがほとんどなくなった。
「かったるいなぁ! なんかいいことないもんかね。不倫とか」
シゲさんと適当に楽しく4階のメイクをしていると、午前中の勤務を終えて寮に戻る金田さんの姿が窓から目に入った。
「なんか金田さん、元気ねえなぁ」
シゲさんが思わずつぶやいたように、金田さんはいつものようにうつむき加減で背中を丸め、ホテルから寮に戻る坂道を足取り重く上っていた。オレは重たい気分になった。いかにも寂しそうな、哀れをそそられる姿だった。

「スグルッチよお、明日オレ、久々に丸一日休めそうだから、金田さんも一緒に温泉でも行かねぇっけ?」
シゲさんが誘ってくれた。金田さんを気遣ってくれたのかもしれない。オレと彼女の休みが重なるのも久しぶりだった。
 翌日、午前中から三人で蓼科の東急リゾートに出かけ、その後、湖東地区にあるシゲさん宅にお邪魔して奥さんの手料理を振る舞ってもらった。
 シゲさんに連れ出してもらうのはこれが二度目だった。一度目はクッキーと四人で諏訪インタ―の近くにある居酒屋=シロクマにつれていってもらった。

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ほかのメンツに見つからないよう、宵の口にこっそり西白樺湖のバス停で待ち合わせしたのが楽しかった。カラオケにも行ったが、そのとき金田さんがシゲさんとクッキーの目を盗んで手をつないできた。オレの部屋で工藤くんとカントクと四人で飲んだあの夜のように。さすがにシゲさんとクッキーいるところではちょっと抵抗があった。特にクッキーに見られるのはマズイと思った。しかし、オレはまた酔いに任せてしまった。
オレたちの関係を絶対に公言しないよう金田さんに言い含めていた。「仕事上で揚げ足を取られるとマズイから」と。もちろんそれは表向きの理由だった。しかし、
「ゴメン、私、宮野尾さんに言っちゃった!」
折に触れて金田さんが照れくさそうに言った。
「だって、うれしかったから」
怒るわけにはいかなかったが、内心、かなり腹立たしかった。
「困ったなぁ」と、オレは苦笑いで金田さんに「厳重注意」をした(自分はカントクに話しているくせに)。遅かれ早かれわかることかもしれないが、あえて公言はしたくなかった。ましてや周りに見せつけるなど。
「ゴメンね。こないだカラオケで手をつないじゃって。シゲさんとクッキ―にわかっちゃたかなぁ?」
金田さんがまた照れくさそうに言った。
「うぅん、そうだねぇ…」
オレはまた苦笑いをした。オレと彼女の恋愛感情には明らかな温度差があった。彼女はそれを自覚していないから大胆になれるのか? それとも自覚しているからこその涙ぐましい努力なのか?
 高級感に溢れる東急リゾートの露天風呂を思う存分楽しんだあと、シゲさんの自宅に招待してもらうことになった。緑深き蓼科を切り裂く高原道路を、シゲさんのハイエースバンで進む。金田さんは助手席に、オレはその後部座席に。オレが助手席の上部に手を掛けていたら、その手をまた金田さんが後ろ手に握ってきた。三度目のサプライズ・スキンシップ。今度は酔った弾みではない、明らかに確信犯だ。ハンドルを握るシゲさんもさすがにちょっと戸惑っていた。
 湖東地区の閑静な住宅街にあるシゲさんの自宅は、なかなか立派な一戸建てだった。
「いやぁ、久しぶりの休みだよ! まぁ、何もないけどゆっくりしていってよ!」
シゲさんは上諏訪の立石公園にあるラブホテルで毎日夕方から朝方まで働き、その足でパイプのけむりにパートタイムで来ている。

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娘さんはすでに片づいて横浜に、息子さんは東京の美術学校に通っていて、現在は奥さんと二人暮らし(奥さんは先の東急リゾートに働きに出ていると)。二人だけではちょっともったいないくらいの邸宅だった。
「ローンがまだ残ってて大変なんだよ。どうせ子供が出ていくんだから、家なんか建てなきゃよかったよ」
そうは言いつつも自慢の男の城ではないか。
「まぁまぁ、残りもんばっかでロクなもんはないけど、よかったらどうぞ」
シゲさんは奥さんの家庭料理をもてなしてくれた。ビールで乾杯をする。贅沢な時間だった。
「カントクのヤロウがうらやましいぜ。インドに行くんだろ? パイプのバイト終ったら。まったく、いいご身分だこと! こちとら海外旅行なんて八丈島ぐらいしか行ったことねぇよ! 新婚旅行だって湯布院だからな。あっ、そうだ、アルバムでも見る? オレの若い頃の」
シゲさんのアルバムは奥さんと中睦ましい写真が多かった。所々にスペースがあるのはいったい?
「ああ、それはほかの女の子と写ってる写真だったんだけど、女房が見つけて全部捨てちゃったんだ」
なんとも微笑ましい。
「あぁ、ビール飲んだらなんだか眠くなってきたなぁ。相当疲れが溜まってるな。悪いんだけど、オレ、隣でちょっと横になってくるから、ゆっくりしてていいよ。なんならセックスしてもいいよ。絶対に見ないから」
そう言ってシゲさんは襖を閉めた。単刀直入な彼のジョークに、金田さんは真っ赤になってうつむいた。
「やる? セックス!」
「えっ? えっ?」
金田さんは本気にしている。以前、支配人にオレとのことをからかわれたときも本気で取り乱していた。人前であれだけ大胆なスキンシップに出るくせに、わからないものだ。
「冗談だよ」
「そ、そうだよね。でも、シゲさん幸せそう」
「そうだね。でも大変だとおもうよ。家のローンに子供の学費に。シゲさん、以前は自分でラーメン屋を経営してたらしいじゃん。でも今はラブホテルの社員とパイプのパートの掛け持ちで、ほとんど休みなしでやってるでしょ。人には言えない、すごい苦労があると思うよ。ましてやこのご時世、不景気なのに税金や保険料は値上がりするし、そのくせ年金は先細りだし」
「私は、難しいことはよくわからないけど、シゲさんみたいな暖かい家庭を築けたらいいなぁって」
「でも、不倫もするよ」
「それはぁ…」

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シゲさんの家庭が温かいかどうかなんてわかるはずがない。それにそもそも、税金や保険料のことを「難しいこと」と一言で片づけてしまうやつに、家庭を築く資格があるのだろうか?
「スグルッチは結婚願望、ないの?」
「結婚願望は、ないね。今のところ」
「そっかぁ…」
金田さんは寂しそうだった。彼女の言いたいことはわかっている。この際だから、彼女の確信犯的態度をたしなめてやろうかと思った。しかし、それはできなかった。シゲさんちの縁側から眺める蓼科の夕日とヒグラシの鳴き声。心穏やかなふるさとの色と音に包まれながら、このまま金田さんと二人で年老いていったら…なぜかふとそんなことを思ってしまったから。

 シゲさんと三人で出かけてから、金田さんは積極的にオレを誘うようになった。二人きりで逢いたいと。お互いにルームメイトがいるので部屋ではなかなか二人きりにはなれない。だからオレたちは2階の空き部屋やホテルのリネン室で夜な夜な逢い引きをした。金田さんの姿が見えなければ、フルフルが不振がってオレのとの関係に気づくかもしれない。毎回そんな心配をしながら、オレは金田さんにフェラチオをさせた。彼女は従順だった。
 その日は午後からのフロント出勤だったので、オレは部屋で独り瞑想にふけった。シゲさんちの縁側でふと思ったことが我ながら気がかりだった。なぜ“金田さんと二人で暮らしても…”なんて思ってしまったのか? 最近、ちょっとどうかしているのでは? さっきも出勤前の金田さんがやって来てまたフェラチオだ(オレたちの間でフェラチオは挨拶代わりになっていた)。このままズルズルと流されていいのだろうか? いいはずがない!
「スグルッチ、いますか?」
扉が半開きで、いきなりフルフルが顔を出した。オレは慌てて居住まいを正した。
「お邪魔ですか?」
「いや、全然。どうしたの?」
「私、今日休みなんで、もしよかったら、スグルッチとお話がしたいなぁって思って」
フルフルはちょっと照れくさそうに言った。オレは胸が高鳴った。
「何してたんですか?」
「実はさっきまで金田さんにフェラチオをしてもらってて」なんて言えるはずがないので、
「えっと、いや、ちょっと小説を書いていて…」と、口から出任せを言った。
「へぇー、小説ですか。すごいですね。ちょっと意外」
「意外って、なんで?」
「いやぁ、スグルッチは理系だって言ってたから」

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「いや、まぁ、森鴎外だって理系の小説家だだから」と、いい加減なことを言ってしまった。オレたちはテーブルに着いた。オレは動揺していた。まさかフルフルが自分からオレを訪ねてきてくれるとは!「お話がしたい」と改まって言われると、何を話していいものかさっぱり。とりあえず、とりとめのない会話から。
「私、スグルッチって、ただおもしろいだけじゃなくて、ちゃんと頭もいいんだなぁって思って」
「いや、別に頭は良くないけど、口は達者だから」
どうやらフルフルもこれまでの会話でオレを見初めたようだ。なんということだ! 期せずして柳の下から三匹目のドジョウが舞い込んでくるとは! いやいや、ドジョウとはフルフルに失礼な! フルフルクラスならウナギ、いや、マグロ、いや、マグロはマズイ。金目鯛か? なんでもいい!
「スグルッチはなんで、白樺湖でバイトをしようと思ったんですか?」
いい質問だ。
「白馬を舞台にした小説を書こうと思って白馬店に行ったんだけど、なぜかこっちに回されちゃって」と、またしても口から出任せ。それにもかかわらず、フルフルの瞳が輝いていた。オレは興奮していた。大きく開いたTシャツの襟元から覗く彼女の胸元ばかりが気になる。会話なんて二の次だ。タッチ・フォルムともに理想的な谷間。思い切って鷲掴みにしてみたい。そんなタイミングが来ないかと密かに間合いを見計らう。金田さんのときのように一気に抱きしめてキスをしてフェラチオ、いや、フェラチオはマズイ。さっき金田さんにやられたばかりでだ。せめてキスだけでも。
「スグルッチは小説家をめざしてるんですか?」
小説家よりもキミを押し倒したい。
「なんか私、スグルッチみたいな人、初めて会った」
オレもキミみたいな女性は初めてだ! ぜひ押し倒させてくれ! しかし、いつまで経っても押し倒せず、あっという間に二時間半が過ぎてお昼の刻限になった。オレは紳士なのか、それとも意気地なしなのか? 間違いなく意気地なしだろう。まるで白馬のあの夜のようだ。そうだ。結局あの夜も、「原田の大ジャンプの場所でそんなことはできない」などと理由付けをしたが、結局は彼女を押し倒してでも最後までやり遂げる意気地がなかっただけなのだ。意気地がないから、金田さんのようなイージーな行きがかりをキープしておきたいのだ。だから、不都合に思ったことがあっても目をつむってしまうのだ。

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そんな簡単なことに今頃気づくとは、オレは相当頭が悪い。脳足りんの意気地なし。そんなやつが白馬のノーマルヒルとラージヒルを爆破なんかできるのか? できないだろう! フルフルはオレのことを買いかぶっている。しかし、オレに興味を抱いているのは間違いない。だから、白馬のノーマルヒルとラージヒルを爆破するためにもオレはフルフルを押し倒す。金田さんに操を立てるなんて絶対に言わせない。フルフルを押し倒すことが、現実と決別するための第一歩なのだ。オレたちは一緒に昼食に向かった。

 事件があった。
「ちょっと誰か代わって! 結婚、結婚だって!」
フロントの電話に出たパートのイチさん(市内在住。三十云歳。独身。東京外語大を卒業後に国立音大に編入したというなかなかの才女だが、かなりのひょうきん者。杉山愛をスリムにしたような容姿)が、そう言ってうろたえた。
「ケッコン? どういうこと?」
「なんかよくわかんないけど、外人っぽい男が、ケッコンお願いしますって繰り返してんのよ!」
オレが電話を代わった。
「スミマセン。ケイコ、オネガイシマス」
「ケイコ?」
「イエス、ケイコ。ケイコ・フルヤマ。クリストファー、トイイマス」
ひょっとしてフルフルを出せと言っているのでは? とりあえず、フルフルを呼んできた。
「ハーイ! クリストファー! イエス、アイム・ファイン!」
電話に出たフルフルは、舌を巻くほどの英語で話し始めた。イチさんも支配人も唖然としていた。
「ケッコンじゃなくてケイコだよ」
「だってぇ、そう聞こえたんだもん!」
「イチさんぁん、外語大出身じゃなかったっけ? ヒヒッッ!」
「アハン! リアリー?」
電話口の外国人が誰だか知らないが、フルフルの話しぶりは妙になれなれしい。そしてやたら長い。オレは不愉快だった。とっとと切れよ! 職場の電話だぞ! しかし、フルフルが電話を切ったのはそれから約三十分後だった。
「すみませんでした。カナダにカレシがいるので、それで」
「カナダァ!!! カレシィ!!!」
「何、フルフルのカレシってカナダ人なの?」
「はい。留学しているときに知り合って」
「へえぇ、それで、どんな感じなの?」
支配人は根ほり葉ほり聞き始めたが、オレはショックで打ちひしがれていた。
「インターネットができるところがあれば、メールのやりとりができるんですけど。

<< 54 >>

毎回フロントの電話を借りるのは迷惑になるし」
「ネットだったら、カントクが詳しいね。たしかスズランの湯でできるとか言ってたよ。今度案内してもらえば?」
「ホントですかぁ!?」
そんな殺生な! フルフルに彼氏がいたら押し倒せないじゃないか! こないだオレの部屋に来たのは、いったいなんだったんだ? ひょっとして金田さんの差し金か? フルフルをあきらめて金田さんとの行きがかりの関係を強化するべきか、それともリエリエに乗り換えるべきか、それともクッキーと満を持して発展すべきか(そういえば、クッキーも彼氏がいるくせにオレにアプローチをしている。同じことがフルフルにもあり得るかもしれない。そうだ、あり得る)。オレはフロントに立ちながら、そんなことばかりを考えた。

「まったく、やってらんねぇぜ!」
そう言ってカントクが朝食から戻ってきた。今日はカントクは休みのはずだ。まったく、朝まっぱらから、どうしたというのだ?!
「スグルッチには事後報告になって申し訳ないけど、スグルッチがいいって言ったから、オレ、金田ネエさんを誘ったんだよ。今日は彼女も休みだから、一緒に下に下りないかって」
下とは茅野および諏訪市街のこと。
「それで?」
「それでも何もあったもんじゃないよ! “私、今日は美容院に行くからゴメン”だって。即答だったよ」
カントクの憤りようといったら、ただごとではなかった。
「そうなんだ? 仕方がないじゃん。美容院なら」
「それにしても少しは“どうしようかなぁ…”って考えてくれたっていいじゃない! ホント、即答だったから!」
「秒殺ってやつ?」
「これがボクじゃなくてスグルッチだったら、美容院をキャンセルして一緒に出かけるんだろうね」
まぁ、そうだろう。
「ハァ、ボクが女の子を誘うのが、そもそも間違いだったんだ。分不相応な真似をするんじゃなかったよ」
「まぁまぁ」
「ハァァ、ネエさんも所詮、オンナなんだな! よくわかったよ! ボクの見立て違いだった!」
当たり前じゃないか! 金田さんがオンナじゃなかったら何だというのだ? そんな深いため息をつかれても彼女だって心外だろう。
「フルフルでも誘ってみればいいじゃん?」
カントクをからかうのはおもしろい。
「ダメだよ、あの女は」
「あの女って、何、その言いぐさは?」

<< 55 >>

カントクが言うには、どうもフルフルはレストランの仕事で自分を見くびっているような気がすると。それは思い過ごしだろうとフォローしたが、あながちあり得なくもない。別にフルフルに限らず、カントクのレストランでの仕事ぶりは、すこぶる評判が悪い。慣れない仕事、苦手な仕事で至らないのは仕方がないが、その至らなさをごまかしたり言い訳したりするのでタチが悪いと。クッキ―などカントクのいないところで、しきりにオレに愚痴を言ってくる。
「仕事ができないのをあのハゲは絶対に認めないから!」
「しょうがないなぁ、カントクは。オレみたいに仕事ができなくても、笑ってごまかすぐらいの度量があればいいけどねぇ」と、休憩室でクッキーとしゃべっていたら、
「たしかに、そういう部分も重要。スグルッチは仕事ができなすぎるけど、ヒヒッッ!」と、隣の事務室で聞いていた支配人が大爆笑した。さらにカントクは言う。
「フルフルはかわいげがない」と。
「そんなことないよ」と、こないだフルフルがこの部屋に来て談笑したことをカントクに伝えた。
「ハァァ、それを聞くとボクは辛いなぁ…」
カントクは再び深いため息で肩を落とした。いったいどうしたというのだ?! 聞けば、なんでも数日前、フルフルをスズランの湯(南白樺湖にある立ち寄り温泉)に案内してインターネットの説明をしたという。すると用件が済むと彼女が、
「ありがとうございます。じゃあこれで結構ですから」と言い放ったと。
「せっかく人が親切で案内したのに、“これで結構ですから”はないだろう!」
カントクはまたヒートアップした。
「何、じゃあカントクは、フルフルと一緒にネットがしたかったの? それともついでに一緒に温泉に入ってきたかったの?」
「そういうわけじゃないけど、まるで“アナタはもうご用済みだから”と言わんばかりじゃないか!」
フルフルにすれば、彼氏とメールをしているのをカントクに見られるのははばかられるし、せっかくの休憩時間を割いてもらうのも気の毒だという気遣いだったのだろう。もしくは本当にご用済みだったのかもしれないが。
「まったく、ボクはただのアッシーか!?」
アッシ―とは古い。しかも意味がちょっと違う。とにかく、金田さんにしろフルフルにしろ、カントクの女性に対する感情がここまで屈折しているとは。

<< 56 >>

オレも相当に屈折しているが、カントクはそれ以上、まさにギネス級の屈折だ。

「アハハハッ! ホントにぃ? なんかウケル!」
さっそくその晩、オレは金田さんとフルフルに、カントクの「秒殺事件」と「アッシー事件」をチクった。二人とも大ウケ。まさかそんな捉え方をされていたなんて! と。
「アッシーってカントク、歩くのスゴク遅いのよ!」
アッシーにもならないというわけだ。二人ともあまりの大ウケなので、オレは悪ノリし、
「今度別々にカントクを誘い出してデートしてみない?」と提案した。金田さんはさすがに難色を示したが、フルフルはノル気でさっそく、次の休憩が重なったときに車山までハイキングに出かけることに。フルフルが誘ったとき、カントクは喜色面々の二つ返事だったという。オレの差し金だと知ったら、「おじさん事件」のときのように激怒するだろう。フルフルもなかなか人が悪いが、そういういたずらなところもまた魅力的。もっと人の悪いオレは、二人が出かけたのをルーム清掃でみんなに吹聴した。二人が稜線を歩いていくのを、こぞってみんなでホテルの窓から高みの見物。背筋の伸びたスマートなフルフルと猫背のやぼなカントクとのツーショットは、ちょっと異様な光景だった。
 それはそうと、フルフルのベッド脇に、外人の男と肩を並べている写真がロケットに入っているのをオレはめざとく発見した。よく見えなかったが、思ったほどの色男ではなさそうだ。
「これ、ひょっとして例のカレシ?」と尋ねたかったが、やめておいた。金田さんの手前もあるし、尋ねたら最後、ここぞとばかりにのろけ話をされるのは嫌だったので。

 事件がまた一つ。クッキーが7月15日で辞めることになった。といっても白樺湖を離れるわけではなく、ロイヤルヒルスキー場の麓にあるホープロッジ乗馬牧場にアルバイト先を替えるとのこと(支配人にはオフレコだった)。なんでも、ちょくちょく遊びに行っていたら、オナーと仲良くなって「うちに来ないか?」と誘われたという。なるほど、彼女らしい。そうやって新しい人間関係を築いて活躍の場を広げていくのだろう。その行動力と社交性はちょっと恨めしくもある。一緒に仕事ができなくなるのは残念だが、ただ、オレの寮生活にとっては好都合だった。あの夜の一件以来、オレはいつ金田さんとクッキーが鉢合わせするのかと、毎晩気が気でなかった。

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幸い、ここまで金田さんにクッキーとのことを知られていないし、クッキーも金田さんとの関係に気づいていなかった。このままうやむやで終れば御の字だった。また以前のようにバイクで一緒に走りに行ったりすれば十分だった。
 さて、そうなると火急の課題は、クッキーの後釜に座るレストランのアルバイトリーダーを誰にするかということだ。本来なら新入社員の工藤くんがその任に当たるべきだろうが、彼は料理の腕を見込まれ、このところ厨房の専属になっていた。となると、あとは宮野尾さんしかいない。しかし驚くべき、いや、恐るべき辞令が下った。
「なんでよりによってボクがレストランリーダーなんだよ?! ほかに適任がいるだろう!?」
部屋に戻ってきたカントクは思いっきり悪態をついた。信じられないことに、クッキーの後釜に指名されたのはカントクだった。本人の言うとおり、誰がどう見ても適材適所ではない。
「チクショウ!! 支配人のヤツ、嫌がらせかよ?!」
まったく、支配人は気でも触れたのか? 若くてきれいな奥さんをもらってどこかがおかしくなったんじゃないか?(ゴールデンウィークに前田が、臨時アルバイトの女の子と間違えて顎で使おうとしたほど、支配人の奥さん=チエさんは初々しい)
そうと決まれば、クッキーからカントクへの業務引継をしなければならないのだが、残り一週間余り、レストランでは渡る世間は鬼ばかり・人生劇場飛車角の幕が開く。
「もうヤだ!! カントクってなんであんなに頑固なの?! あんな石頭初めて!!」
オレが休憩室で夕食を摂っていると、クッキーが血相を変えて飛び込んできた。
「まぁまぁ」
とりあえず、「どうした?」と聞いてみると、何度言ってもお客さんの座席表にチェックを入れてくれないのできつく注意すると、「ボクにはボクのやり方があるから!」と突っぱねると。
「チクショ、ボクにどうすれって言うんだよ!?」
クッキーが去ってしばらくすると、今度はカントクがやって来て悪態をついた。まるで駆け込み寺だ。
「まぁまぁ」
とりあえず、「どうした?」と聞いてみる。
「一つの仕事が終らないうちに次から次へとああでもないこうでもないって指図しやがって! 自分は今までやって来たからって、こっちはいきなりいっぺんにできるわけないだろう! 高飛車になるのもいい加減にしろってんの!」

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クッキーとカントクのバトルはそのうち宮野尾さんとリエリエ、ときどき助っ人で入るフルフルにも飛び火し、レストランの舞台裏はもうてんやわんやのすっちゃかめっちゃか。
「だいぶ賑やかなことになってるな、向こうは。ヒヒッッ!」
レストランを覗いて支配人が悪趣味な笑みを浮かべた。そもそも、なせ支配人はクッキーの後釜にカントクを指名したのだろう?
「えっ? 別に。まぁ、アイツが一番年上だからいいんじゃないかと思って。それになんかおもしろいじゃん! あのツラと身なりでレストランチーフなんて。ほかのホテルじゃ絶対にあり得ないよ」
なんともいい加減というか無責任な! やっぱりどこかおかしくなったんじゃ?

「ハァ、ボクはどうしてこんなに嫌われるんだろう。」
頭に手ぬぐいを乗せたカントクが、深いため息とともに肩を落とした。工藤くんと三人で露天風呂に入っていた。
「そんな、別に、嫌われてなんかないですよ」
工藤くんが「困ったなぁ」という顔つきでフォローを入れる。朝に夕にレストランでカントクは、クッキーにダメ出しをされ、宮野尾さんやリエリエからは、「もっとちゃんと指示してください」とクレームをつけられ、ことあるごとに集中砲火を浴びて孤立無援となっていた。
「少なくとも、スグルッチや工藤くんのように慕われてはいないね。なんでなんだろうね? 一生懸命やってるのに。やっぱり、このツラじゃダメなんだろうね」
またカントクのいじけが始まった。ツラの問題より性格の問題だと思うが。工藤くんもそう言いたそうだ。それに、一生懸命やっていても結果を出さなければ評価されないのが、今日の成果主義社会ではないか。ましてやオレたちは不安定雇用要員なのだから。カントクならそれぐらいのこと、わかっているはずだが。
「ボクはもうあきらめたね」
「そんな、まだ始まったばかりじゃないですか。慣れてくれば大丈夫ですよ」
「いや、そうじゃなくて、女の子に慕われるのはもうあきらめたって。そういう俗な期待や希望は金輪際持たないって」
「なんだそっちかよ!」と、工藤くんもツッコミたそうだった。
「あーきらめまっしょおぉ! あきらめまっしょおぉ! すーっきりしゃまっしょおぉ! パパパラパ!」
「チッ、なんだい! 人が真剣しゃべってるのに、ちゃかしやがって。まったく、スグルッチは不誠実だよ。あんまりテングになるなよ!」

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トモちゃんの名曲を何気なく口ずさんだら、カントクがたいそうな剣幕で非難した。不誠実とかテングになるなとか、穏やかならぬ言いぐさだったが、あえて聞き流した。それにしても、期待だとか希望だとか、カントクは寝ぼけたことを言う。この構造改革まっただ中の社会で、今さら何を期待し何に希望を持とうというのか?! ましてやカントクもオレもこの歳になってこんなところでアルバイトをしている時点で立派な負け組ではないか?!
「今まで誠実に生きてきたのに全然いいことがないよ。今度だって一生懸命やればやるほど、みんなに嫌われるし」
誠実。そんなもの小泉内閣下のこの社会では一切通用しない。恋愛だってその他の人間関係だって、道徳ではなく市場原理に左右されるのだ。カントクは恋愛市場から閉め出されてここ白樺湖に来たのではないか。あくまでも憶測だが。
「誠実って、どういうことを言うんですか?」
さすがに工藤くんはいい質問をする。伊達に岐阜大学で近経を修めてはいない。
「誠実ってのは…一言では難しいけど。少なくともボクは、人の道に外れるようなことは一度もしたことがない。それなのに…」
それなのにいまだ童貞。それじゃああんまりだ! とでも言いたいのか?
「いっそのことボクも、スグルッチみたいに不誠実に生きようかな!」
なんだその言いぐさは!? なんでオレを引き合いに出すんだ? 工藤くんも返す言葉がないじゃないか! まさかクッキーとのことを暴露するんじゃあるまいな? 勘弁してくれよ! 誠実でもなんでもいいけど、他人の女性関係に波風を立てるようなことは! 真澄の特選一升瓶を買ってきてやるから。
 しかし、カントクが立てずとも波風は自ずと、しかも暴風雨がまもなくやって来た。

 リエリエが音頭をとってクッキーの送別会をやることになった。いずれ公式な送別会は行われるだろうが、内輪で前夜祭のようなノリで。
「私は行かないから」
金田さんがオレに言った。憂鬱そうな顔色だった。飲み会が苦手なのはわかる。しかし、今夜のは非公式ながら「送別会」という大義名分があるのでやや特別だ。
「クッキーもリエリエもわざわざ部屋にまで誘いに来てくれたんだろ? だから今夜は行こうぜ。適当な時間になったら、”明日も早いから”って帰ればいいじゃん」
金田さんの顔色が曇った。

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なんでも今夜はイチさんと三船さんとヤマキヨ(西白樺湖のバス停前にある大衆酒場)に飲みに行くという。オレはちょっと不愉快になった。何も今夜に限ってわざわざ出かけることもないだろう(しかも寮の目と鼻の先に)。いくらクッキーが嫌いだからって、もうこれで最後じゃないか。最後ぐらいちょっと顔を出して形を整えるべきだろう。それが集団生活のエチケット、大人のつきあいではないか。それをまるで当てつけのようにパートの二人と外に飲みに行くなんて。大人げない。
「こういう飲み会って絶対に参加しなきゃいけないの? そういうの、私イヤだから。いくら寮生活だからってそこまでの決まりはないでしょ! 私は自分の好きなようにやりたいから」
珍しく、いや、初めて金田さんが強い態度に出た。ちょっとびっくりした。言いたいことはわかるが、ちょっと不愉快だ。
「当てつけだろう?」
「えっ?」
「イチさんたちと飲みに行く予定があれば、クッキーの送別会に参加しなくてもいい理由ができるから」
「そ、そんなことないけど…」
金田さんは目をそらして口をつぐんだ。オレも初めて強い態度に出た。オレだって烏合の衆の飲み会は正直、あまり好きではない。しかし、こういう場に働きに来たからには、ある程度は仕方がないと思っている。それが職場を円滑にするためにも必要だと思うから。しかし、彼女は露骨にそれを避けたがる。いったい、どんな了見でこんなリゾートアルバイトに来たのか? いずれにせよ、潔くない。オレのカノジョなら潔くあってほしい。
「じゃぁ、まぁ、帰ってからでもいいから、ちょっとだけでも顔出しなよ」
口論をするつもりはなかった。ただ、彼女にはもう少し社交性を持ってほしい。オレのカノジョたるもの。―それにしても、いつからオレは金田さんを「カノジョ」と認識するようになったのか? 自分自身に釈然としなかった。やはり、ここへ来て現実と非現実の境界線が曖昧になっているからなのか?
 リエリエに電話でせかされ、フロントクローズが終るとオレはダッシュで部屋に戻った。みなさんお待ちかねだろうが、とりあえず、飲み会の前に一風呂浴びなければ。すると、どうだろう、カントクが部屋にいるではないか。
「ああ、お帰り」
相変わらずの手酌だが、いつもとちょっと様子が違う。

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もともと目つきはあまり良くないのだが、今夜はそれが際立っているというか、やたらと殺気立っている。手酌もかなりのハイペースだ。
「どうしたの? 行かないの? 送別会」
オレが尋ねると、カントクはいっそう殺気立った。
「ボクはクッキーにもリエリエにも誘われてないから」
また始まった。いい加減にしろよ!と思いつつも、寮生活の慣例に再び触れてなだめてみる。
「たしかにそうかもしれないけど、でもボクはこのところ、レストランでクッキーにもリエリエにも顰蹙を買ってるから、二人ともボクには来てほしくないんだよ」
「ひよっとしてカントク、童貞?」
ついにパンドラの箱を開けてしまった。カントクの常軌を逸したいじけぶりにたまりかねて思わず。
「な、何を言い出すんだよ、急に?!」
間違いなく童貞だろう。カントクのうろたえぶりもまた常軌を逸していた。
「童貞?」
「そ、そんなこと、今ここでキミに答える義務はない!!」
ちょっと気の毒だったかもしれないが、パンドラの開放はあるいはカンフル剤になるかも。
「でもカントク、行きたいんだろ? 飲みに」
「行きたいもんか! いいから、オレのことは放っといてくれ! もう、辛いんだよ!」
切実だった。パンドラがカントクのハラワタを掻き回し始めたのか? こうなるとカンフル剤よりも救済の妙薬が必要だった。優しい言葉を囁きかけてくれる聖母マリアのような女性が。カントクはどこか金田さんと似てやしないか? 金田さんも白馬の王子様を待っている。するとオレが彼女のホワイトナイトなのか? そんなおとぎ話めいた役回りはごめん被りたいが。
 カントクにしろ金田さんにしろ、なんだか調子が狂ってしまたので、風呂から上るとオレは半裸のまま、送別会に突入した。
「純情、愛情、過剰に異常! あっちもこっちも恋せよ乙女!」
キョンキョンの名曲をシャウトしながら、クッキーの部屋に入るやいなや、オレは勢いに任せて一番近くにいたリエリエを捕まえて有無を言わせずキスをしようとした。
「キャー!」
黄色い奇声が飛び交う。しかし、フルフルの視線が視界に入って寸前で止めてしまった。
「なぁん!!」
工藤くんとシンタローくんががっかりする。
「なぁんだ、スグルッチ、キスしてくれないんだ!?」
リエリエはすでに酔っぱらっている。

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「えっ? ちょっとスグルッチ! リエリエじゃなくて私でしょ! キスしてよ! 早く!」
クッキーも酔っぱらっている。あんなことがあったから、彼女がそう言うと冗談に聞こえない。
「まぁまぁ、キスは追々ってことで、とりあえず乾杯!」
ノッケからいきなりこの調子では、まるで乱交パーティーだ。オレはフルフルをチラッと見た。彼女は片隅で小さくなっていた。さすがに場違いなのか、いつもの颯爽とした姿勢ではなかった。
「王様ゲーム!!!!」
いい加減、送別会とはほど遠い。しかし、こうなればゴールデンウィーク以来の無礼講だ。王様工藤くんの命令で、オレはリエリエと相合いプリッツをやる羽目に。
「キャー!」
プリッツを一気にかじったオレは、そのままリエリエにキスをした。
「ちょっとスグルッチ、キスは私だって言ったでしょ!」
そう言ってクッキーがオレにのしかかってきた。
「ちょっとちょっと、ダメです! ルール違反! 王様の命令がないことはやらないように!」
工藤くんが止めに入る。
「だって、スグルッチだって命令がないのにキスしたじゃん!」
「あれはアクシデントだから」と言いつつ、オレはまたフルフルをちらっと見た。軽蔑の眼差しではなかったが、明らかに萎縮していた。フルフルがいなかったらフレンチキスではすまされなかったかもしれない。無礼講とは恐ろしい。
「イェーイ!!!!」
王様ゲームはエスカレートしてゆく。クッキーとリエリエと工藤くんとシンタローくんが次々と入り乱れてキスをする。フルフルが引き当てられないよう、オレは祈るような気持だった。
「1番が2番の耳たぶにキス!」
「エェ、ウソォ!!」
王様工藤くんの命令にフルフルが悲鳴を上げた。フルフルが2番のくじを引いたのだ。
「1番誰?」
「オレだよ」
オレだった。フルフルと顔を見合わせた。彼女は一瞬ホッとしたような眼の色を見せたが、すぐに当惑の表情を浮かべた。ほかのやつに引き当てられなくて良かったが、それにしても耳たぶとは微妙な…かえってエロスだ。
「早くしなよ、スグルッチ」
王様が煽るが、もしこれでフルフルがオレのことを嫌いになったら取り返しがつかないと、オレは及び腰になっていた。
「早く!」
もう一度フルフルと顔を見合わせた。困惑は甚だしいが、決して拒絶の眼差しではなかった。
「イヤァン!」

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清水の舞台から飛び降りるつもりで、オレはフルフルの耳たぶに舌を絡めた。得も言われぬ甘い感覚。こんなのは初めてだ。金田さんの唇よりもクッキーの唇よりも、あるいは白馬でのあの夜の彼女の唇よりも。フルフルは肩を強ばらせていた。カワイイ。このまま、あのときオレの部屋でできなかったことをできれば。
「ゴメンね」
オレはすぐにフルフルの耳たぶから離れてささやいた。彼女は当惑の笑みを浮かべつつも、少し涙ぐんでいた。取り返しのつかないことをしてしまった。
「ちょっとぉ、エロイ! 耳たぶ!」
「フルフル、なんか涙ぐんでるよ。大丈夫?」
一度取り返しのつかないことをしてしまうと、そのあとは野となれ山となれ。オレはいきなりトランクス一枚になってフルフルがいるベッドに飛び込んだ。
「キャー!!」
「えっ? ちょっと!」
「オレとフルフルはこのまま王様ゲームから離脱します」
「エェー!! マジで??」
またまたフルフルは当惑しつつも、まんざらでもないようだった。王様ゲームで誰彼となくキスされるよりはマシなのだろう。オレだってこのあと万が一、誰かとフルフルがキスをするようなことになったらたまらない。オレたちはベッドの上から四人に減った王様ゲームを観戦した。どさくさに紛れてオレはフルフルの膝や肩に手をやった。彼女は軽く拒絶した。
 王様ゲームは止まるところを知らない。再三クッキーとリエリエに復帰を促されたが、オレは固辞した。さすがにこれ以上やったら、フルフルにソッポを向かれると思った。それだけは避けたかった。オレは彼女の顔色を窺いながら、王様組に合いの手を入れるだけにし、このまま適当に収束すればいいと思った。ところが、
「スグルッチ、なんか今日、ノリがイマイチじゃん?!」
トイレに入ったオレが逸物を引っ張り出したそのとき、あろうことかリエリエが乱入してきた。不意を打たれたオレは、下半身をしまうにしまえなかったが、ちょうど電球が切れていて真っ暗だったので、そのまま野放しにした。
「あぁっ、スグルッチのオチンチン見っけ!」
次の瞬間、リエリエがフェラチオを始めた。電光石火の早業だった。面食らう間すらなく、あっと言う間に彼女の口の中でイッてしまった。それを彼女はゴクンと喉越し爽やかに一気飲みすると、
「うぅん、ヘルスゥィー!」と笑顔で出て行った。取り急ぎ、オレは用を足して出た。

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「ちょっと二人で何やってたの、トイレで?!」
すかさずクッキーが突っ込む。
「えっ? ちょっとエッチを! フフッ!」
リエリエが正直にボケる。
「エッチにしちゃあ早いなぁ!」とシンタローくん。たしかにオレは早い。ベッドメイクもこれくらい早ければと思う。
「よぉし、王様ゲーム、まだまだ行っちゃうわよぉ!」
そう言ってリエリエはまた一気飲み(今度はビールを)。誰もリエリエの本当の冗談を真に受けていなかった。オレはまたフルフルの隣に腰かけた。彼女は控えめな笑顔を見せた。彼女はおそらく何も疑っていないだろう。オレが柳の下ならぬトイレの中で三匹目のドジョウを捕まえたことなど。それにしてもこのドジョウ、いったい何者なんだろう?! あくまでも無礼講の延長なのか、それとも相当なクワエモノ、もとい、クワセモノなのか??
「あっ、ネエさん、お帰りぃ!」
そこへ金田さんがひょっこり顔を出した。なんという数寄なタイミングだろう!? もう少し早ければ、三匹目のドジョウはなかったかも。すなわち、これも自己責任なのだ。もちろんオレではなく金田さんの。彼女の監督不行き届き。まったく、オレのことが本当に好きなら、片時も目を離さず首ねっこを押さえ付けるぐらいの気迫を見せろよ! 今頃ノコノコ現れたってオレはもうイッちゃったんだから! オレは憤慨していた。すると金田さんは顔をしかめて言った。
「カントクは?」
「カントクねぇ、よくわかんないけど、今日は来ないんだって」とリエリエ。
「どうせまた、いじけてんでしょ? ボクはお呼びじゃないって!」とクッキー。すると金田さんは、
「私、カントク呼んでくる」と、しかめっ面で取って返した。また逃げた。どうして酒池肉林に飛び込んで来ないんだ?! 酒池肉林に飛び込まなければ、弱肉強食のこの社会を勝ち残れないぞ!! 金田さんはカントクのような夢見る負け組でいたいのか?! ちょうどいい。負け組同士、手酌で夢を語り合い傷を慰め合えば。同じ負け組でも、オレは夢など見ない。夢なんか見ている暇があったら、とりあえずはフェラチオをされ、セックスをするほうがよっぽどマシだ。
とは思いつつも、三十分経っても金田さんが戻ってこないので、オレはヤキモキする。ほかのみんなも不審に思い始める。ミイラ取りがミイラになるのはいただけない。オレはみんなに一言断って様子を見に行った。

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するとどうだろう、ミイラ二人が膝を突き合わせて何やら真剣に議論しているではないか!
「もぉ! なんでカントクって、そこまで後ろ向きなの?!」
独り酒が回っていたカントクは、金田さんにイジケぶりをさらけ出してしまったようだ。
「私もかなり後ろ向きだけど、カントクほどじゃないわよ!」
女性の金田さんに叱られ、カントクはさすがにこたえているようで、オレや工藤くんなら、ああ言えばこう言うでいじけのスパイラルに陥るのに、ここではまるで借りてきた猫のようにおとなしい。それにしても滑稽な話だ。例えは悪いが、泥棒が泥棒に向かって「どうしてアナタは泥棒なの? 私も泥棒だけど、アナタほど盗んじゃいないわよ!」と言っているようなものだ。
「カントク、みんなと一緒に飲みたいんでしょ?」
「いや、ボクは…」
「私は行きたくないから行かないんだけど」
そう言って金田さんはオレをチラッと見た。まるで牽制するかのように。
「でもカントクは行きたいんでしょ?」
カントクは煮え切らない。金田さんが詰め寄る。オレは成り行きを見守る。
「行きたいよそりゃ! でも行けないんだよ!」
カントクがついに本音をさらけ出した。悲痛な叫びだった。カントクの心痛はよくわかる。みんなの輪に加わりたいようで加わりたくないようで加わりたい。オレ自身がずっとそうだった。学生のときも勤め人のときも。オレこそまさに、世間の輪に加わるのを「諦め、希望を捨て」て白馬を目指したのだ。しかし、皮肉にも、ここ白樺湖に来て生来初めてと言っていいほど周囲の輪に加わり、溶け込んでいる。
「行きたかったら、行けばいいのよ! 誘われているとかいないとか、そんなの、自分が行きたかったらどうだっていいのよ!」
「そうなのか!? 行きたかったら行ってもいいのか!? ホントにそれだけで行ってもいいんだね?!」
「そうよ! それだけで行ってもいいのよ!」
「そうか! よし、じゃあ行ってくる!」
カントクは石橋を叩くように言うと、張り切り勇んで部屋を飛び出した。金田さんだってカントクと似たり寄ったりではないのか? 本当はみんなの輪に加わりたいはずだ。そうでなければ、そもそもこんなリゾートアルバイトに来るはずがない。
カントクを見送ると、金田さんはオレの方に素早く向き直って目を吊り上げた。今度はオレに宣戦布告か?! オレは思わず身構えた。

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「スグルッチは、なんでいつも自分の意見を押しつけるの?!」
オレがいつ自分の意見を彼女に押しつけたというのだ?!
「押し付けてるよ! 私は飲み会には行きたくないから行かないの! それじゃいけないの? こういう場って、なんか強制的に参加しなきゃいけない雰囲気があるけど、私はそれが嫌なの!」
そもそも本当に行きたくないのか? 本当は行きたいのでは?
「行きたくないよ! 行きたいわけないじゃん! あんな節操のない集まり! さっきちょっと入ってもう、すぐ嫌になって出てきたんだから! 何よ、あの乱れた空気は?! いったい、何やってたのよ?!」
「何やってたのって、フルフルの耳たぶを愛撫してリエリエにフェラチオをされただけだよ」などと言えるわけがないので、そう言われると弱い。ここは素直に自らの非を認めたほうが無難だ。そもそも、こんなことでムキになって口論しても仕方がない。
「たしかに、押しつけがましいところがあったかもしれない。ゴメン、ちょっと反省してる」
オレが神妙に言うと、金田さんはどうにか矛を収めそうになった。すかさずオレは畳みかける。
「じゃあ、そういうことでエッチしよっか?!」
「えっ??」
「とりあえず、エッチして今日の口論を水に流そうよ!」
 金田さんの風呂場でセックスをした。文字どおり水に流して。フルフルが戻ってきたらいっかんの終りだったが、金田さんの不信感をくすぶらせないためには思い切ったセックスが必要だった。目には目を。セックスにはセックスを。カントクは上手くみんなの輪に加われたのだろうか? そんなことを思いながら、プラスチックの濡れた床に金田さんを横たえ、一気に最後まで持っていった。むちゃなセックスに金田さんはすっかり興奮し、霰もなく乱れ果てた。とりあえず、これでまずまず安泰だろうと胸を撫で下ろした瞬間だった。部屋の扉をノックする音がかすかに聞こえた。フルフルだ! いっかんの終りだ! 金田さんも一瞬にして昇天から蒼白。
「スグルッチ! スグルッチ!」
?? フルフルじゃない!!
「誰? クッキー?」
「そうみたいだね。」
「なんで? なんでクッキーが私の部屋に来るの?」
「いや、なんでだろう?」
驚天動地のオレ。不信感と不快感が沸々とする金田さん。二人とも営みを終えたままで。
「スグルッチ! いるんでしょ?」
「呼びに来たんだよ、オレたちを」

<< 67 >>

「オレたちをって、私の部屋に来て、なんでスグルッチの名前だけ呼んでるのよ?」
そのとおりだ。クッキーはオレを呼びに来たのだ。カントクは現れたが、オレがなかなか戻ってこない。カントクに尋ねる。「オレの部屋で金田さんといる」とカントクが答える。そこでクッキーがオレの部屋を見に来る。ところがそこはもぬけの殻。そこでこうして金田さんの部屋に及んだ、というわけだろう。
「スグルッチ! いるんでしょ?」
オレを呼ぶ声とノックの音が次第に大きくなる。
「どうしよう?」
「とりあえず、大急ぎで音を立てずに着替えて出るか?」
「無理よ! いくら着替えたって髪が濡れてるもん。それでバレちゃうよ!」
「スグルッチ! 開けるよ!」
!! 万事休すか!?
「鍵、掛けたっけ?」
「たぶん。たぶん掛けたと思う。掛けたはず。たぶん…」
「開けるよ!」
こうなったら、鍵が掛かっているのに賭けてこのまま二人で息を潜めるしかない。とにかく、この急場を凌ぐのが先決。クッキーと金田さん、それぞれへのアカウンタビリティは後回しだ。
「スグルッチ! スグルッチ!」
クッキーはその後も十分近くノックし続けたが、結局、ドアを開けることなく引き下がった。
とんだ水差しでオレは金田さんの部屋から避難せざるを得なくなったが、しばらくすると、今度は携帯電話が鳴りだした。もちろんクッキーからだ。およそ二分置きに何度も。西白樺湖のバス停に疎開したオレは、いっそのこと、しらばっくれて出てやろうと思ったが、やはり、今夜は触らぬ神に祟りなしだろう。ただし、それは問題の先送りでしかない。明日になれば、どんな厄介なことが待ち受けているのか。それでもいい。今夜がこれ以上、何事もなければ。飲み会の現場はどんなことになっているだろう? クッキーは不穏な態度でいるのか? フルフルはどんな反応をしているのか? 彼女はもう金田さんの部屋に戻っただろうか? 金田さんは適当に話をごまかせるだろうか? 今夜の風は生暖かい。しかし、明日は明日の風が吹く。明日の風は間違いなく逆風だろう。ひょっとして案外、クッキーは何事もなかったかのように振る舞うかもしれない。
しかし、さすがにそれは甘かった。

「おはようっす!」
翌朝、朝食に厨房を訪れると、ちょうどクッキーがコーヒーを入れ換えていたので、オレは普段どおりの挨拶をした。

<< 68 >>

しかし、彼女はオレを一瞥しただけで挨拶を返してくれなかった。工藤くんがちらっとこっちを見た。二人の不穏な空気が厨房中に漏れ伝わったのか?
 休憩室で独り朝食。いつもなら誰か一人は一緒なのだが、今朝は誰一人として休憩にやって来ない。たまたまなのか、それとも昨夜のことが何かしら響いているのか。そこへクッキーが入ってきた。従業員用のコーヒーを継ぎ足しに来たようだ。六畳四方の休憩室に緊張感が走る。オレはそ知らぬ顔で食パンを囓る。
「スグルッチ、」
「何?」
「私になんか言うことない?」
やはり来たか! 大戦の火蓋が切って落とされたようで暗澹たる気分になったが、こうなった以上はとにかく、戦渦を最小限に食い止めるべく努めなければ。
「えっ? ああ、ごめんね。あれから携帯に電話があって、ずっと長話してたから、送別会に戻れなくて」
一晩思案したあげくの方策は、とりあえず、知らぬ存ぜぬで押し通すこと。スキャンダルをもみ消す常套手段だ。何しろクッキーは四日後に退寮なのだ。それまでなんとか持ちこたえられれば。するとクッキーは恐ろしく殺気立った目つきで言った。
「へぇー、そうなんだ。私はてっきりネエさんとエッチしてると思ったんだけど」
それからというもの、クッキーはオレと顔を合わせるたびに、
「ネエさんとエッチしたでしょう?」と、しきりに噛みついてくる。しかしオレは、
「いや、してないよ」と、暖簾に腕押しを通す。
カントクに聞いてみた。昨夜、あれから、クッキーはどうだったのかと?
「いやぁ、大変だったよ。スグルッチがネエさんの部屋に消えた! 二人で何やってんだろう? 何やってんだろう?って、そりゃあもう、ただごとじゃない様子だったから、すっかり宴会も白けちゃって。ボクは工藤くんの部屋でシンタローくんと三人で飲んでたよ」
オレとクッキーの関係を知っているのはカントクだけだ(クッキーが誰かにしゃべっているとは思えない)。だから、クッキーにそそのかされてカントクが金田さんとのことをしゃべってしまわないように、あるいはどさくさに紛れてうっかりクッキーとのことを金田さんにしゃべってしまわないように、彼をしっかり味方に引き入れておく必要がある。
「クッキーがオレとの関係を金田さんにぶちまけるってこと、あり得ると思う?」
「さぁねぇ。

<< 69 >>

わかんないけど、それはないんじゃない? 彼女はカレシがいるんだから、みすみす自分の首を絞めるようなことはしないと思うけど」
「やっぱり、そうか?」
「でも、わかんないよ。女の情念は常識じゃ量れないからね。嫉妬に狂ったら何をするかわからないよ。ましてや、あと四日でクッキーはいなくなるわけじゃん。立つ鳥あとを濁すで、それこそ自爆テロをやるかもしれないし」
「自爆テロか…」
パイプのけむりの寮内は、今や一触即発の火薬庫だった。

「スグルッチ、ちょっと、」
22時のフロントクローズを終えて寮に戻ると、金田さんが待ちかまえたように呼びに来た。いつにもまして沈鬱な様子だ。顔色も良くない。もしかして…オレは背筋が凍りつく。
「どうしたの?」
「今日の夕食のとき、」
「ネエさん、スグルッチとエッチしたんだよね? どうだった? 良かった?」と、クッキーがみんなのいる食卓で平然と言ってのけたというのだ。
「スグルッチも、何も隠すことないのに!」と。
「私、もう、我慢できない! なんでクッキーは、そんな意地悪するの? 私に恨みでもあるの?」
金田さん本来のクッキー嫌いが、本件で致命的になっている。まさに危機的状況だ。
「クッキーと何かあったの?」
「何もないよ! オレが思うに、クッキーは、“スグルッチは私のことが好きだ”と勝手に思い込んでいて、それなのに金田さんとオレがそんな関係になっていたから、自尊心を傷つけられてカッとなっているんじゃない?」
一番聞かれたくない質問だったが、とっさにそう弁明した。我ながら、なかなか的を射ているではないか?!
「私もそれは思うけど、でも、クッキーがそんなふうに思い込むようなことはなかったの?」
「ないよ! だって彼女にはカレシがいるじゃん! 彼女の性格なんだよ。勝手に思い込んでそれが違ったら、勝手に腹癒せするのは」
彼氏がいるのは大きい。そのウィークポイントを徹底的に攻撃し、金田さんに対しては、クッキーをひたすら悪者にすることだ。
「たしかに。カレシがいるのになんで、私とスグルッチのことに干渉するんだろう?」
「性格なんだよ。彼女の」
クッキーを悪者にするのは気が咎めなくもない。公衆の面前でそんな放言を吐くほど、彼女がオレに狂っていると思えば、気分が良くもある。しかし、自らの保身のためには、それも致し方ない。

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それに、何も知らない金田さんの立場に立てば、かなり腹立たしい。何も彼女を辱めることはない。本当にオレがほしいのなら、彼氏との関係を清算する覚悟でオレとの関係をカミングアウトし、正々堂々と金田さんと対決すればいい(本当にそんなことをされたら、いよいよお手上げだが)。
 翌朝、ちょっとした小競り合いを演じてしまった。オレがフロントにいると、レストランからクッキーがやって来て、
「ちょっと小銭借りるよ!」と、レジを開けて小銭をいくつか持っていった。てっきりレストランのお客さんに両替を頼まれたのだと思っていたが、あとでレジ点検をすると、クッキーが持っていったと思われる分の金額が合わない。
「おい、クッキー! なんで小銭だけ勝手に持っていったんだよ? ちゃんと両替しておいてくれよ!」
計算が苦手なオレは、金額の処理にはひときわ神経質になる。それに、昨日の放言に対する反感が相まっていた。
「何ムキになってんの? コワイ!」
厨房にいるクッキーを捉え、いつになくキツイ口調で注意すると、クッキーは怯えたように言い返した。そのふてぶてしい態度がまた尺に障った。
「怖いとか、そういう問題じゃないだろ! なんで勝手にレジから現金を取るんだよ?」
「なんでそんなムキになってんの? だから言ったじゃん! 小銭借りるよって」
「借りるって両替のことじゃないのかよ? だったら、ちゃんとそう説明しろよ! わかんないだろ!」
「なんで? あとですぐに返せば問題ないじゃん! ちゃんと断ったんだし。何ムキになってんのよ! おかしいよ!」
クッキーは心外な目つきでオレに背を向けた。少し涙ぐんでいるように見えた。背筋に戦慄が走った。たしかに、普段なら頭ごなしに注意することはなかったかもしれない。クッキーの恐れを知らぬ態度にオレ自身が恐れをなし、思わず鬼の首を取ったかのように言ってしまったのかもしれない。それでも、間違ったことは言っていない。間違ったことは言っていないが、それがクッキーの逆鱗に触れてしまった。

「スグルッチ、ちょっと!」
その日の夕方、フロントの出勤を控えて部屋にいると、金田さんがドアを開けて顔を出した。嫌な予感がした。彼女の輪郭が極端に翳っている。
「何、どうしたの?」
とっさに腰が引けて聞き返した。
「いいから、ちょっと顔貸してよ!」
「こんな顔でよかったら、いつでもどうぞ!」

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なんて冗談も通用しそうにないほど、彼女の目つきが異常に殺気立っていた。やはりクッキーはやりやがったか! 腹をくくるにくくれないまま、オレは向かいの物置き部屋に連行された。
「スグルッチ、チューしたでしょ?!」
「えっ? チュー? チューは…してない…よ…」
開口一番、鬼の形相で尋問する彼女。大蛇に睨まれた雨蛙のようなオレは、とっさにそうとしか返す言葉がなかった。
「嘘!! チューしたでしょ!? 私、聞いたもん!!」
「聞いたって、誰に?」
「クッキーに聞いたもん!」
恐ろしい女だ。自尊心の起死回生のためには、既存の恋愛関係を投げ出してまで相方に必殺の一撃を食らわすのか! それとも彼氏にはバレない確信があるのか、バレても平気な自信があるのか? とにかく、ここまで捨て身で来られては、オレにはちょっと勝ち目がない。しかし、ここで早々と兜を脱いではオレの名折れだ。
「不倫がバレたときこそ男の真価が問われるんだよ!」―シゲさんの名言を地で行くような芸術的な立ち振る舞いを見せてやる。
「クッキーとチューなんかしてないよ!」
金田さんが留守だったあの一夜の出来事は夢か幻なのだ。幸い、カントクもすっかり寝入っていたので気づいていない(狸寝入りで薄目を開けていたら怖いが)。クッキーがそれを泣訴すれば、
「寝ぼけてんじゃない、オマエ?!」と退け、さらに泣訴すれば、
「ひょっとしてオマエ、オレの寝込みを襲ったのか?!」と、逆訴すればいい(実際、オレは襲われたのだ)。シゲさんもびっくりの筋書きだ。しかし、
「クッキーじゃないよ! リエリエだよ!」
「えっ?」
「リエリエとチューしたでしょ?! おとといの送別会のとき」
「あっ!」と、思わず声を上げそうになった。そっちで来るとはまるで盲点だった。ますますクッキーは恐ろしい女だ。自分のことを棚に上げてリエリエをダシに使うとは! 自爆テロならまだしも、負傷した戦友を囮として敵陣に放り込むような、極めて卑劣かつ非人道的なやり口ではないか! 薩摩人の風上にも置けない不届き千万なやつだ! 断じて許せない!
「リエリエと、チューは、してないって!」
あれはチューでなくフレンチキスなのだ(フェラチオは間違いなくされたのだが、それは当然伏せておく。リエリエがしゃべらない限り、誰にも知られないのだから。もっとも、当人も酔っぱらった弾みで覚えていないかも)。

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「嘘! クッキーに聞いたもん!」と、金田さんはクッキーの密告による冒頭陳述で声を震わせるのだが、どうも話がねじ曲がっているというか、大きな尾ひれがついている。なんでも、オレが酔っぱらったあげくに嫌がるリエリエを力ずくでねじ臥せ、周りの制止も聞かずにディープキスに及んだというのだ。なるほど、オレを窮地に追い込むには、フレンチキスでは都合が悪いのだろう。いよいよ恐ろしい女だ。しかし、こうなると俄然レジスタンススピリットを掻き立てられる。
「それはまったくデタラメっていうか、ヒドイでっち上げだだよ!」
オレはフレンチキスの真実を釈明した。
「嘘!? 嘘だよ!?」
「嘘じゃないって! ほかのみんなに聞いてみればいいじゃん! その場にいたんだから。それになんだか、まるでオレ一人が極悪非道のような言いぐさだけど、ほかのみんなだってやってたんだから!」
そう言った瞬間、彼女の目の色が変わった。血生臭い予感がした。
「だから私は行きたくないのよ、あんな飲み会! だいち何よ!? みんながやってるからってスグルッチもやるの?! ゲームの延長だったらチューしてもいいの?!」
激怒した金田さんは声をしゃくり上げ始めた。
「なんで、なんで私がいながら、ほかのヒトとチューができるの?! 結局、私ってスグルッチのなんなの?? 私たちってホントにつきあってるの?? スグルッチはつきあってるって思ってないでしょ?!」
女性の号泣を初めて目の当たりにした。厄介なものだと思った。そんなに難しいことを言うなら、無理に付き合わなくてもいいと思った。どうせここは現実の別世界なのだ。白馬に戻るまでの空白の時間なのだ。しかし、
「つきあってると思ってるよ!」と、オレは心にもないことを口走ってしまった。
「イヤだよ! このままじゃつきあえないよ! 私をなんだと思ってんの?! 真剣にスグルッチのこと思ってるのに、スグルッチはほかの女の子とも仲良くしたいんでしょ?! 私一人じゃもの足りないんでしょ?! 私はゴメンだよ、そんなの!!」
大粒の涙を落とす彼女。本当に厄介なことだと思った。「あっしには関わり合いのない話でござんす」と、木枯らしを吹かせて踵を返したかった。
「ゴメン! オレが悪かった!」
しかし、オレがやったのは土下座だった。

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まったく、なんというザマだろう! これが現実に決別しようとする人間のすることだろうか? それともここ白樺湖が現実とは別世界だから土下座をするのか? あるいは真摯な謝罪なのか? あるいはフルフルに悪く思われたくないからなのか? とにかくオレは土下座をした。初めての体験だった。男なら一生に一度は女に向かって土下座をしてみるもいい思った。男の土下座に女はどう打ってでるのか? 金田さんの場合、とりあえず、泣き止んだ。
「わかった。とりあえず、スグルッチとの関係は白紙に戻して、もう一度クッキーにちゃんと話を聞いてみるから」
白紙に戻すのはいいが、もう一度クッキーと話したところで、またうまいこと丸め込まれるに決まっている。どうして当事者のリエリエ、あるいは第三者の工藤くんやフルフルに聞こうとしないのか?
「そんなこと聞けないよ! 聞けるわけないじゃん!」
たしかに、「私はスグルッチのカノジョだから問いますが、あなたはカレとチューをしたのですか?」なんてことを尋ねては角が立つことこの上ない。工藤くんやフルフルだって嫌だろう。過ぎた無礼講をいちいち蒸し返されては。やましさがないわけではないので。そう、みんなやましいのだ。やましくないのは金田さんとカントクだけだ。
22時の業務を終えて部屋に戻ると、沈鬱な顔付きでカントクがいた。
「まったく、スグルッチはなんてやつだろうね! あんないたいけな女の子を泣かせるなんて! ボクはやりれなかったよ、ホントに!」
どうやら、さっきまで金田さんが部屋にいて、今回のチュー疑惑を涙ながらにカントクに語ったようだ。
「私という者がありながら、スグルッチはなんでそんなことをするんだろう?って、泣いてたよ。ネエさん」
「私というものがありながら。」危険なセリフだ。これまでオレは、オレたちが恋人同士だと認める言質を彼女に与えなかった。

「私のこと好き?」
服を脱ぐ間際に彼女が問いかけても、笑顔で段取りを続けてなし崩しにするばかり。そんなオレへの不満もこのほど爆発したのだ。
「オレのことを大好きだと、スグルッチがいたからがんばれたと言ってくれた金田さんの好意に、できる限りの行為で応えたい」
この期に及んでもそんな答えで、オレは彼女のガス抜きをする。言葉とはそれだけ重みのあるものだと思っていた。だからセックスはできても、「好きだ」とか「つきあおう」

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とかは絶対に言えなかった。「私たちは恋人同士なんだ」と彼女が思い込む分には構わない。しかし、「私たちは恋人同士なのに・なんだから」と主張し始めると始末が悪い。

「私、大好きだなんて言ってないもん!」
金田さんはムキになって否定した。
“よく言うぜ、まったく!”と内心閉口しつつも、彼女の立場を察っしてみる。おそらく自分の一方的な求愛にはしたくないのだろう。スグルッチも少なからず私にその気があったから私たちは関係を持ったわけで、それなりに振る舞うのがスジだと。しかし気の毒だが、それはスジ違いというか彼女の独り相撲なのだ。そんなスジ論を叩きつけられたら、オレは彼女を遠ざけるつもりだった。こんなところで惚れた腫れたの新派劇はゴメンだった。
それなのになぜ、土下座までして彼女に赦しを請うたのか? それはフルフルをモノにするためだった。
「やかましい! ツベコベ言うならもうけっこう!」と、彼女に三行半を突きつけるのはたやすい。新派の舞台に自ら幕を引けばいいのだ。しかし、それでは悪評が残る。つまりは芸能人のスキャンダルのようなものだ。「不倫は文化だ!」などと開き直ってしまえば憎たらしいだけだが、「ホントにすみませんでした! もう二度としませんから」と一途に頭を下げれば、なんとなくカワイゲがあって「でき心なんだから今回だけは目をつむってやるか」と矛が収まり、さらにそのカワイゲで好感度が上ってファンが増え、かつ次のロマンスに弾みがつく。その路線を敷くための土下座だ。もちろん、この敷設をカントクに話すわけにはゆかない。
 そうは言っても金田さんと恋人同士だと名実ともに認めてしまっては、お互いに身動きが取れなくなるのでは? それに万が一、フルフルがオレのこの路線に乗っかったら、金田さんと相部屋だけに、目下係争中のクッキー・リエリエ問題以上にこじれるのではないか? いや、そんな懸念はナンセンスだ。なぜなら、よほどのことがない限り、それはまずあり得ないから。フルフルはよほどの女性だ。カナダにいる彼氏を差し置き、よほどの男子ではないオレごときとリゾラバにうつつを抜かすような真似はしないだろう。クッキーやリエリエとは格が違うのだ。いわば、別格の彼女に対峙するために形を整える。そのための土下座なのだ。

「で、カントクはなんて答えたの?」

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「なんとも答えようがないよ! ひたすら同情するしかなかったよ! つくづくボクは自分の無力さを実感したよ。」
カントクは金田さんにその気があるのだろう。ゴールデンウィークに前田と工藤くんとお気に入り談義をしたときから、すでにそうだったのかもしれない。
「辛いなぁ…」
カントクはため息混じりにつぶやく。さぞかし辛いだろう。オレも経験がある。女にだらしない友人がいて(長野オリンピックに一緒に行ったマサオ)彼に唾を付けられた大学の同級生や後輩の女の子たちが、ときどきオレに泣きついてきた。
「どうしてマサオくんは私以外の女の子と?! でもやっぱりマサオくんが好きなの!!」
嫌なものだ。自分がその子にその気があればなおさらだ。そんなときオレはためらう。
「スグルッチなんかとつきあうのはやめて、ボクとつきあおう! ボクはキミを泣かせるようなことは絶対にしない!」
カントクだってそう力強く言って金田さんを抱きしめたかったに違いない。しかし、それを言った瞬間にすべてが終ることを彼も知っているはずだ。カントクの気持が痛いほどよくわかる。しかし、オレはカントクに同情したりはしない。むしろ密かな優越感を持って彼を見下させてもらう。これまで散々マサオに煮え湯を飲まされてきたから、今度はオレがカントクに煮え湯を飲ませる番だ。スジが通っていないどころかスジ違いにも程がある。しかし、「誰かに傘を盗られたから誰かの傘を盗る」、あるいは「イラクがクウェートから撤退しろというのなら、イスラエルがパレスチナの占領を解くのが先だ(サダム・フセインの「パレスチナ・リンゲージ」)」そんなスジ違いの理屈がまかり通るのが現代。ましてやここは現実の別世界なのだから。
「カントク、いる?」
クッキーがひょっこりと顔を出した。オレを避けるようにうかがっていた。なんだか気まずい。カントクに一言二言耳打ちしてクッキーは退散した。
「なんだって、アイツ?」
クッキーの一挙一動に戦々恐々となるオレ。よっぽど、
「なんだって金田さんにあんなこと吹き込んだんだ!?」とクッキーの部屋に乗り込んで彼女を吊し上げてやろうかと思った。しかし、それこそ、彼女が最終兵器のボタンを押すことになりかねない。不本意だが、ここは死んだふりで彼女と金田さんとの成り行きを見守るしかなかった。

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「ちょっと話したいことがあるから、部屋に来てくれだってさ! 今度はクッキーが涙ながらの身の上話かな? まったく、スグルッチは罪な男だね!」
カントクまで味方に引き込んでオレを四面楚歌にしようという魂胆なのか? そうはさせまい! こっちには伝家の宝刀・真澄攻めがあるのだ。
「しかし、ボクの存在はなんなんだろうね? 普段はないがしろにされているのに、こんなときだけクッキーとネエさんから引っ張りだこだなんて。まるでピエロだね!」
見てくれはピエロというよりコジキに近いが、奇しくもまさにそのとおり。ただし、そんな突っ込みはまたカントクの逆鱗に触れ、たちどころに手の平を返してオレに敵対する羽目になる。下手をすれば、対オレで、クッキーと金田さんが共同戦線を結ぶのを肝煎りする恐れがある。そうなれば、オレは完膚なきまで干上がってしまう。こんな高原地帯で干物になるのはゴメンだ。だからオレはコジキのカントクに命請いをする。
「頼む! うまくやってくれ! また真澄買ってくるから!」
「普通の真澄じゃ割りに合わないね。山廃仕込みぐらいでなきゃね」
カントクのヤロウ、足下を見やがって! 山廃なんか買ってきたら給料の二日分が飛んでしまうじゃないか! 
「スグルッチがネエさんとめでたく元鞘に収まって、これからも無難に寮生活を続けられるかどうかは、ある意味ボクの証言いかんなんだからね! つまりはボクがスグルッチのキャスティングボートを握ってるってわけさ!」
嫌なことを言いやがる。しかし、それでフルフルへの体裁が保てるなら、二日分の給料など安いものだ。
翌日。朝方から不穏な静けさが漂う。金田さんともクッキーとも、顔を合わせても会話はしない。ここは透明人間になりきるのだ。
「スグルッチのせいでカレシとの関係にヒビが入ったって、ボクたちに話しながら泣き出したよ。まったく、大した女だね、クッキーは!」
カントクから昨夜の会談の報告が。なんでも、以前にクッキーの彼氏が来てみんなで飲んでいるときに「クッキーたち、結婚すればいいじゃん?!」とオレが何気なく言ったのが、二人の関係をギクシャクさせる火種になったのだと。
「スグルッチは私とカレシの仲を引き裂こうとしている!」
そう言わんばかりの勢いで、彼女は涙ながらにオレの非難をみんなにぶちまけたとのこと。言いがかりも甚だしいというか、明らかに陰謀だ。

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さすがに工藤くんもリエリエもまともに受け取るとは思えないが、嘘も百回言えば真に聞こえるように、「スグルッチはヒドイ! スグルッチはヒドイ!」とクッキーが連呼し続ければ、みんなが彼女に肩入れし始める危険性がないとは言い切れない。それがフルフルに波及したら大事だが、そうならない限り、「吠えたけりゃ好きなだけお吠えなさい、お嬢さん!」と透明人間のオレは顔色一つ変えない、と行きたいところだが、カントクの話を聞きながらオレはピリピリ・プルプル。そしてこの中休み、どうやらクッキーが再び金田さんを部屋に呼び寄せて何事か言い含めているらしい。今度は何を吹き込むつもりなのか? オレは生きた心地がしなかった。透明人間を決め込んだからには手も足も出せない。あと二日、これ以上クッキーが暴発しないことを一途に祈りながら、彼女の退寮を待つしかないのか? 歯がゆい。不甲斐ない。独りベッドに横たわり、そんな思いで低い天井を見つめながら、夕方までの時間をやり過ごしていた。
「スグルッチ、ちょっと、」
小さなノックがして金田さんが顔を出した。胸板を正拳突きされたかのように一瞬呼吸が止まりそうになる。彼女の「ちょっと」は得てして大事だからだ。クッキーとの会談を受けて再度、オレに審判を突きつけに来たのだろう。死刑囚ような顔色と足取りをごまかして半開きのドアに向かう。
「さっきまたクッキーと話してたんだけど、私もう何がホントのことなのかわかんなくなってきた…」
今頃何を言い出しやがると思いきや、どうやらクッキーは金田さんにも、
「スグルッチが引き裂こうとする」と涙の非難をやったようだ。
「だから、スグルッチなんかとつきあうのはやめたほうがいい」と。さすがにいくらなんでもそれはあり得ないと、金田さんも思ったようだ。
「なんでクッキーは、そんなこと私に言うんだろう? 仮にそれがホントだとしても、なんで私とスグルッチの仲がギクシャクするようなことをわざわざ言わなきゃいけないの?」
クッキーがわからないと金田さんは言う。わからなくて幸い。ちょっと勘のいい女なら、すぐに気づくはずだ。”この二人は何かある”と。男女の関係がもつれたら、真っ先に男のほうを疑い洗い出すのが女たる者の務めではないか。しかし、彼女はオレとクッキーの関係を夢にも疑わず、ひたすらクッキーに不信感を募らせている。ありがたい。

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”クッキーは意地が悪いから、性格に難があるから”と摺り込んで、ここは徹底的に彼女を悪者に仕立て上げる。金田さんがそう思い込んだまま、あと二日でクッキーは忘却の彼方に。
本当のところ、クッキーは背っ羽詰まっているのかもしれない。あと二日、なんとかして金田さんに一泡噴かせてやりたい、オレの背中に爪痕を残してやりたい一心でここまで謀略を巡らせてきたのだろうが、それがここへ来て、かなり手詰まりで苦し紛れになってきたようだ。この勢いであと二日、クッキーが墓穴を掘らなきゃいいが。自爆テロより彼女が地雷を踏む恐れが出てきた。地雷が爆発するか不発弾で終るかは、金田さんの勘がどこまで鈍いかにかかっているが。
「スグルッチ、クッキーとちゃんと話、しようね」
勘の鈍い金田さんが聡そうな目尻になって言うには、オレとクッキーで双方の言い分が食い違っているので真相はいわば薮の中。ならば、オレたち二人を同じ評定の白洲に晒し出して白黒着けようというのだ。今夜、オレのフロント勤務が終る22時にクッキーの部屋に二人で乗り込むことで話を着けてきたという。
「三人で話し合って、何が真実なのかハッキリさせようね」
三人で話し合ったところで、真実が明らかになることはないだろう。クッキーが地雷を踏むか自爆テロに踏み切るかしない限り。彼女はしたたかな女だ。いくらオレに首ったけでも自分を貶めるようなことは絶対にしないはずだ。オレは彼女の導火線に引火しないよう、言葉と姿勢を選びながら金田さんに加勢し、クッキーの謀略を骨抜きにしなければならない。すでにこのときのためのシナリオはできている。望むところだ。実際、いよいよ追いつめられてきたのはオレではなくクッキーだろう。勝算はある。
「話し合いの結果によっては、スグルッチとの関係を考え直さなきゃいけなくなるかもしれないけど…でも、私はスグルッチのこと、信じてるから」
最後の一言がオレの胸を痛める。クッキーに寝込みをフェラチオをされている記憶がよぎる。しかし、一人前の男なら誰しも一度や二度、あるいは毎度毎度味わう痛みなのかもしれない。オレもやっと一人前になったんだ! と密かに自分を励まして金田さんにうなずいた。
 世紀の三者会談は予想に反してオレ側の一方的な攻勢に終始した。
「五分だけ先にネエさんと二人で話させて!」

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クッキーにとってこの会談は予定外だったのか、オレたちが乗り込むと、彼女は明らかな逃げ腰でそう言って金田さんの袖をつかんだ。何を今さら往生際の悪い! 五分で起死回生の謀略を吹き込むつもりか? そうはさせまい!
「じゃあ五分だけなら」
金田さんはどこまでもお人好しだ。こんなふうにいつもクッキーのペースに飲み込まれていく。いい加減うんざりなので、オレは一分で「もう五分だ!」と、有無を言わせず扉を開けた。
「ネエさんのためを思って」
クッキーはその言い分に終始した。金田さんのためを思ってオレがクッキーの彼氏との仲を引き裂こうとしているなどというデマをでっちあげる。イラクのためを思って大量破壊兵器の脅威をでっちあげて戦争を仕掛けつつあるネオコン連中と同じ理屈だ。国際世論はごまかせてもオレにはそんな子供騙しは通用しない。
「ゴメン、ホントにゴメン、」
クッキーはひたすら頭を垂れた。あるいは端から兜を脱ぐ腹だったのか。濡衣を着せても謝る分だけネオコンよりはマシだが、オレは金田さんの分までクッキーを攻め立てた。金田さんが余計な疑念を抱かないうちに、クッキーを無条件降伏させて降伏文書に調印させるために。
「ゴメン、ホントにゴメン、」
クッキーは大粒の涙を落とし、最後には土下座までして赦しを請うた。それを見て金田さんは何を思ったのだろうか?「ネエさんのため」だとは間違っても思っていないだろう。クッキーの大粒の涙は誰のために流したのか? 誰のためでもいい。オレはこんなことのためにここ白樺湖へ来たのか? このホテルパイプのけむりの同僚に過ぎないクッキーと、なぜこんな愁嘆場を演じなきゃいけないのか? 一緒に働いて食事をして休日にはバイクで走りに行って、あとは挨拶代わりにフェラチオをしてくれればそれで十分なのに。明日で終りだというのに、どうして笑顔で握手を交して別れられないのだろう。いや、大粒の涙と土下座こそ、あるいは男女の本来あるべき別れ方なのか? 刃物と鮮血はないが、現実から遊離したここ白樺湖のホテルパイプのけむりで、オレはきわめて現実的に振る舞っているのか? 

 2002年7月14日。車山高原に続く丘陵の深緑にニッコウキスゲの山吹色が朝露に染まる。蓼科山の輪郭を舐めた朝日が白樺湖を照らす。昨夜の愁嘆場が嘘のような美しい夜明け。今日、クッキーが去る。

<< 80 >>

地雷も自爆テロも炸裂することはもはやないだろう。彼女と入れ替わりで新しい女の子がまた一人やって来る。すばらしい。前田も友達をつれて戻ってくる。もう案ずることは何もない。これで正々堂々とフルフルに着手できる、いや、しばらくはおとなしく過したい。しかし、
「スグルッチ、ちょっと話があるから9時に私の部屋に来て」
朝食を終えたときにクッキーに呼び止められた。まさか、また話を蒸し返すつもりじゃ。 戦々恐々としながらも最後まで男気を通すべく、オレは彼女の部屋を訪ねた。
すでに荷物をまとめ終えつつあるようだった。少し寂しいが、すがすがしい。
「スグルッチ、なんで金田ネエさんとつきあってるの黙っていたの? ちゃんとみんなに発表すれば良かったじゃん!」
この期に及んでまだこだわるのか!? いったいどんな魂胆なんだ??
「別に発表する必要もないだろ!」
毅然と答えるオレ。
「あれでしょ、つきあってるって発表しちゃうと、ほかの女の子と遊べなくなるからでしょ? 黙ってれば、ネエさんにバレなきゃいいもんね」
「そんな、ちっぽけな了見じゃないね!」
オレはまた毅然と答えるが、まさに図星。やはりクッキーは恐るべき女だ。
「じゃあなんで?」
どうしてもそれを聞き出したいようだが、答える筋合いはない。下手に答えれば、それを起爆剤に最期のテロをしかけないとも限らない。
「いいじゃないか、今さらもう! 昨日あれだけ話して終ったことだろ!」
すると、クッキーは腑に落ちなさそうにうつ向いてから言った。
「でも、私とスグルッチは友達以上の関係だったよね?」
真剣な眼差しだった。真剣ほど危険なものはない。
「それはどうかなぁ…」
真剣ははぐらかすに限る(何しろ、あの晩のできごとはお互いに夢か幻なのだ)。オレがそう言った瞬間にクッキーは目元を潤ませ、また大粒の涙を落とした。
「今までホントにゴメンね、」
そんなにオレのことが好きだったのか!? と目から鱗が落ちる思いだった。しかしオレは知っている。たとえこれで金田さんに内緒でクッキーと正式に交わったとしても、彼女は次のホープロッジですぐに新しい男を捕まえてフェラチオをすることだろう。この手の女は新しもの好きに決まっている。そもそも、彼女がいつまでも執心するほど、オレは魅力的な男ではないのだ。魅力的な男なら、三十路を前にしてこんなところに来ることはないのだ。

<< 81 >>

「もういいって! 全部水に流そうよ」
そう言って彼女の肩に手を掛けた瞬間に、工藤くんとシンタローくんが何かの用向きで入ってきた。気まずいので入れ替わりで部屋を出た。
「ゴメンね、ホントにゴメンね、」
クッキーがオレの背中越しにもう一度言った。

「初めまして! イオカスグルです!」
Yシャツを前後ろ逆に着てグレート・ザ・カブキふうの立ち回りで、この日新しく入ったアヤアヤこと小森アヤミさんに握手を求めたら、まるでナマハゲに遇った子供のように引きつられてしまった。それもまた一興。とにかく、今夜の歓送迎会は5月にも増して盛大にやりたかった。金田さんとクッキーの三角関係を盛大に水に流し、フルフルとのホットラインを水面下で結ぶ。いやいや、しばらくはおとなしくするのだった。おとなしくするために、今夜は思い切り羽目を外す。幸い、前田も戻ってきたし、シゲさんもいるし。
「スグルッチ、オレがいない間、なんかいいことあったんじゃないの?」
「何もないって!」
そんな前田とのやりとりを、このあとホープロッジに移るクッキーは顔色一つ変えずに聞き流したが、金田さんはにわかな曇り顔で視線を背けた。何やら彼女の様子がおかしい。一人だけ明らかに浮いている。いつものことかもしれないが、今回は何か腹に含んでいるような浮き方だった。せっかくオレが盛大に水に流そうとしているのに、まるで蛇口をひねってもポトポトとしずくしか落ちないような彼女の態度が、ちょっと不気味で不愉快だったが、一方で幸先の良いことに、フルフルがオレの傍らでお酒を注いだり料理を盛ったりしてくれたので、オレは金田さんをいちいちケアするのが億劫だった。
「問題ない! 全然問題ない!」
この日一番スパークしたのは、誰であろうカントクだった。いったい何が彼をそうさせるのか、暴飲暴食というより鯨飲鯨飲といったほうがいいくらい、カントクは浴びるようにビールやサワーを食らい、次から次へと料理に手を伸ばしていた。
今回の一件でカントクには一役かってもらった。
「まったく、やってらんねぇぜ!」
オレと金田さんがなんとか元鞘に収まったと知り、カントクの悪態は勢いづいた。ここまで露骨に他人の幸運を妬むのもちょっと珍しい。
「スグルッチみたいないい加減なやつに、金田ネエさんが落ちたのが、つくづくショックだよ!! それになんでクッキーやリエリエまで?!」

<< 82 >>

カントクはしばしば嘆いていた。大きなお世話だが、たしかにここへ来てオレは人が変わったようによくモテル。カントクは知らないのだ。ここへ来るまでの花も栄えもないオレの現実を。今回のクッキー動乱でカントクは期待しただろう。”ここで全面的にネエさんの味方になれば、スグルッチと破局を迎えた暁にはボクになびいてくれるかもしれない”と。しかし、見事にそのアテもハズレた。
「チクショオ! やってらんねぇぜ! いっそのことボクも、スグルッチみたいに不誠実に振る舞ったほうがいいんだろうか?!」
カントクは地団駄を踏むように悔しがった。
カントクの気持もわからなくはない。男なら誰しも女に親切にするときは、少なからず下心があるものだ。それが実を結ぶかどうかは、いわば雨か天気か下駄に聞け。ただし相当な男なら、誠実だろうと不誠実だろうと、下心が実を結ぶことが往々にしてある。カントクに言わせればそれが腹立たしくて仕方がないのだろう。だからといって、見返りを得るために不誠実になるというのはナンセンスというかまるでアベコベだ。
「ボクは今まで人に対して誠実に接してきたのに、一つも良いことがなかったよ…」
金田さんと三人で飲んでいるとき、一度だけカントクは愚にもつかずこぼしたことがあった。そのときは、いみじくも金田さんにこう喝破された。
「そもそも言ってることおかしいよ! カントクは何か見返りを期待していつも人に接してるわけ?」
さすがのカントクもそのときはぐうの音も出なかった。愛しの金田さんにそこまでズバっと言われては。
「あぁあ、そんなこと言ったって、金田ネエさんだって、ボクの気持をちっとも気にしないで誘いを断ったじゃないか! 結局、ネエさんは今はハッピーだから」
彼女が部屋に戻ってから、カントクは「秒殺事件」を蒸し返して愚痴をこぼした。
「飲んでぇ、飲んでぇ、飲まれてぇ、飲んでぇ。」
カントクは金田さんに当てつけるように寮の廊下でも管を巻くようになった。そんな折りに先のクッキー動乱が起こり、図らずもカントクは、「恋の道化師」のような役回りになってしまった。 
というわけで、カントクは、オレとはまた違った意味で、今夜の飲み会を盛大にやりたいのだろう。
「問題ない! 全然問題ない!」
「キャッ!」
「ちょっと汚い!」

<< 83 >>

パートの三船さんが持ってきた手作りケーキを行儀悪く食べながら、カントクが両手を広げてオバーアクションをするので、彼の指先についた生クリームがテーブルの周りに飛び散った。
「問題ない! 全然問題ない!」
「問題ありありだよ! 汚ねぇよ、カントク!」
「問題ない!」
「トンデモナイところに来たと思ったでしょ?」
「えっ? いや…」
支配人が新入りのアヤアヤに尋ねた。彼女はお茶を濁すように口ごもったが、おそらく図星だろう。
「でも来たからには最期、もう戻れない! アンドゥトロワ! ヒヒッッ!」
「ハ、ハァ…」
支配人の世代知らずのギャグと気色悪い笑いに、アヤアヤは明らかに引いていた。下手したら、明日の朝には本当にいなくなっているかも。
 宴もたけなわになり、カントクがついに前後不覚・正体不明になった。そんな彼をフルフルと三船さんが両肩を担いで寮まで送り届けた。本来なら男手のオレたちがやることだが、おもしろいので、そのまま二人にお任せした。
「問題ない! 全然問題、オェ!」
長身の二人に抱えられて寮までの坂道で足を引きずるカントクは、まるで介護老人のよう。そんな滑稽な光景を、オレたち男衆は御輿のように左右で囃し立てる。もちろん支配人も加わっている。まったく非常識な職場だが、「不誠実な」オレにはピッタリの風紀だ。
 カントクを部屋に放り投げると、オレは金田さんを探しにレストランに戻った。先刻から姿が見当たらなかったが、部屋にもいなかった。いったいどこに行ったのだ?! 忽然と行方を眩ますのはよくあることだが、昨日の今日でようやくクッキー問題が収束したので、放っておくのもちょっと憚れる。しかし、どこにも見当たらないので仕方なく寮に戻ると、玄関の下足置き場にいた。
「どこ行ってたんだよ? 急にいなくなるから」
「ちょっと白樺湖一周に」
金田さんは素っ気なく答えた。嫌な感じだった。彼女が白樺湖を一周するのは、得てして腹に抱えているものがあるときだから。
「カントクは大丈夫? かなり酔っぱらってたみたいだけど」
「ああ。とりあえず部屋まで連れて行ったから、大丈夫でしょ」
「私、ちょっと見てくる」
金田さんが率先して部屋の扉を開けると、あろうことかカントクが真下に無様なうつ伏せで倒れていた。異臭がする。目の前の洗面台にカントクのゲロが散乱していた。まったく、無様だ。しかし、

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「カントク、大丈夫?!」
金田さんが甲斐甲斐しくカントクを介抱し始めたので、オレは呆れた。
「カントク、しっかりしないと!」
「ウーゥ、全然問題…」
彼女はカントクをベッドまでリードして寝かしつけ、汚れた口の端と上着の胸元をタオルで拭き取って枕元を整えた。その甲斐甲斐しさに、オレは得も言われぬ違和感を覚えた。なぜこんなやつを一から十まで介抱してやる必要があるのか?! カントクごときという意味ではない。一人で勝手に酔っぱらって醜態をさらけ出したやつなど、部屋に運んだら後は放っておけばいいのだ。過剰な親切。いや、違う。三船さんやフルフルのように、みんなの輪に加わっていた上での介抱なら親切に違いないが、金田さんは輪には加わわらないで、それがほどけたときに初めてこれ見よがしに介抱を始める。偽善的。彼女の親切はいわば、オレやみんなへの当てつけなのだ。”私は違いますよ”と。
「シラケる」
彼女の部屋に落ち着き、
「なんか今日、元気がなさそうだけど大丈夫?」と、オレが一人前の気遣いで尋ねると、彼女はポツリと答えた。シラケるとは何を言うのか?!
「―シラケるよ」
今度はため息混じりで吐き捨てるように言った。ふざけた態度だ。オレは腹が立ったので、偽善的親切とまではハッキリ突っ込まなかったが、以前より激しく彼女の非社交的な姿勢を非難した。
「盛り上がれるわけないじゃん! 夕べ、やっとクッキーのことが落ち着いたばっかりなのに。それなのにいきなり今日、みんなと同じように盛り上がるなんて無理だよ。だいち、昨日まで私がどんな気持でいたと思う? それを考えたら、スグルッチだって昨日の今日なのに、よくマエピーやシゲさんたちとバカ騒ぎができるよね?!」
飲み会で盛り上がちゃいけないというのか?!
「いけないとは言わないけど。今回のことで私を傷つけたのは事実なんだから、少しは反省の色を見せてもいいと思うんだけど」
なるほど、ごもっともな言い分だが、オレには受け入れがたい。オレは反省をするためにこんな白樺湖くんだりにやって来たわけじゃない。反省をするくらいなら、彼女とのつきあいをやめたほうがマシだ。
「オレはそういう辛気くさいのは嫌なんだ! みんなで盛り上がるときは盛り上がりたいし、堅苦しいつきあいはしたくないから」

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「私はそんないい加減なのはゴメンだよ! つきあうからには、それなりの制約があってしかるべきでしょ!」
「飲み会でみんなと盛り上がるのも制約されるのか?!」
「盛り上がってチューしちゃうなんてあり得ないよ!」
それを蒸し返すのか!! それを蒸し返すのなら、
「それとこれとは別問題だろ!」
「一緒だよ! 私、まだリエリエとチューしたこと、許したわけじゃないから」
「じゃあもうつきあうのやめよう! 嫌なんだよ! そんなゴチャゴチャ言うのは!」
彼女は黙って顔を背けたままだった。オレは部屋を飛び出した。
 ついに言ってしまった。沸騰する腹立たしさ。彼女に対して。オレ自身に対して。押し寄せる後悔。つきあいをやめようと言ったことではなく、彼女とつきあってしまったことを。あの夜、湖畔の散歩に誘われなければ。飲み会の余韻で抱きしめられ、フェラチオをされなければ。なし崩しでセックスをしなければ。つきあっているという言質を与えなければ。すべて後の祭りだった。なんとも後味の悪い祭りに、オレは自己嫌悪に陥る。それにしても、彼女が飲み会の輪に加わらないことが、なぜここまで癪に障るのだろう? 仮に逆の立場、オレが輪に加われないで彼女が加わっていれば、オレはまた腹を立てるのだろうか?―つまりはこれっぽっちも彼女の立場を思いやっていないのだ。彼女の立場を思いやれば、もっと真摯な姿勢で(反省したり)彼女に接するはずだ。それこそカントクの言う「誠意」を持って。しかし、オレはカントク以上に誠意への不信感が根強い。誠意を見せた途端に掌を返される。そんなのはもう懲り懲りだ。オレはカントクのように誠意の見返りは期待しない。その代わり、「裏切られるくらいなら裏切れ」・「傷つけられるくらいなら傷つけろ」―それがモットーなのだ。
 むなしい。そんなことを考えていたら、ますます自己嫌悪に陥ってきた。そんなことで自己嫌悪に陥るくらいなら、いっそのこと、これから白馬に行って前倒しでノーマルヒルとラージヒルを爆破してしまおうか。そうだ。さっさと現実と決別してしまわないから、こんなことになるんだ。現実とは別世界のここ白樺湖を現実と錯覚してしまうように。
「あっ、スグルッチ!」
玄関の喫煙場所で頭を抱えていたら、フルフルと三船さんがやって来た。こんな姿をフルフルに見られるのは嫌だ。
「どうしたの? なんか元気なさそう」

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「いや、オレはつくづく自分が嫌になったよ!」
ヤケクソ気味で二人にぶちまけた。
「ふぅん?」
三船さんが澄まし顔でうなずいた。おそらく、金田さんから今回のことを聞かされて知っているのだろう。気まずい。これだから嫌なんだ。これだから。
「フルフル、こんなオレでも好きになってくれ!」
何を言い出すんだオレは!? 我ながら意外だった。カントクが聞いたら、“誠意の欠片もない”と非難されるだろう。しかし、こんな思いきった冗談がとっさに口を付いて出るくらいなら、まだまだオレは正常なのか?? するとフルフルは、
「もう好きだから」とあっさり言ってのけた。彼女のこういうところが大好きだ。即座に気の利いた冗談で応えてくれる。
「別に冗談でもないよ。私、ホントに好きだから、スグルッチのこと。クリストファーがいなかったら、つきあってもいいくらい」
「マ、マジで?!」
フルフルの大胆な発言で、今しがたの腹立たしさがすっかり吹き飛んでしまった。彼女はオレと金田さんのことをまだ知らないのだろうか? 彼女は本当に四匹目のドジョウになるのか? 
「えっ?!」
フルフルが悪戯な笑顔でオレの手を握ったから仰天した。
「えっ、何、私、どっか消えよっか?!」
三船さんが冷やかしたが、オレはすっかり舞い上がってしまった。
本当に三船さんがどこかに消えていれば、もしくはオレがフルフルを湖畔の散歩に連れだしていれば、今後の情勢は、あるいはオレの人生は180°違っていたかもしれない。しかし、オレたちはそのまま談笑を続けただけだった。そして、
「スグルッチ、ゴメン、私が悪かった」
二人が去って一人で頭を冷やしていると、金田さんがやって来て言った。
「今さら何を言っても遅いよ!」と突き放せれば良かったが、できなかった。いくらかホッとした気分で、彼女の謝罪を素直に受け入れるオレはいったい何者なんだ?!
「スグルッチは私にとって必要なヒトだから、絶対に別れたくないの!」
そう言う彼女の上着をまくり上げ、あらわになった乳房を鷲掴みにして舐め回した。ここが寮の玄関というのを忘れたわけではない。
「愛してる! アァン…」
喘ぎながらオレの耳元で囁く彼女。
「オレも。悪かった。反省してるから」と端的に答えるオレ。そう、オレは彼女をナメているのだ。国民をナメまくる首相に、ナメられることに快感を覚える国民。

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そんな世の中だから、オレごときがこんな小娘をナメたところで誰も咎めやしないのだ。だから、カントクではないが、全然問題ない!
「愛してる!」
彼女がオレに跨る。
「オレも」
オレは彼女の腰を引き寄せる。オレの誠意と思いやりは、真っ暗なの車山高原の遥か彼方へ飛んでいった。


標高1,925メートルの車山を主峰に、ビーナスラインに沿ってなだらかな起伏が続く車山高原と霧ヶ峰。北端には尾瀬と並んで日本有数の高層湿原地帯である八島湿原、南端には踊り場湿原が広がる。ぐるり360°さえぎるものは何もない圧倒的なパノラマ。
 歓送迎会の翌日は休日だったので、オレはかねてから計画していた車山から霧ヶ峰へのマウンテンバイクツーリングを敢行することにした。クッキーも去り、金田さんとも元鞘に収まって晴れて自由の身になったので、久しぶりに独りで羽を伸ばそうと思った。
「私も一緒に行っていい?」
しかし、そうは問屋が下ろさなかった。この日は金田さんも休みだったのだ。支配人が余計な気を利かせ、いつも彼女と休みが重なるシフトを組むからだ。
「おはようございます」
朝食後、玄関でマウンテンバイクの手入れをしているところへアヤアヤが現れた。
「昨日はどうも」
ザ・グレート・カブキをやって引かれたことが、今朝になってやたら恥ずかしくなった。
「すいません、いきなり、あんなメチャクチャな飲み会で」
「あぁ…まぁ…」
彼女は苦笑いで言葉を濁したが、一晩でいなくなるよりはマシだった。そういえば(履歴書を拝見していた)彼女ははるばる札幌からやって来たのだった。だからおいそれと帰るわけにもいかないだろうが、そもそもなんでわざわざ長野くんだりまで? 北海道なら、リゾートアルバイトはほかにいくらでもあるのでは?
「いゃ、まぁ、なんとなく…」
なんとなく訳ありなのだろう。昨日は気づかなかったが、よく見るとなかなかいい女ではないか。フルフルとはまた違った、妖しい色気がある。水商売が似合いそうな。
「私、ニュークラとかやってたんですけど、なんかそういうのもうウザくなっちゃって」
「ニュークラって?」
「あっ、こっちではキャバクラって言うんですよね? 札幌でキャバクラっていったらハダカになるやつだから」
いきなりの問題発言! しかもオレの腹の中を見透かしたかのような。
「へぇー、そうなんだ。たしかに、なんかそれっぽいよね」

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「エーッ、そうですかぁ?!」
彼女はタイプとしてはクッキーに近いのかも。ただし、クッキーとは比べ物にならないくらいいい女だ。もっと話してみたいが、あいにくとマウンテンバイクの整備が押している。これから霧ヶ峰に出かけるのだ。金田さんも一緒に。
車山に続く陵線を、マウンテンバイクを押しつつ進んでゆく。ぐるり360°高原の深緑に咲き誇るニッコウキスゲの山吹色に包まれて。これ以上絵になるデートはないだろう! 一時間も歩けば車山に登頂。あっけない。リフトを利用すれば十分足らずなので、もっとあっけない。車山もナメられたものだ。
「あーぁ、気持いい!」
標高1,925メートルの山頂に立つオレたち。ビリジアンと山吹色に彩られた大地のキャンパスが一面に広がる眼下。見上げればスカイブルーの大空を風とともに駆け抜けてゆく白い雲。どんなにナメられても、ここからの眺めはクラウドナインそのもの。
 蝶々深山、物見岩とハイカーを掻き分けて進んでゆく。道中、オレたちはいろんな話をした。お互いの家族のこと。子供のときのこと。ここへ来るまでの仕事のこと。などなど。楽しくないかと言われれば、楽しくなくはない。むしろ、かなり楽しい。しかし、何かしっくり来ない。何かもの足りない。この違和感はどこから来るのだろう?
「幸せ。白樺湖に来て良かった」
ご満悦の彼女と肩を並べ、オレは密かに首をひねる。
 八島湿原の北の入り口に当たる鎌ヶ池の畔で小休止。ここまで四時間、ほぼぶっ通しで歩いている。さすがに少し疲れたかも。
「大丈夫? スグルッチ、疲れた?」
彼女が健気に気遣ってくれる。
「うん。大丈夫」
彼女が健気であればあるほど、不誠実で思いやりのない自分が焙り出されるようで、いたたまれなくなる。いったい、いつからオレはこんな男になり下がってしまったのか? 鎌ヶ池に咲き誇る紫色の花の群れをぼんやりと見つめて自問する。もちろん、この花たちがが答えてくれるはずもない。こんなにも可憐な花たちがオレのような人間のクズに、その姿を包み隠さず見せてくれるだけで奇跡なのだ。
「キレイ…」
金田さんがため息混じりにつぶやく。彼女は知らないのだ。この紫色の花たちはオレの心を映す鏡ではないことを。
「キレイだね」
オウム返しで答える以外の術をオレは知らなかった。

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 パンクの不運に見舞われ、マウンテンバイクを押してビーナスラインを帰る羽目になった。霧ヶ峰インターから車山肩へ。なだらかな登り坂を行く。車なら五分足らずだが、歩けば天文学的行軍だった。ひっきりなしに自家用車や観光バスにすれ違ったり追い越されたり。その度にドライバーが目を丸くしてオレたちを見る。歩くのがそんなに珍しいのか?! とオレは憤慨する。
 車山肩を過ぎると、まもなく下りに差し掛かる。やはり、なだらかだが、いくら歩いても先が見えない。悪いことに、日が傾くにつれ、ぐずつき気味だった空模様にいよいよ暗雲が垂れ込め、そして見る間に深い霧に包まれた。五里霧中とはまさにこのこと。文字どおり先の見えない道行き。
「大丈夫? がんばってスグルッチ!」
彼女はひたすらオレを励まし、引っ張るように歩いていく。彼女の意外な健脚にオレはすっかり持たれかかっていた。
ニッコウキスゲ。四方八方に咲き乱れた山吹色が灰色の霧の中に消えてゆく。
「これで絆が深まったね!」
寮の玄関にたどり着いたとき、彼女が言った。はたしてそうなのか? 実に八時間超、二人で歩き通したのは事実だが…
しかし、深まった絆は長続きしない。それは現実の別世界である、ここでも同じことだった。

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第三章白樺湖 後編 ハーレム2

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オレに手を出した五人目の女の子は、とびきりのいい女だった。しかし、最初に手を出した内気な女の子と、オレを巡ってついに全面対決となってしまい…

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「今日から約一ヶ月半、地獄の満室ですが、みなさん、テキトーに気合いを入れて行きまっしょい!」
シゲさんの掛け声で、7月20日のルーム清掃が始まった。そう、この日の夜から8月31日の朝までオールリザーブなのだ。大抵のホテルが、いわゆるトップシーズンはお盆の前後一週間ぐらいが相場なのに、ここパイプのけむりは、トップシーズンでも大人一人1万円以下という廉価が効を奏し、夏休み期間がオールリザーブというまれにみる繁盛ぶりだった。出る杭は打たれるで、やっかみを込めたパイプのけむり批判が、毎年この時季になるとちらほら聞こえるという。
「あんないい加減なサービスでお客さんを持っていかれては、白樺湖全体のイメージダウンにつながる!」と。たしかにそれも一理ある。しかし、はたしてパイプのけむりだけがいい加減なのだろうか? むしろ一切の虚飾を排している分、パイプのけむりは潔いのではないか? それに、従業員が余裕を持ってお客さんに接するだけでなく、みんなが楽しみながら仕事をしている和気あいあいとした雰囲気がお客さんに自ずと伝わっていく。だから、部屋や料理が多少しょっぱくても、「ひどいホテルだった」とは、まずならないのだ。ただし、オレは知っている。こんなホテルが全国どこでも幅を利かすようになれば、日本の観光産業や伝統文化は、決して明るい未来ではなくなることを。
とにかく、この一ヶ月半は、大いに職権濫用でフルフルやアヤアヤとベッドメイクをやりまくり(あわよくばメイクラブも)、金田さんとも無難に乗り切る。ラビ・ア・ローズ! まさに薔薇色の人生だった。

「いいねぇ! 職権濫用できる人は。楽しいこってすなぁ!」
アヤアヤとのベッドメイクを終えてウキウキ気分で部屋に戻るなり、カントクがいつものやっかみで言った。彼はなぜかこの夏休み期間、ルーム清掃には参加せず、リエリエと二人でダイニングの諸々を担当するシフトになったようだ。
「カントクだって職権濫用して、リエリエと手取り足取りやればいいじゃん!」
「何言ってんだい! リエリエは工藤くんのお気に入りじゃないか! 工藤くんだって同じ時間に厨房にいるんだから、ボクが手取り足取りなんかしたら、彼に刺されちゃうよ!」
カントクはやたら鼻息を荒くして反論した。工藤くんとリエリエがつきあっているのでは? との噂はチラホラ聞こえていた。

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たしかに、このところ工藤くんは毎晩のようにリエリエの部屋に通っているようだが、それ以上の関係なのかは、本人たちに聞いてみないことにはわからない(彼女がオレにフェラチオをしたのはもはや遙か昔。あれ以来、オレと彼女とは何もない。再三飲みには誘われるが)。ただ一つだけ間違いないのは、彼らがつきあっていようがいまいが、カントクが手取り足取りしようとすれば、リエリエが肘鉄と膝蹴りを食らわすことだ。

「スグルッチ、ダメじゃないですか! 枕の右左逆ですよ!」
「あっ、そっか」
今日もアヤアヤとベッドメイクをやった。このところ一日置きに彼女とフルフルとベッドメイクをやっている。職権濫用がこんなにも楽しいとは! そろそろ前田辺りから顰蹙の声が聞こえてきそうだが、そんなことは一切お構いなしだ!
 それにしてもアヤアヤはすばらしい! フルフルに通じるような動作の切味がある上に、彼女とは違う色艶がある。
「このベッド、足で動かせば早いよ!」
そう言って足の甲にベッドの端を乗せて動かすユーモアもすばらしい。そして何よりすばらしいのは胸の谷間だ! おそらく、意識してそのような服を着ているのだろう。大きく開いたTシャツの胸元から、シーツを敷いたりベッドを動かしたりするたびにチラチラ覗くから、オレはなかなか仕事にならない。それにしても、仕事にならない仕事がこんなにも楽しいとは!(辞めた施工会社では絶対にあり得なかった)
金田さんもカントクと同じように、ルーム清掃をやらないシフトで固定されつつあった。「パブリック」と呼ばれるフロアやお風呂場などの公共スペースの清掃を彼女は専門に行うことになった。アヤアヤやフルフルと一緒にルーム清掃で廊下を歩いていると、所々で彼女にすれ違う。
「お疲れ様です」
他人行儀な挨拶を交す。どことなく寂しそうな目つきだ。アヤアヤやフルフルへの下心がないとは言い切れないので(ないどころか、ありありだ!)、オレはちょっとした罪悪感にさいなまれる。そんな罪悪感を慰めるため、オレは毎晩、金田さんの部屋に通う。しかし、会話が弾むのは、いつも彼女とではなくフルフルとだった。
「クリストファーがいなかったら、スグルッチとつきあってもいいんだけどなぁ…」
フルフルはオレと金田さんの関係をいまだに知らない。だから、そんな無邪気な本気を平気で口にする。

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「じゃあ、彼と別れてオレとホントにつきあおうよ!」
金田さんが穏やかでないのを気にしながら、オレは本気の冗談を飛ばす。
「あっ、あのぉ、リエリエの部屋で工藤さんやシンタローさんたちと飲み会をやっているので、よかったら、みんなで来ませんか?」
ノックの音がして誘いに来たのはアヤアヤだった。そう言う彼女がずっとオレを見ていたからドキッとした。意外性に富んだ訪問者のせっかくの誘いでもあるので、オレは乗りたかった。しかし肯定的な姿勢を見せるのはマズイという政治的な配慮から(クッキー事件以来、寮の上派と下派のような分裂が起きつつあった。カントクは比較的下寄りで、前田は事件を知らないので中立派)、オレは酔っぱらった振りをし、
「じゃあ三人で相談してそのうちに」という平坦な返事をした。アヤアヤはちょっと残念そうだった。
 そんなこんなで今夜も金田さんとフルフルとの三人部屋。そこへまたアヤアヤがやって来た。
「私も仲間に入れてもらってもいいですか?」
もちろん、断る理由など何もない。クッキー事件を知らない彼女は、たまたま下の階に部屋割りをされただけで、本当はオレたちと仲良くなりたいと思っているのかもしれない。フルフルは快く迎え入れたが、金田さんは心なしか戸惑っているようだった。しかし、もっと戸惑ったのはオレだ。金田さんとフルフルとの三角関係を内心で維持するのだけでも大変なのに、そこにアヤアヤまで加わっては。
「フルフルとスグルッチはつきあってるんですか?」
アヤアヤが半ば真剣な顔つきで尋ねた。相変わらずフルフルが無邪気な本気を振りまくからだ。
「そう見える? 実は! なぁんて、私はちゃんとカナダにカレシがいるんで!」
そう言ってフルフルがクリストファーの写真をアヤアヤに見せる。
「えっ? なんだ、そうなんですか?」
アヤアヤがホッとしたようにそう言うのは、オレの気のせいか? とにかくオレは気が気でない。そんなやりとりをしていると、
「私がスグルッチの彼女なんで!」と金田さんが宣言するのではないかと。しかし、彼女は彼女で相変わらず、オレたち三人の輪に加われずに間もなく、
「じゃあ私、先に寝るね」と言ってベッドに横たわるだけだった。そんな展開が向こう三日間は続いた。

「まったく、やってらんねぇぜ!」
カントクの悪態も相変わらずというか、このところは、もはや病的様相を呈している。

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「最近はアヤアヤまで加わって、四人で向こうで楽しくやってんだね! まったく、スグルッチは手が早いというか、どこまでも懲りないんだね!」
ひどい言いがかりだ。アヤアヤが金田さんの部屋に来てオレと一緒に過すのは、あくまでも彼女の自由意志で、オレはこれっぽっちも手を出してないし唾も付けていない。
「そうですか。なるほどね。やっぱりスグルッチは色男ってわけだ。色男はいいですねぇ! 毎晩カワイイ女の子たちに囲まれて。キミがそうして楽しんでいる間、ボクはこの部屋で独り真澄を飲んでますよ。スグルッチの部屋なのにスグルッチがいないから、ボクは毎晩独りですよ。いっそのこと向こうに引っ越したらどう?」
仕事の話になると、「小姑のような小娘たちに囲まれて」なんて揶揄するくせに、そんな小娘たちと一緒にいるオレを毎晩、袖を噛まんばかりの勢いでうらやむ。カントクの自己矛盾はもはや常識の範囲を超えている(「期待するのはやめた」などと言っておきながら、ちゃっかりアヤアヤに期待していたのだろう)。
「飲んでぇ、飲んでぇ、飲まれてぇ、飲んでぇ、」
今夜もまたカントクの河島英吾が始まった。

「しばらく部屋に行くのを控えようと思うんだけど。」
頃合いを見計らってオレは金田さんにそう告げた。
「カントクのやっかみがいよいよ病的だから」というのが表向きの理由だった。たしかにそれもあったが、本当はこれ以上、アヤアヤも一緒に過していると、オレたちの三角関係が維持できなくなるのを恐れたからだった。つまりはオレとアヤアヤが、どうにかなってしまうのではないかと。
「わかった。スグルッチも大変だね。カントクと相部屋で」
金田さんは気の毒そうに納得した。
「寂しいけど我慢する。その代わり、休みが重なったら一日中一緒にいようね!」
しかし、彼女と休みが重なることは二度となかった。

「今夜は向こうには行かないんですか?」
カントクが嫌みったらしく言った。
「久しぶりに部屋でのんびりしたいので行かない」とオレは答えた。
「へぇー、これはまたどういう風の吹き回しですか?」
「いいじゃない、たまには。それとも何、行ってほしいの?」
「いえいえ、そんなつもりでは。そうですか、今夜は行かないんですか…」
カントクが奥歯に物が詰まったような言い方をするので、オレは、
「やっぱり行こうかな」と言ってみた。

<< 95 >>

「そんな、行かないなら行かないでいいよ!」
「じゃあ行かない」
「よかった。行かないでくれ!」
なんだかカントクが不憫に思えてきたので、オレは、
「代わりにカントクが行ってくれば?」と提案した。今夜もアヤアヤが来ているはずだ。
「そんな、いいのかな?」
カントクは喜び勇むのを隠しきれずに聞く。
「別にいいんじゃない?」
「じゃあ、あくまでもスグルッチの代わりってことで行かせてもらいますか!」
持って回った答え方だったが、カントクは喜色満面で部屋を出ていった。
 久しぶりの独りの時間。くつろげるのは確かなのだが、なんだかちょっと物寂しい。カントクの不憫な毎晩が痛いほどによくわかる。だから”カントクにはいいことをしてやった”と慈善的な気分になりつつも、向こうが気にならなくもない。

「スグルッチ、いますか?」
カントクが出ていってから一時間もしなかっただろう、ノックとともに顔を出したのはアヤアヤだった。オレはドキッとした。とっさに感じたかぐわしさが、危険な予感を伴っていた。
「今日は金田さんの部屋に来ないんですか?」
彼女が尋ねたので、オレはまたとっさに、
「今日は小説を書いているんで…」と、口から出任せで答えてしまった。
「小説ですか? へぇー、スゴイですね! 私、ちょっとお邪魔してもいいですか?」
「えっ? あぁ、どうぞ」
オレは慌ててノートパソコンのワードを立ち上げた。彼女がオレの真横に腰を下ろしてモニターを覗き込んだ。まさにフルフルの再来だった。ワードに書かれているのは、ここ白樺湖へ来てからのとりとめのない途切れ途切れの日記に過ぎない。しかし、そんなことは大した問題ではない。肩と肩が触れ合うほどの至近距離に並んだ二人。大きく開いたTシャツの胸元から見事な谷間が真下に覗き込めるのもフルフルと同じ。問題なのは、このアヤアヤをこの場で今すぐ押し倒すか否かなのだ。そうすれば、三十年来の意気地なしを卒業してノーマルヒルとラージヒルの爆破に弾みがつくことは受け合い、その代わり金田さんとフルフルとの三角関係はたちどころに崩れ、クッキーのとき以上の騒動が巻き起こるかもしれない。あんな物騒な日々は二度とごめんだったが、目の前にある谷間を鷲掴みにすれば新たな世界が開ける。

<< 96 >>

しかし、フルフルの谷間とこの谷間とはどっちがいいのだろう? 本当の問題はそこだ! 金田さんの谷間など問題にならない。
「どんな小説を書いてるんですか?」と、アヤアヤがモニターを覗き込む。いよいよ彼女の谷間が目前に迫る。
「金田さんの部屋はどんな感じ?」
「うぅーん、特にこれと言って。ちょっと飽きたかも」
オレは逃げ腰だった。フルフルの谷間と金田さんの泣き顔が脳裏をよぎってアヤアヤに手も足も出ないのだ。情けない。彼女のかぐわしさはいよいよ本物に違いないのに(女性のシャンプーの香りをこんなに間近に感じたのは初めてだった)。
「スグルッチって二十九歳なんですか? 意外。もっと若く見える」
「そう?」
吐息が触れ合い、彼女の体温を感じる。オトコになるのは今しかない。しかし、意気地なしのオレはニンゲンでもありたい。
“カントク、早く帰ってきてくれ!”と祈るような気持で。オレはアヤアヤとの時間にならない時間を過した。そしてようやく二時間後、午前零時を回った頃に彼は戻ってきた。
「おやおや、これはこれは、」
アヤアヤがいるので、カントクはちょっとびっくりしたようだ。普段なら、「いつの間に彼女を引っ張り込んだんだ?! ネエさんの部屋に行かないと言っておきながらまったく、抜け目がない!!」と言わんばかりに冷笑を含むのだろうが、今夜は金田さんとフルフルと飲んだので、ご機嫌かつご満悦のようだ。
 それから三人で改めて酒を酌み交わした。アヤアヤはかなりイケル口で、カントクの勧める真澄の特選やiichikoのロックを爽快なペースで喉に通した。
「スゴイねぇ! けっこう強いんだね!」
カントクがますますご機嫌で勧める。
「やっぱり、お酒は強いのじゃないとつまらないですよ。サワーとかカクテルは、私はダメですね」
なるほど、これもすススキノ仕込みなのか? そんなことを思いながら、オレはニンゲンのままでいられたことにホッとしたのと、オトコになれなかったことの悔しさが入り交じり、半ばヤケクソでアヤアヤとカントクのペースに合わせる。
「おやおや、もうこんな時間だ! 明日も早いんで、っていうか、もう今日か! ボクはそろそろ寝るとします。お休みなさい」
そう言ってカントクが、そそくさとベッドに横たわった。午前三時を回っていた。
「じゃあ私もそろそろ、」

<< 97 >>

とアヤアヤも引き上げると思ったら、一向にそんな気配を見せない。オレの動悸と勃起は、たちどころに最高潮に達した。
「スグルッチの小説、もう一度見せてもらってもいい?」
声を細めて彼女が言った。寝床に就いたカントクをはばかってだろうが、それ以上に、妖しさとかぐわしさを意識したオンナの声色だった。もう耐えられない。
「じゃあ、オレもそろそろ寝ようかな」
「あっ、私、独りで適当にいるから、気にしなくていいよ」
こうなると今度はクッキーの再来だった。しかしクッキーとは比べ物にならないくらいのかぐわしさ。危険な予感はもはや予感ではなく実感だった。そしてクッキーのときと違ったのは、オレが自分のベッドではなくアヤアヤの真後ろにあるもう一つのベッドに横たわったことだ。
「スグルッチの小説、なんか白樺湖のことが書いてあるよ」
「―」
“チュッ”と甘い音が響いた。振り向いてオレの枕元に腰かけた彼女に、起き上がったオレがキスをしたのだ。
“チュッ”
再び甘い音が響く。一瞬の判断、というより、いくらオレが意気地なしのニンゲンでも、ここまで来ればカラダが勝手に動かないほうがおかしい。カントクがすぐそばで寝息を立てていることも関係ない。オレはいよいよオトコになろうとしているのだ。
“チュッ”
三度目は彼女のほうから強く唇を合わせてきた。オレは彼女の腰を抱き寄せ、今度は舌を絡ませるように彼女の口づけを味わった。こんなに甘い唇を後にも先にもオレは知らない。至福の瞬間。「甘酸っぱい密の味」などと例えようもないくらい甘い甘い、甘い口づけだった。柔らかい感触。唇もそうだが、ほっぺったの柔らかさが際立って気持よかった。金田さんやクッキーとは比べ物にならない、四年前の白馬での彼女さえも遙かに凌いでいた。
「キミの部屋に行こう!」
オレがささやくと、彼女はオレの手を取ってうなずいた。

「ダメッ!」
彼女の部屋に移動して、オレは心おきなく彼女のカラダをむさぼった。豊満すぎる乳房。三十年来の憧れだったのか、彼女の上着をまくり上げ、ブラジャーをひったくり返してかぶりつくオレ。もはやニンゲンではなかった。吐息が少しずつ荒くなるも大げさなあえぎ声を漏らすことのない彼女。
「ダメッ!」
どんなに甘美で豊満でも上半身だけでは収まりがつかない。当然だろう。

<< 98 >>

彼女の下半身に手を伸ばそうとするオレだが、そこはかたくなに手を当てて拒む彼女。棚からぼた餅で賄賂の裏金が転がり込んできたが、それが入ったトランクの扉が開かない。俄然、一心不乱になってこじ開けようとするのがニンゲン、いや、オトコだろう。
「ダメッ!」
「ダメ? ちょっとだけだよ?」
「ダメッ!」と妖しい笑みを見せる彼女。もっと強く抱き寄せてもっと激しいキスをするオレ。そしてもっと激しく彼女の乳房をむさぼる。
「ダメッ!」
そんなこんなでいつの間にか窓の外が明るくなり始めていた。
「じゃあ、とりあえず、フェラチオで閉めて!」とはさすがに言えなかった。金田さんやクッキー、リエリエとはタマが違うのだ。
 カーテン越しに差し込む蓼科山の朝陽を感じながら、オレはオトコになりつつある大きな幸福と一気になりきれなかった小さな後悔に包まれていた。二人でベッドに横たわり、オレの胸の中にくるまれている彼女を抱き寄せる。四年前の白馬での彼女と、数週間前のフルフルのリベンジを果たした満足感があった。しかし、その満足感が、未曾有の戦慄を伴うものだったことは、予想はしていたが、オレには耐え難いものだった。朝陽が高くなるにつれて精神の武者震いが激しくなるのだ。アヤアヤの寝顔に金田さんの泣き顔が重なる。金田さんがオレに泣き顔を見せたことをアヤアヤは知らない。アヤアヤがオレに寝顔を見せていることを金田さんは知らない。いつかは知られることだろう。そのときまでどう振る舞えばいいのか? そのときをどう迎えればいいのか? 

「おはよう」
朝食で金田さんと一緒になった。彼女は早朝からのフロント。いつもと変わらない彼女の朝。しかし、オレは彼女をまともに見ることができない。
「昨日はゴメン。部屋に行けなくて」
思わずそんなセリフが口をついてしまった。
「ううん、いいんだよ。カントクを気遣うスグルッチの気持、私、理解してるから。ちょっと寂しかったけど」
そう言って彼女は健気な笑みを見せた。昨夜、アヤアヤが来たことを、カントクは金田さんにしゃべっていないようだ。そんなに健気にならないでくれ! いっそのこと、「私の部屋に来ないでアヤアヤといたんでしょう?!」と詰め寄ってくれたほうがよっぽど気が楽だった。
「今夜、二人で白樺湖を散歩しない?」
「えっ? うん、行こう!」

<< 99 >>

仕事だと嘘をついて浮気をした翌日に妻に優しくなる夫の気持とはこんなものなのか?(シゲさんはしょっちゅうこんな気持になっているのか?)そんな世俗の感覚がオレには耐え難い。そんな世俗の感覚を一掃するためにオレはここへ来たはずなのに。
「でも、カントク、大丈夫? またやっかんで荒れない?」
「えっ? あぁ、大丈夫だろ」
カントクなんてこの際、問題じゃない。アヤアヤなのだ。昨夜(ほんの数時間前)の落とし前をどうつけるべきか? オレにはわからない。
「じゃあ、今夜、楽しみにしてるね!」

 夜の勤務を終えて約束どおり金田さんの部屋を訪ねると、彼女と一緒にフルフルもオレを出迎えた。
「あっ、これから金田さんと白樺湖を散歩に行くんだけど、フルフルもどう?」と、オレは思わず言ってしまった。
「うん。行く」と、彼女はうれしそうにうなずいた。どうやら最初からそのつもりだったようだ。彼女の背後で金田さんが苦笑いした。

「スグルッチとネエさんって、つきあってるんですか?」
生暖かい夜風が湖畔を吹き抜けていた。満を持したようにフルフルが尋ねた。
「えっ? まぁ…」
昨日の(今朝の)今日なのでとっさにどんな答えをしていいのかわからなかった。今さら…しかし、金田さんははっきりとうなずいた。
「やっぱりそうなんだ…なんか、ずっとそんな気がしてたけど、やっぱりそうなんだ…」
フルフルががっかりしているように見えたのはオレの気のせいか。いや、気のせいではない! フルフルはがっかりしているのだ。複雑すぎる心境だった。金田さんよりも早くフルフルがここ白樺湖へ来てくれていたら、あるいは彼女を選んでいたかもしれない。しかし、オレは金田さんに選ばれ、クッキーに選ばれ、昨夜、アヤアヤにも選ばれてオレ自身も彼女を選びつつある。なんという数奇な巡り合わせだろう。
「そっか、つきあってるんだ…」
フルフルのつぶやきがオレの胸に突き刺さる。一方で金田さんは、やっと同僚に解禁できて晴れ晴れとした笑顔をしていた。オレは暗闇を見つめた。目の前にあるのが白馬のノーマルヒルとラージヒルではなく、蓼科山であるのがまさに皮肉なのか? グレーの雨雲が真っ暗なその蓼科山の輪郭をなぞっていた。

 夏休みに入ってから、途端に天気が安定しなくなった。これまでのさわやかな快晴が嘘のように、ぐずついた毎日が続いた。
 新人がまた入った。

<< 100 >>

今度は男子ばかり四人。カッちゃんこと勝野シゲヨシは横須賀から、マッちゃんこと松田タカヒロは取手から、ナカちゃんこと中川ノブヒコは熊谷から、ワカちゃんこと若林コウジは大宮から。四人とも二十五歳のフリーターで社員志望らしい。さすがにこの時期はレストランで公式の歓迎会をする余裕がないので、寮で非公式に行うことになった。
「不倫というものはぁ、お互いのぉ、同意の上でぇ、行うものではなくぅ♪」
リエリエの部屋ですし詰めになって敢行された歓迎会は、のっけからシゲさんが十八番の不倫談義で飛ばした。このところのシゲさんは、上諏訪のラブホテルが休みの夜には、ここの洗い場に入っていた。少しでも生活費を稼ぎたいという下流社会の切迫感もあるだろうが、それ以上にオレたち若者に交じって大いに楽しみたいというのが動機だろう。この夜はオレの部屋で泊まって歓迎会に参加すると大張り切りで、シンタローくんのアコースティックギターを借りてデタラメな自作曲を恥じらいもなく披露した。この恥じらいのなさが、彼が五十歳を越えても若さを保っている秘訣だろう。不倫談義に飽きると、今度はシンタローくんと一緒に仮装大賞を始めた。
「あっ、シゲさん、シンタローさん、ちょっと待って!!」
そう言って彼らの変装をコーディネートし始めたのは、誰であろうアヤアヤだった。このすし詰めの中で、彼女はずっとオレの横に寄り添い、お酒が進むたびにオレに寄りかかる角度が鋭角になっていった。かつて金田さんがそうしたように。
「シゲさん、シンタローさん、イェーイ!!」
周りの目がある。彼女がオレから離れたことで少しホッとしたが、シゲさんとシンタローくんとらんちき騒ぎを始めたのは、ちょっと不愉快というか嫉妬してしまう。かつて金田さんもこの二人に交じって仮装大賞をやったことがある。白樺湖畔へ散歩に誘われたあの夜のことだ。そのときは不愉快になることも嫉妬をすることもなかった。
「いやぁ…」
「はぁ…」
「まぁ…」
「なんか、スゴイですねぇ…」
カッちゃん以下の新人四人は明らかにヒイでいた。しかし、一番ヒイていたのはほかでもない、金田さんだった。
「私、そろそろ帰ります」と、一時間も経たないうちに彼女は逃げるようにリエリエの部屋を出ていった。いつものことだが、いつもとは違う。アヤアヤに寄り添われている間、オレは金田さんと目を合わせなかった。

<< 101 >>

彼女と目を合わせた視線をアヤアヤに気づかれるのが怖かった。
「じゃあ、私もそろそろ…」と、金田さんに続いてフルフルも腰を上げた。部屋を出る寸前、彼女がちらっとオレを見た。その目つきが心なしか鋭かった。二日前の武者震いが再び襲ってきた。
 オレにちらっと目配せし、アヤアヤがさりげなく飲み会の場を外した。武者震いとともに胸の高鳴りが激しくなる。ここで彼女に続いたら、いよいよ泥沼。爪先から指先まで、二度と抜け出せなくなるだろう。今ならまだ後戻りが利く。フルフルの先ほどの眼光がオレを引き止めようとする。しかし、泥沼がどんなものなのか、はまってみないことにはわからない。心地よい泥沼なら抜け出せなくなるのもいい。アヤアヤと金田さんだけではなく、フルフルとも一蓮托生で。
 アヤアヤの部屋をノックする。彼女が出迎える。ドアを閉めるなり、抱きしめてキスをする。
「昨日もスグルッチの部屋に行ったのに、いなかったね」
「あっ、あぁ…」
「どこ行ってたの?」
「えっ? あぁ、白樺湖の散歩に。フルフルと、金田さんと」
下手な嘘をつくとかえって厄介だと思った(彼女が訪ねてきたとき、カントクがしゃべっているかもしれないし)。
「スグルッチって、フルフルに気があるの?」
「えっ? いや、別に…」
際どい問いに危うい答えをするオレ。しかし、彼女はオレの首に腕を回してキスを求めた。
「私、スグルッチはフルフルとつきあってんのかなって思ってた」
彼女は言う。フルフルとオレとはやたら親密に見えたと。だからあえてフルフルに言ってみた、「スグルッチは気になる存在」だと。すると、
「スグルッチはいいやつだから、どんどん話しかけたほうがいいよ」とフルフルが言ってくれたと。だからそれ以来、勇気を出してオレの部屋に行くようになったと。
「だってスグルッチって最初、スゴク感じ悪かったんだもん」
彼女がここへやって来た日、オレに挨拶をしたのに素っ気なかったし、歓迎会では訳のわからない握手を求めてくるし、翌朝に寮の玄関で一緒になっても、彼女が一生懸命に会話をしようとしているのに、オレは自転車の整備に夢中で目を合わせてくれない、おまけに「たしかにキャバ嬢っぽいよね」なんて平然と言ってのけるし。
「そ、そうなんだ…」
彼女のキスを受け入れるオレは複雑な心境だった。

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当初の素っ気ない態度は、彼女のかぐわしさに近づいては危険だというオレの恐れからだった。しかし、そんな恐れを知らない彼女は、まさに恐れを知らぬ勢いでフルフルに体当たりをしてオレに飛び込んできたのだ。そのとき、フルフルはオレと金田さんがつきあっているのを知らなかったわけだが、その見当すら皆目ついていなかったのだろうか?「いいやつだから」と、フルフルがアヤアヤに言ったというが、オレにとっては皮肉以外の何物でもない。いわば、その皮肉がこの泥沼を呼び込んだのだ。だから図らずもフルフルはオレが泥沼にはまりこんだのに一役買っている。そう思えば、オレがアヤアヤの甘すぎる口づけを味わい、豊満すぎる乳房におぼれても罪悪感が和らぐ。罪悪感が和らげば、彼女の下半身を濡らしてみたい。金田さんにしたように。
「ダメッ、」
オレがそこに触れようとすると、相変わらず彼女はオレの手をのけて拒む。
「なんで?」とオレは、はやる気持を隠しながら尋ねる。
「誰か入ってくるかもしれないから。鍵、かけると怪しまれるから、かけてないし」
「入ってこないよ」
「ダメッ、」
「―シィッ、待って!」
「オッ、スグルッチ、何やってんだぁ?!」
彼女がいきなり息を潜めたかと思うと、ノックの音がしてシゲさんが入ってきた。
「なんだよ、いきなりいなくなったかと思ったら、二人してこんなところにいたのかよ?!」
とっさに居住まいを正したオレたちに対し、見るからにシゲさんは怪訝そうだった。すると彼に続いてカントク、前田、新人の四人など、男子勢がゾロゾロと入ってきた。
「あれっ、スグルッチ!」
とりわけ目を丸くして驚いたのはカントクだった。
「キミってヤツはいつの間に?! ネエさんに言いつけてやるから!」
「シッ!」
とっさに何を言い出しやがる?! オレは思わず”口をツツメ!”とカントクを睨みつけた。さすがに彼も”ゴメン、口が滑った!”というようなジェスチャーで謝った。オレはアヤアヤを見やった。別段、彼女の顔色に変化はなかった(カントクが、「金田ネエさん」と言わずに「ネエさん」とだけ言ったから助かった)。おかげで危うく肝を冷やすところだった。これだから童貞は困る。安易な正義感が先走って男女の機微をわきまえないから。
 そのままヤアヤの部屋に場所を替えた格好で、再び宴会が始まった。正直、迷惑だった。せっかく二人きりになれたのに。

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さらに厄介なのは、新入りの四人がやたらギラギラしているように見えた。この部屋にアヤアヤしか女の子がいないから(リエリエは工藤くんとシンタローくんと部屋に残っているよう)無理もないといえばそうかもしれないが、四人とも、いかにもそれが目的でリゾートアルバイトに来たような目つきをしているのが鬱陶しい。隙あらば我先にとアヤアヤに唾を付けるつもりだろうが、そうはさせまい! オレは彼女との関係を誰にも察知されないように新入りに睨みをきかすことに終始したが、なんだか盛りの付いた山猿の群れに紛れたようで嫌な気分だった。山猿の群れは、すなわち若者の群像なのだろうが、そんなケダモノどもは蹴散らしてやるのだ!(いつの時代にもケダモノはどこかにいるものだが、新自由主義のこの現代はそこかしこに蔓延っている)しかし、まさか本当に手を挙げて蹴散らすことになろうとは。
 午前3時を回ったところで、シゲさんが仕切ってアヤアヤの部屋からみんなをバラした。シゲさんと一緒にオレの部屋に戻る。カントクはすでに爆音を上げている。
「スゴイなぁ、カントクのイビキ! まるでガマガエルじゃねぇか! どっか悪いんじゃねぇの? スグルッチも大変だろ、毎晩こんなの聞かされちゃ!」
そう言いつつも、シゲさんは空いたベッドに横たわると、すぐにカントクに負けないくらいの爆音をかき始めた。なんだかやたら疲れたので、オレも二人に負けないくらいの爆音で眠りに就きたかった。しかし、
“キャーッ!”といきなりの甲高い悲鳴でそれどころではなくなった。
「スグルッチ、シゲさん、ちょっと来て!!」
アヤアヤが血相を変えてオレの部屋に飛び込んできた。“何事か?!”と、オレもシゲさんも飛び起きた(カントクは爆睡したままだった)。
「ワカちゃんが! ワカちゃんが!」
ワカちゃんがどうしたかというと、寝る前にトイレに行って戻ってきたら、自分の部屋に帰ったはずの彼が扉の下で倒れていたとアヤアヤが声を震わせた。
「とにかく来て! 怖い!」
俄かには信じ難かったが、実話だった。しかも、オレとシゲさんが彼女の部屋に駆けつけたら、ワカちゃんは扉の下ではなく、あろうことか、彼女のベッドの上でうつ伏せになっていた。
「オイ! オイ!」
オレはワカちゃんを揺すり起こした。しかし、さらにあろうことか、彼は、「少しここで休んでいきたい」

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とおぼろ気に言うと、アヤアヤの枕を抱き寄せて顔を埋めた。オレはカッと頭に血が上った。このオレでさえ、まだ彼女の枕に顔を埋めたことは一度もないのに! 完全に酔っぱらっているのではなく、酔っぱらったふりで一発を狙っているに違いない。どうであろうと野蛮で悪質極まりない。こういうのは黙っておくわけにはいかない! こういう山猿風情を野放しにしておくからこそ、変人が政権を奪って変な世の中になるのだ!
「オイ! テメェいい加減にしろよ!」
オレはワカちゃんの胸ぐらを掴んで往復びんたにもう一発をお見舞いしてやった。それでやっと彼は我に返った。
「す、すいませんでした!」
「すいませんでしたじゃねぇよ、まったく!」
怯えたように謝るワカちゃんに、夜中に女性の部屋に無断で上り込んだり、社員の工藤くんが疲れて寝ているのにバタバタしたり、いくら酔っぱらっていても非常識にもほどがある! 集団生活のマナーをわきまえろ! と寮生のリーダーらしく正義感に溢れる説教をした。オレの電光石火の武力制裁に、シゲさんはやや呆気にとられていたが、
「そうだぞ!」と一応、説教には同調してくれた。しかし、その説教の本質が偽善的であることには、シゲさんも当のワカちゃんも気づいちゃいまい。正義感でもなんでもなく、ただ単にアヤアヤに手を付けられたくないという焦りと脅え、アヤアヤの部屋に独りで上ってベッドまで占拠されたという怒りと妬み、そんな極めて利己的な感情が、武力制裁を伴う説教の本質なのだ。
「ホントにすいませんでした」
「今度やったらただじゃおかねぇぞ!」と口にこそ出さなかったが、そう言わんばかりの睨みを利かせてオレはワカちゃんを彼の部屋に送り返した(放り投げた)。こんなところで、まさか女の子を巡ってつまらない暴力を奮ってしまうとは…ここ白樺湖でオレはすっかり世俗の人間になり下がってしまったようだ。しかし、世俗の感覚とは実に楽しいものだと知ったのは喜ぶべきか嘆くべきか。この後、
「またワカちゃんが来ると怖いから」とアヤアヤがオレの部屋に来てシゲさんの上のベッドで寝ることになった。今度はシゲさんに寝込みを襲われやしないかと心配になったが(彼ならやりかねない)、ベッドに戻るとすぐまた爆音を立て始めたので安心した。
「スグルッチ、もう寝た?」
アヤアヤがヒソヒソ声でオレを呼んだ。

<< 105 >>

オレはシゲさんが目を覚まさないように抜き足で自分のベッドから降りて彼女の枕元に顔を寄せた。
「眠れる? 私、なんだか眠れない」
「明日も、もう今日か、早いから少しでもちゃんと寝なよ!」
そう囁き合い、身を乗り出す彼女に、オレは背伸びでキスをした。オレたちの真下では、シゲさんが相変わらずすごいイビキをかいている。まるで映画の中の若尾文子と田宮二郎のような、いや、それ以上に刺激的なキスだった。そしてさらに刺激的なことに、彼女がオレのベッドに潜り込んできて結局、二人で寝ることになった。もしシゲさんやカントクが先に目を覚ましたら、彼らは目を丸くして驚くだろう。
「大丈夫だよ。私、シゲさんとカントクよりも早く起きるから」と、彼女は悪戯な笑顔でオレの胸に抱かれた。
“チュッ!”
オレたちは足を絡め合ってキスをした。ただし、いつもより控えめな勢いで。それから、やはり控えめながらオレは彼女の股間をまさぐる
「ダメッ! シゲさんが起きるよ!」
そう言いつつも、彼女はちゃっかりとオレのオチンチンを握っていた。

「カントク、コーヒーがまだ入れ換えてないですよ!」
「わかってるって! オレに言う暇があったら自分でやってくれよ!」
新しく四人が加わっても、レストラン名物のてんやわんやは相変わらず、むしろカントクにとっては厄介の種が増えた感があった。カッちゃんとナカちゃんへの指示系統を巡って(ワカちゃんとマッちゃんは厨房に配属)、リエリエや宮野尾さんと衝突を繰り返していた。しかし、洗い場にいるオレにとっては天国だった。てんやわんやの間隙を縫ってアヤアヤが食器を下げに来る。グラス、カップ、ソーサーと仕分けして洗浄ケースに入れ、ディッシュとシルバーを流し台に仕分けする。彼女と笑顔で目を合わせると、無言の共同作業が始まる。彼女は洗い場に下げに来る導線を意図的に自分のものにしていた。しかもさりげなく。オレにはワクワクすることこの上ない。
「そのケーキ、もったいなくない?」
手つかずのケーキを彼女が下げてきたので、オレはコミュニケーションをとる。すると彼女が周囲の目を盗んで流し台越しに手を伸ばし、そのケーキをオレに”アーン”―まさに絵に描いたようなカップルのイチャツキぶり。これが若者の常識的な風景なのだろう。

<< 106 >>

マサオのほか、オレの同級生たちが在学中にアルバイト先でやっていたことを十年遅れでやっているにすぎないのだ。
「お疲れさまです」
金田さんが突然、洗い場に現れた。フロントの勤務を終えて寮に戻るようだ。オレとアヤアヤをちらっとやり過ごしてゆく彼女。いつにもまして背中にかげりが見えるのは気のせいか。
“見られたか?!”
金田さんのかげった背中は、オレの背筋を凍りつかせる。アヤアヤとイチャツクのが非現実的風景なら、何も凍りつくことはない。堂々と泥沼にはまってゆけばいいのだ。アヤアヤと金田さんとがオレの視界でバッティングするたびに凍りつくのは、それを紛れもない現実として受け入れ始めているからなのか…

「アヤミです。これから夕方の出勤まで一緒に白樺湖を散歩しませんか?」
初めて彼女からスカイメールが来た。ルーム清掃が終る15時ぴったりのタイミングで。
オレたちは西白樺湖のバス停で待ち合わせた。シゲさんとクッキーと金田さんとここで待ち合わせてみんなに内緒で飲みに行ったことが思い出される。あれから二ヶ月足らず、オレの身辺はあまりにもめまぐるしい。あのときは、金田さんがなかなか来なくてヤキモキした。
「聞いた? また新しい女の子が入るって。しかも私と相部屋になるらしい」
オレたちはバス停から離れ、ホテル山善の真下にある湖畔のベンチに落ち着いた。ここは比較的人通りが少なく、車道からも死角になっている。それでも、金田さんに出くわしたりしないかとヒヤヒヤしながら、オレはアヤミの肩を抱く。
「その子が入ったら、こうやって外で逢うしかないね」
湖畔での逢い引き。このままボートで漕ぎ出せば、『昼下がりの情事』さながらのシーン(高台にあるパイプのけむりから目立つのでそれはできない)。ゲーリー・クパーなんてとんでもないへなちょこなオレと、オードリーと比べても遜色のない、あるいは色気に限ってはオードリーを凌ぐほどの彼女。
“チュッ!”
彼女にキスをするオレの唇が思わず震える。車山の向こうから降り注ぐ西日を浴びた湖面の乱反射がまぶしい。金田さんとのキスで見た女神湖の乱反射を思い出す。甘くないキスだった。女神湖のまぶしさが憂鬱だった。
“チュッ!”
アヤミのキスは違う。柔らかで張りのある唇の響きが、白樺湖の乱反射に溶け込んでオレを甘美な非現実へと誘う。
だから、オレは彼女を選ぶ。

<< 107 >>

金田さんではあまりにも現実的すぎるのだ。オレの現実はこの白樺高原の下界、諏訪湖も八ヶ岳も見えない、遙か東の彼方に置いてきたのだ。そうなのだ。ここ白樺湖は、現実と非現実との谷間。そして現実の終点である白馬に戻り、ノーマルヒルとラージヒル、二つのジャンプ台を爆破して完全に現実と決別する。そのためにはアヤミのキスのほうがふさわしい。
“チュッ!”
金田さんに言わなければならない。

「スグルッチ、ちょっと話したいんで、今夜、フロントが終ったら、リネン室で待ち合わせしてもいい?」
休憩室で独り、早めの夕食を取っているところへ、金田さんがやって来てそう告げた。この日のオレは彼女とは入れ替えの格好で、クローズまでフロントに勤務だった。
“見られたか?!”
またしても背筋が凍りつく。用件は何かと問いただしたい。それがアヤミとの昼下がりの情事を目撃したことなら、いよいよ腹をくくらなければならない。
「じゃあ、10時半にリネン室で」
しかし、用件にこだわってはかえって怪しまれるし、ここで会話を長引かせたら、今度はアヤミに目撃されて怪しまれるのが怖い。だから、素直に彼女の提案を受け入れ、その場しのぎをするしかなかった。それにしてもリネン室というのがいかにも意味深だ。きっと、ただごとならぬ話をするのだろう。つまりはやはり、今日の昼下がりの情事を目撃されたのだ。
 白樺湖ホテルパイプのけむりのリネン室は2階西側の端にある。こんな時刻にリネン室に入っていくのを誰かに目撃されたら、それこそ本格的に怪しい。しかも、その危険性は少なからずある。オレたち住み込みの従業員は、そこの真向かいにある非常階段を通って大浴場を利用することになっているから、この時間帯は往来がけっこうあるのだ。しかし、夜中に人目に付かずに逢い引きできるのはここしかない。毎年、少なくとも一組はここでセックスをやった住み込みの従業員がいるに違いない。そういう意味では、リゾートアルバイトの淫靡さを象徴する場所でもあるのだ。
「オレと別れてくれ」と金田さんに告げる決心だった。ちょうどよかった。自分から彼女を呼び出すのはどうにも気が引けるのだが、彼女のほうから呼び水をかけてきたのだ。おそらく今日の昼下がりの情事に端を発し、先の歓迎会でアヤミに寄り添われていたことなどを糾弾してくるに違いない。そうなればオレの思うつぼだ。

<< 108 >>

「ちょっと一緒にいただけじゃないか! そんなことでごちゃごちゃ言うんなら、もうつきあうのはやめよう!」と。クッキー事件のときはなし崩しで元鞘に収まってしまったが、今度ばかりはオレも鬼になる覚悟だった。初めからこうなる運命だったのだ。もともと憐憫から始まって形だけを整えた恋愛なのだ。長く続くはずがないのだ。胸が痛まないわけではない。しかし、「痛みに耐え」なければ、甘美な非現実に思う存分に浸ることはできない。
「ワッ!」
西側の非常扉を開けると、先に待ちかまえていた金田さんが歯切れのよい声でオレをびっくりさせた。オレはドキッとした。彼女に脅かされたからではない。オレを脅かした彼女のおどけた笑顔が、今まで見たことのないほどに輝いていたからだ。なぜなんだ? オレを糾弾しに呼び出したんじゃないのか? その最高の笑顔はいったい何を意味しているんだ? 途端に鬼の覚悟はくじけた。 “この笑顔は裏切れない!”と、とっさに思ったのだ(すでに十分すぎるほど裏切っているが)。
「ど、どうしたの? こんな、リネン室なんかに呼び出して?」
「だって、こんなところでもなきゃ、二人っきりでゆっくり話すことできないから」
彼女は笑顔のままで言った。その笑顔で痛んだ胸が洗われるような気分になった。どうやらオレの見当違いだったのか?
「そうでなくても最近、スグルッチと二人で話す機会がほとんどなかったし。ってゆーか、スグルッチ、最近、私のこと避けてない?」
「そ、そんなこと、」
女性の美しさは激しい情念の裏返しなのか? このとき初めて金田さんを美しいと感じた。男子たるものその美しさに惑わされる。オレもその一人だ。語り口は穏やかだったが、彼女はほぼ予想したとおりの糾弾を始めた。昼下がりの情事を目撃されていなかったことは幸いと言うべきか。
「私、スグルッチがフルフルと冗談を言い合っているのもけっこうイヤな気分なの。だから、アヤアヤとあんなにくっつき合ってるなんて。三船さんとイチさんに相談したら、男の子は誰だってデレデレしてしまうものなんだから、それくらいのこと大目に見てあげないとダメだって言われたんだけど…」
二人の言うとおりだ。それくらいのこと大目に見てくれ!(それくらいのことだけで済んではいないが)
「でも。私はダメなの。スグルッチがほかの女の子と仲良くしているのが耐えられない」
「じゃあ、別れようか」

<< 109 >>

このタイミングを逃すべきではなかった。彼女の今までにない笑顔に怖じ気づいたが、オレは密かに大きく深呼吸をして言うべき一言を言ったのだ。
「毎度毎度、そんな気分になっていたらお互いにやりきれないじゃないか」と。
「せっかくのリゾートアルバイトなのだから、もっと自由な気持で楽しんだほうがお互いのためではないか」と。すると彼女は驚くほど素直に納得した。しかし、その後がオレだった。
「とりあえず、このアルバイトが終るまで、二人の関係を白紙に戻そう」
白紙に戻すとはつまり、いずれ二人の関係を一からデザインし直す余地を残すことを意味する。言葉のニュアンスはそうだが、本質は違う。終りなのだ。しかし、彼女は言葉どおりに解釈してしまった。
「わかった。そのほうがいいと私も思う。辛いけど…」
大粒の涙を落とす彼女に、オレの胸が大いに痛む。しかし、胸と口とは別のところについているのだ。
「これはあくまでも発展的解消だから」
そんな解消があるはずがない。持続可能な発展があるはずないように、解消は文字どおり解消でしかないのだ。しかし、彼女は途上国の少女のようにオレの言葉を疑いもなく受け入れた。これで肩の荷が下りた。少々、いや、かなり汚いやり方だったが、とにかく、この期に及んだら、「別れるのに承諾した」という言質を彼女から取るのが急務だった。あとはできる限りのソフトランディングで、彼女との関係をフェードアウトすることだ。
“ガチャガチャ!!”
愁嘆場となったリネン室の扉を、いきなり誰かがこじ開けようとした。
「あれぇ、おかしいなぁ? 誰かいるのかなぁ?」
カントクの声だった。どうやら、灯りが外に漏れているのを怪しんで開けようとしたようだ。もちろんオレたちは鍵を掛けているが、こうなったら長居は無用だ。カントクが去るのを確認し、オレたちは忍び足で外に出た。なけなしの良心の呵責でいたたまれなくなっていたので、ちょうどいいタイミングだった。カントクもたまには気の利いた仕事をしてくれる!
「スグルッチ、私、愛してるから」
寮に戻る坂の途中で、彼女が涙を拭って言った。うなずいてはいけなかった。
「この愛にはちょっと、ううん、かなり自信があるんだ!」
彼女の肩を抱いたりしてはもっといけなかった。

<< 110 >>

 支配人はオレとアヤミの関係に気づいたのだろうか? 8月に入って最初の休みが、まるで示し合わせたように彼女と重なった。
「一緒にどっか出かけよう!」と、彼女のほうから誘ってきた。形式的にせよ金田さんと別れたので、もはや何も気兼ねすることはない。アヤミと一緒に朝食を終えると、支配人から譲り受けたホンダTLR200のリアフェンダーに彼女を乗せて(タンデムシートがないのでかなり窮屈だが)オレたちはビーナスラインに飛び出した。
「ウォホーッ!」
ハイスピードで高度を上げながら、360°で展開する霧ヶ峰のパノラマに彼女はすっかり興奮していた。
「バイクに乗ったの初めてなんだけど、スゴイ、楽しいね!」
風を切りながら彼女がオレの背中で叫ぶ。金田さんを乗せたときのような違和感とはまるで違う爽快感を背中に感じる。金田さんはバイクに乗るのがあまり好きではなかった。女神湖に出かけたときと支配人の披露宴で、日が暮れてから蓼科高原の婚礼会場(エクシヴ蓼科)に二人で駆けつけたときの二度しか彼女を乗せなかった。まるでキリンの背中に乗せられた赤ん坊のように彼女は縮こまっていた。
“チュッ!”
アヤミは金田さんとはまるで違っていた。ビーナスラインを疾走しながら、オレたちはキスをした。ここでそんなことをしたカップルがかつていただろうか?! たぶん何組かはいたと思うが、とにかく、この怖いもの知らずの振る舞いが最高だった。
“チュッ!”
霧ヶ峰インターチェンジから南に下った池のくるみのほとりで、オレたちはキスをした。ここは強清水や八島湿原とは違い、行楽客がさほど多くない。だから、その気になればキスだけじゃなくフェラチオだってセックスだってできちゃう。しかし、さすがにその気にはならない。自動車の騒音が届かないここは、小鳥のさえずりや虫の音、風にそよぐ草花など、高原の色とりどりの音色が、そのままに耳に入る。
「見て! これ、スゴク変わった形してるよ!」
アヤミが指さした先には、まるで宇宙人のような高山植物がにょきっと生えていた。
「きれいな花だね! あっちにもあるよ、ほら!」
湿原の一体には紫色の花が静かに咲いている。金田さんと鎌ヶ池で見たのと同じ花だった。オレはその花の名前を知らない。しかし、名前を知らなくともそれが美しいことぐらいはわかる。だからオレはアヤミにキスをする。
“チュッ!”

<< 111 >>

こんなに美しいキスがいまだかつてあっただろうか!?
下諏訪に下ったオレたちは、諏訪大社の下社秋宮に参拝してから、湖畔の「小林」で鰻重と背骨の唐揚げに舌鼓を打ち、それから一つ浜公園の芝生に寝そべった。秋宮の参道で、さりげなく彼女が手をつないできたので、オレは密かに興奮した。女の子の手をつないだことはあったが(つまりは金田さん)女の子から手をつながれたことは小学六年生のとき以来だった。だから、オレは御柱を目の前にしてアヤミにキスを迫った。人目を少々はばかりつつ受け入れる彼女。湖畔の芝生に西日を浴びて寝そべってもキス。

「私、ってゆーか、これはダイニングみんなの意見なんだけど、カントクをチーフから降ろしたほうがいいと思うの。アイツがチーフのままだったら、とてもこの一ヶ月、乗り切れないって、みんな言ってるよ」と、キスの合間に穏やかならぬ話題を持ち出すアヤミ。なんでも女性陣の間でカントク降ろしの機運が高まっているという。カントクも哀れなやつだ。オレがこうして彼女に覆い被さってキスをしているのに。
「じゃあオレが、女性陣の統一見解代理人ってことで、支配人に進言してみようか?」
もちろん、そんなこと言えるわけがない。カントク降ろしが実現したら、一番の迷惑を被るのはオレなのだ。真澄の手酌、河島英吾の絶唱、「やってらんねぇぜ!」のやっかみ。それらがどれだけすさまじいのか、アヤミは知らないのだ。だから、そんな不穏な動向を耳にしてしまった以上、ここはオレが一肌脱ぐことにして女性陣のくすぶっている火種をいったん沈静化させた上で根本的な問題は棚上げする。それが大人の対応なのだ。それに、もともとおもしろ半分でチーフに据えたぐらいだから、たとえ進言したところで支配人はなんの対策も講じないだろう。ああだこうだと言っているうちに一ヶ月は終る。リゾートアルバイトなんてそんなもんだろう。しかし、オレにとってこの一ヶ月がどんなに長いかを、この時点ではまだ自覚していなかった。

 いきなりの夕立に降られ、買い出しに寄ったマックスバリューで足止めを食らったので、白樺湖に帰る頃にはすっかり暮れかかっていた。オレはフルスロットルで大門街道を飛ばした。
「見て、スゴイキレイ!」
アヤミがオレの肩を叩いて西の空を指した。夕立の上った雨雲の切れ間から、印象派のような夕焼けが車山の頭上を照らしていた。

<< 112 >>

忘れられない夕焼けだった。次に目をやったときにはもうなかった。

 お風呂から上って部屋に戻ると、スカイメールが二通来ていた。
“ありがとう。今日は満喫した。だいぶ疲れたから今夜はもう寝るね。お休み”
アヤミからだった。このところ毎晩、欠かさずメールをくれる。末尾にいつもハートマークがあるのが、おあつらえ向きだがうれしい。もうすぐ三十歳になるというのに、スカイメールのハートマークに浮かれているのはどうかと思うが、おそらく、これが普通の三十路男子なのだろうとも思う。オレは決めたのだ。白馬に戻るまでのあと三ヶ月、アヤミとの非現実的日常で思いっきり普通の振る舞いを、常識的で通俗的な成人男子を演じきってやるのだと。だからオレもハートマークをつけて彼女に返信をした。
「遅くにごめんなさい。ちょっと話したいので、これから会えませんか?」
もう一通は金田さんからだった。途端に現実に呼び戻される。彼女の「ちょっと」は大事の予告なのだ。それにしても、今さら改めて話すことなどないはずだ。「もう遅いから」と突き放せばいいのだが、それができないのがオレだ。おそらく、今日のアヤミとのデートのことを何かしら問いただしてくるに違いない。白紙に戻すにせよ発展的解消にせよ、別れたことには違いないのだから、この期に及んであれこれ言われる筋合いはない。ただし、オレにあれこれ言う分にはいいのだが、その矛先がアヤミに向かっていくとマズイ。だから、むげに突き放すわけにもいかない。金田さんは思い詰めると何をしでかすかわからないタイプだ。ましてやクッキー事件という前科があるので、やたらとナーバスになっているのに違いない。触らぬ神にたたりなし。しかし、一度交わってしまった以上、まったく触らないわけにもいかない。腫れ物に触るようにあと三ヶ月、彼女をなだめすかししてアヤミとの非現実を全うしなければならないのだ。
 金田さんとまたリネン室で待ち合わせた。
「どうしたの?」
不穏な顔色と目の色が明らかな彼女に対し、オレは努めて平静に尋ねた。
「どうしたのじゃないよ! しらばっくれて!」
彼女はのっけから、かなり前のめりだ。こんなときはコイズミ的姿勢で望むのが一番だ。
「しらばっくれるって、なんか、人聞きが悪いなぁ!」
「今日、アヤアヤと出かけたでしょう?!」
「出かけたよ」
「なんで?」

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「なんでって、“休みが一緒だから出かけない?”って彼女に誘われたから」
「ハァーッ、」
彼女は深いため息をついて口を尖らせた。
「誘われたら、スグルッチはノコノコと出かけちゃうわけ?!」
ここは改めてはっきりさせたほうがいい。オレたちはもう別れたのだと。
「別れたって、たしかにそうかもしれないけど、」
「そうかもしれない」ではなくて「そう」なのだ。こんなふうにああだこうだとお互いの(オレの)やることにいちいちくちばしを入れないために。オレはスジ論を冷静に述べた。
「そうかもしれないけど、何も別れ話をした翌日に、ほかの女の子と出かけなくてもいいでしょ! まるで待ってました!と言わんばかりじゃん!」
そのとおり! オレはまさにこのときを待っていたのだ。
「待ってましたってわけじゃないけど、しょうがないじゃん! 誘われたんだから」
「断ればいいじゃん!」
「断るこたぁないでしょ! 自分だって前田や工藤くんから、休みが一緒だから出かけない?って誘われたらむげに断れないでしょ?」
「―私は断るもん!」
「なんてって断るんだよ? スグルッチとの関係がどうのこうのっていちいち説明するのかよ?」
「それはぁ…」
こうなるとスジの通っているオレのほうが強い。気の毒だが、今のオレはスジが通っている。これまでさんざんオレにスジ論を突きつけてきたくせに、いざ自分が突きつけられる立場になると彼女はもう、スジもヘチマもあったもんじゃなかった。
「―出かけるにしても半日、いや、半日でも長いよ! 二三時間だけだよ! それくらいが常識的範囲じゃない?! それを朝一から日が暮れるまでずっと! どうかしてるよ! 私が何度、寮の玄関にスグルッチのバイクがあるか見に行ったと思ってんのよ?! まだ帰ってない、まだ帰ってないって」
「何回、見に行ったの?」
「百回ぐらい見に行ったよ! 私の気持にもなってみてよ!」
それはご苦労なことでした。しかし、いくらなんでも百回は大げさだろう?

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「大げさじゃないよ! ホントに百回見に行ったんだから! 私、数えたもん! だいち、私はねぇ、別れるのに賛成したといっても、それはこのアルバイトが終って宇都宮に戻ったら、もう一度スグルッチとつきあい直すことを前提にってことで賛成したわけで、スグルッチがほかの女の子と好き勝手に遊ぶことまで賛成したわけじゃないから! いったいスグルッチは私のこと、どう思ってんのよ?」
また始まった。いい加減うんざりだ。どう思ってんのと問われれば、こう答えるしかない。
「オレがいたからがんばれたと言ってくれたキミの気持に素直に応えたい」
これは本音なのだ。しかし、彼女はどうやらその本音が気にくわないようだ。
「一つ言ってもいい? スグルッチは私が一方的にスグルッチのことを好きになったような言い方をするけど、それは勘違いだから。少なくともスグルッチにもその気があったからこういう関係になったわけで、それを自覚っていうか責任を持ってほしいよ! あんまりうぬぼれないほうがいいよ!」
勘違いは彼女のほうだ。まったく、聞き捨てならぬ言いぐさだが、ここまで来るともう手の施しようがない。だからオレは本音を続ける。
「いや、まあ、アヤアヤにせよクッキーにせよ、女の子に慕われたことなんて初めてなんで、舞い上がってんだよ、オレは。だから舞い上がれるときは思う存分舞い上がらせてほしいっていうか、そのうち舞い降りるのがオチだから。たまたま乗り心地のいい波が来ているだけで、すぐにサーッと潮が引くように波も引くでしょう。あっけないもんさ! だから丘の上で波乗りを高みの見物でもしてるくらいの気持でいいと思うよ。だってクッキーのときもそうだったように、アヤアヤとも一緒に出かける以外のことは何もないんだから」
最後の部分だけ、もちろん本音ではない。
「もう一つ言わせてもらうけど、私は器が大きいから、そんじょそこらのことじゃどうにかなったりしないけど、スグルッチは肝に銘じておいてよね! 私を失うのとほかの女の子と楽しくやりたいのとどっちが大事かってことを! こんないい女、判で押してもなかなかいないんだから!」
こうなるともう、妄想というより暴走だった。彼女はもはやブレーキの壊れたダンプカー、いや、プログラミングを誤った小型精密誘導弾だった。

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もしオレがここで本音中の本音、「アヤアヤとつきあいたい(つきあっている)んで、キミはもう用済みなんだよ」と言ったらどうなることか? 間違いなく暴発、つまり、オレと刺し違えて彼女も死ぬ。あるいは、アヤミを刺してから彼女も自分の喉を突く。明日の朝には死体が三つ白樺湖をプカプカ。楽しいはずのリゾートアルバイトが一転してサスペンスの現場に。いくらここ白樺高原が『火曜サスペンス』のロケ地によく使われるからといって、それはちょっとしゃれにならない。だから本音はほどほどに彼女を武装解除させなばならない。
「ただ一時の大波だから。波乗り見物! 波乗り見物! アイツにぃ、海に誘われたぁ、断れない初めてのサァフィンー♪ 恋はサーフィンに乗って。そんな感じで!」
「ハァーッ、こんなことなら別れるのに賛成するんじゃなかった! スグルッチは口が達者だから、白紙に戻すとか発展的解消だとか言われて、あの場では妙に納得してしまったけど、なんか上手く丸め込まれたっていうか騙されたみたいな気分だよ!」
ますます聞き捨てならない。オレは決して騙したわけではない。むしろ騙すことがないように、慎重に言葉を選んで別れ話を承諾させたはずだ。それにこっちも一つだけ言わせてもらいたいのは、仮に騙されたとしたら、騙されるほうが悪い。軍国主義であろうと民主主義であろうと、それが社会の常識なのだ。21世紀二年目の今日でもそんな常識がわからない国民が圧倒的に多い。あるいは騙されることに心地よさを感じているから、進んで騙される方向に走るのか? 金田さんもそんな国民の一人なのか?
とにかく、「波乗り」と表現したとおり、こうなったらもう、オレはなすがままに任せるしかないのだ。なすがままに任せなさい。そして、そのなすがままは大方、最悪の方向に進んでいくのだった。
 物別れに終ったリネン室での二度目の会談。金田さんのあとから別々に寮に戻ると、玄関にカントクがいた。いつにもまして冴えないツラをしている。
「どうだった? ネエさんとの話し合いは」
なんで知ってるんだ? ひょっとしてリネン室の外で盗み聞きか?
「人聞きの悪いこと言いなさんな! スグルッチが仕事から戻ってくる前、ネエさんがボクのところに来てたんだよ」
また困ったときのカントク頼みか。まったく、困ったもんだ。
「困ったのはこっちだよ! 別れ話したんだってね?」

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困ったと言いながら、カントクは心なしかうれしそうに尋ねた。
「ネエさん、泣いてたよ。スグルッチのためを思って別れることにしたのに、いきなりアヤアヤと二人で一日中出かけるなんて!って」
「オレのためを思って」―どこかで聞いたようなセリフだ。
「それで、アヤアヤとは、いったいどうなってんのよ?」
そこが一番聞きたいのだろう。
「どうなってるって、まぁ、それなりの関係になってるんだけど」
アヤミとの関係を正直にカントクに話すのは諸刃の刃だった。金田さんに同情するのとオレに嫉妬するのとは間違いない。手酌の河島英吾もますます激しくなるだろう。しかし、いつまでも隠しきれるものでもない。下手に隠して不信感を抱かせては、かえって不利になるかもしれない。あるいはひょっとしたら”わが意を得たり!”と、オレときっぱりと手を切ることを金田さんに強く勧めて自らの売り込みに乗り出すかもしれない。クッキーのときとよりもカントクの立場は悪くないはずだ。下手なヒューマニズムを起こし、これからしゃべることを金田さんにしゃべらなければ、これまでのことをアヤミにしゃべらなければ、それでいいのだ。また真澄の出費が増えるのは癪だが。
「それなりの関係って?」
「それなりはそれなりさ」
「つまり、男と女の関係ってこと?」
「まぁ、そういうことだね」
「ハァーッ! やってらんねぇぜ!」
夜中なのにカントクは奇声を上げた。
「いったい、いつの間に彼女とそんな?」
「それは、あのとき、部屋で三人で飲んでるとき、カントクが寝てから」
「ハァーッ! もう、いよいよやってらんねぇ! 白樺湖を一周してくる!」
一周もいいが、絶対にこのことを誰にも他言しないでくれ。
「しないよ! そんなこと、誰かにしゃべったところで自分が惨めになるだけだよ!」
カントクの予想以上の落胆に、オレは先行きが不安になってきた。
「ボクはつくづく自分が嫌になったよ! クッキーといいアヤアヤといい、もとはネエさんだってそうか! どうしてこう、ボクの目の前でスグルッチにかっさらわれるんだろう?! ボクはどうしていいのかわからないよ! 白樺湖を一周して自分を見つめ直してくる。今後の身の振り方を考えなきゃ! 考えがまとまるまで、二周も三周も、いや、十周ぐらいして夜明けを迎えるかもしれないから!」

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何周しようと勝手だが、カントクにしゃべったのは、やはり失敗だったのか…

「松本こずえと言います。よろしくお願いします」
アヤミの相部屋になる女の子がやって来た。彼女は松浦亜弥に似ていた。
「マジで?! 写真で見るより、けっこうカワイくない?!」
履歴書を見たときから浮かれ気味だった前田が、実物の登場でますますソワソワし始めた。無理もない。松浦似のこずえちゃんはT大学の一年生で、前田と同級生なのだ。彼女はレストランのホールへ配属になった。
「うちの大学にもこんなカワイイ子がいたんだ!って感じじゃねぇ?!」
早速、前田は厨房兼洗い場からホールに配置換えをしてもらうよう、支配人に工作した。
「何、前田は早くもこずえちゃんを狙ってんの? いかんなぁ!」と言いつつも、支配人はちゃっかり前田の工作を実現させた。
「どう? 決まってる? オレのネクタイ姿」
レストランのオープンが待ちきれないといった勢いで前田が現れた。
「なんかホストみたいじゃん?」と支配人が突っ込む。
「ホストはないでしょう!」
「ちっ、遊びでやってんじゃないってんの! これだから学生は困るんだよ!」と片隅でカントクが舌打ちをした。
「何言ってんの!? 他人の批判する暇があったら、自分こそもっとしっかりやんなよ! ホールの人数が増えたと思ったら、見てないところで手抜きするだから!」と、リエリエがアヤミや宮野尾さんと陰口を言い合っているのが聞こえた。
 前田はやたら張り切ってこずえちゃんと一緒にホールを動き回った。
「マエピー、そっちはいいから、あっちに行って!」
そんな彼に再三カントクが横やりを入れ、こずえちゃんから引き離した。
「チェッ、かんとくのヤツ、自分がこずえちゃんに近づきたいだけじゃん! なんでいちいちこっちに来て余計な指図をするんだよ?!」
前田はたびたび洗い場のオレのところに来てボヤいた。
「ヒヒッッ、ホールはますます大変なことになっとるなぁ!」
支配人が冷やかしに来た。
「しかし、前田はお調子者だなぁ! 安川くんを見てみろよ! 実に黙々とやっとるじゃないか!」
前田がこの夏休みから連れてきた同級生の安川ヤスシくんは、高校時代にバレー部のキャプテンをやっていただけあり、前田と好対照な生まじめさが好評だった。

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彼だって内心は前田と同じようにこずえちゃんの出現に胸を躍らせているかもしれないが、まるで浮き足立った様子はなく、地に足をつけて厨房と洗い場の仕事をこなしていた。
「まぁ、ヒトの性分ってのはありますから」とオレ。
「性分ねぇ。ところで浮気な性分のスグルッチは、金田ちゃんとその後どうなってんの?」
「なんですか、その浮気な性わかってのは?」
アヤミとのことを言っているのか? おそらくそうだろう。いったい、どこまで勘づいているのか?
「アヤアヤと出かけたでしょう? どうだった? なんかいいことあった? ヒヒッッ!」
「なんにもないですよ! 別に」
「ホントかなぁ?」
油断のならない言いぐさだ。まさかカントクがちくったのか? それとも金田さんが誰かにしゃべったのが漏れ伝わったのか?
「スグルッチとアヤアヤはクサイと睨んだのは、この仕事をやってる長年の勘だよ! だから休みを一緒にすれば、きっと何かが起こるに違いないと。ってなわけでどうよ?」
「どうよ?って。別に何も…」
「ホントに? 何もない?」
支配人が気色悪く顔を近づけてくるが、オレはあくまでもしらばっくれる。カントクと違ってこのハツカネズミヅラは油断がならない。
「アヤアヤとどうなるのかは見物だけど、もしホントにどうにかなっちゃったら大変だね! 金田ちゃんはどうなるんだろうね?」
「どうなるも何も、オレたちは別に…」
「そんな、今さら隠さなくても。スグルッチと金田ちゃんのことは、知らないやつはいないくらい有名な話じゃん!」
嫌な言い方をしやがるが、それが事実なのだろう。だからアヤミとの関係が明るみに出たら、オレは世論まで敵に回すことになる。クッキーのときに危うくそうなりかけたように。だだし、少なくともまだ一人は知らない。いくら世論を敵に回そうと、彼女にさえ知られなければそれでいいのだ。
「しかし、今年もまた、人生劇場飛車角の舞台が見られるのかなぁ? ヒヒッッ!」
「なんですか、それ?」
支配人は言う。一人の男を二人の女で取り合ったり、その逆のパタ―ンも今まで何度も見てるから、別に珍しくないと。
「そんなの日常茶飯事ってってゆーか、オレがその経験者なんだけど。ヒヒッッ!」
なるほど。じゃあ、もしも最悪の事態に陥ったら、支配人はオレを支持してくれるだろうか?

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「ってゆーか正直、スグルッチがアヤアヤを落とすなんて考えられんがな。彼女はイイオンナだよ! 結婚してなかったらオレが口説きたいぐらいだよ! もし見事に落とせたら、テンホーで昼飯をおごってやるよ! ヒヒッッ!」
別に支持なんかいらないが。アルバイトをクビにさえならなければそれでいいわけで。{それにしても、テンホー(茅野・諏訪で石を投げればテンホーに当たると言われるぐらい、至る所にあるラーメン屋)とはいかにもケチだ。せめて観光荘(岡谷市の老舗鰻屋)ぐらいは言ってほしい}
「しかし、男の子同士ならまだマシだけど、女の子の喧嘩は凄まじいねぇ! バナナを奪い合うチンパンジーみたいにみっともないよ、あれは! オレが言うのもなんだけど、スグルッチも気をつけなよぉ! ヒヒッッ!」
アヤミと金田さんがチンパンジーになる日(金田さんはクッキー動乱のときに危うくなりかけている)は、それからまもなくやって来た。。

 こずえちゃんの歓迎会を開くことになった。例によって非公式だが、今回はリエリエの部屋ではなく、前田の部屋に集まることに。当然、前田が音頭をとってのこと。歓迎会を引っ張れるだけ引っ張り、こずえちゃんに唾を付ける機会を得ようという魂胆だ。
「スグルッチ、今日の歓迎会でオレッチがコズコズに近づけるようにサポートしてくれよ!」
冗談じゃない!(前田がなれなれしく、こずえちゃんのことをそう呼び始めた)こっちはそれどころじゃないんだ! アヤミと金田さんがまた同じ場に顔を揃えると思うと、今から生きた心地がしない。
「スグルッチ、なんかテンション低くねぇ? ダメだよ! 自分ばっかりイイ思いしちゃ!」
イイ思いなんかじゃねぇよ! 気が重いよ! しかし、考えようによっては、気が重いのはすなわち、イイ思いなのかもしれない。そうでも思わなければ、とても身が保たない。
「頼んだよ!」
頼まれても困るが、仕方がないからオレは前田にうなずいてみせる。

「スグルッチ、今日、コズコズの歓迎会、行く?」
中休みに寮の廊下で、出勤前の金田さんとすれ違った。
「行くよ? なんで?」
オレは平然を装って答えたが、内心はとっさにかなり困惑した。
「今夜の歓迎会でコズコズが部屋を空けるから、二人で抜け出して私の部屋で過そうよ!」と、すでにアヤミに誘われて密約を交していたからだ。
「いや、別に…行くのかなぁって思って」

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「行かないの?」
「行くよ。じゃあ一緒に行こうね!」
これまでさんざん飲み会を避けてきたのに、よりによってなんでまた?! 彼女の輪郭に、いつものかげりに加えて焦りの色がありありと浮かんでいた。今夜の歓迎会で、彼女はオレを徹底的にマークするつもりなのだろう。やっぱりイイ思いなんかじゃない。気が重い。
「じゃあ今夜、マエピーの部屋で!」
そう言う彼女に、オレは心なくうなずいた。
 歓迎会はいつものことながら、まるで芋洗い場だった。大小あまたの芋たちの中心にコズコズが据えられる。早速、前田が彼女にすり寄ってベストポジションをキープする。その露骨な密着ぶりに、彼女はハナから迷惑そうだった。オレとアヤミは意図的に一定の距離を保っていた。間もなく、立て続けにドロンしようというのに、二人で並んでいては目立つからという彼女の入れ知恵だった(女の子はしたたかなのだ)。金田さんは、ほぼオレの対面に構えていた。オレの隣に来てマン・ツー・マンでマークしたそうだったが、オレが芋洗い場のどさくさに紛れて一番やかましい前田の隣りに位置したので、そのテンションに付いていけずに忸怩たる思いでオレとアヤミの動向をゾーンでマークしているようだった。
 前田に便乗してコズコズにちょっかいを出していたら、いつの間にかアヤミがいなくなっていた。オレ自身が気づかないくらいのさりげなさで。金田さんもおそらく気にとめていないだろう。オレが前田とコズコズのサイドで金田さんのマークを引きつけているのも大きい。アヤミとの約束では、彼女がドロンしてから五分後にオレも続くことになっていた。
「遅い! まだなのぉ?」
アヤミから催促のスカイメールが来る。金田さんのマークをはがすのに手こずり、約束の五分を過ぎてもオレはまだ動けなかった。
「遅い! まだなのぉ? もう待ちきれない!」
今度は怒りの絵文字入りで催促が来た。もう十数分を過ぎようとしていた。冷や汗をかくオレ。彼女のいらだちがかわいらしくもあるが、彼女はオレと金田さんのことを知らないので、オレのもたつきが理解できないのだ。オレは金田さんがトイレに立つタイミングを狙っていたのだが、一向にその気配はない。これ以上、アヤミを孤立させるわけにはいかなかった。
「ちょっとトイレに行って来ます」
金田さんがオレから目を離した瞬間をとらえ、オレは席を外した。

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「遅いよぉ! 何してたのぉ?」
追っ手を気にしながらアヤミの部屋に入ると、彼女がプンプンしていた。
「ゴメン、ゴメン、前田が放してくれなくてさぁ!」と、オレは嘘の言い逃れで彼女をなだめるなり、抱きしめてキスをする。
「ダメッ、」
そのまま彼女のTシャツをたくし上げてあらわな乳房を鷲掴みにしながら、乳首を舌なめずりにする。
「ダメッ、」
ジーパンのファスナーを下ろしてパンティに手を突っ込んだところで、彼女が例のごとくオレを制止した。せっかく苦労して二人きりになったのだから、”今日こそは!”とオレは意気込んでいた。
「ダメッ、コズコズが戻ってきたらどうすんの?!」
「戻ってこないよ!」
“コンコン”と、そこへいきなりノックの音がした。とっさに体勢を立て直すオレたち。”金田さんじゃないか?!”と息をのむオレ。
「あれっ、アヤミちゃん、スグルッチさんも!?」
ほかでもない、コズコズが部屋に戻ってきたのだった。”まさか! なんで?”とアヤミも思った。
「どうしたの? 飲み会はもう終ったの?」
「いえ、まだやってますけど、なんか、あまりにもヒトが多すぎて窮屈で。私、ああいう大勢の場には慣れてないんで、けっこう苦手だったりして」
「そうなんだ…」
さすがのアヤミも意表をつかれて当惑していた。オレは金田さんじゃなかったのでホッとした反面、中断してしまったアヤミとのエッチを早く再開したくてうずうずしていた。
「もう飲み会には行かないの?」
アヤミが石橋を叩くように尋ねる。
「ええ、ちょともうシンドイんで、行かなくてもいいですか?」
「スグルッチと二人きりになりたいから、コズコズ出ていってよ!」とアヤミが言えるわけがない。もちろんオレも。オレたちはがっかりするのを隠しつつ、コズコズが二人の関係を察してくれるのを待つしかなかった。
 妙な空間だった。オレとアヤミに加えてコズコズ。しかし、ふと振り返れば、つい半月前までは、オレと金田さんとフルフルの三人だったのに。ちょうど二人の女の子が入れ替わった格好だ。数奇な成り行きを感じながら、オレはコズコズが気づいてくれるのをひたすら待つ。しかし、いたずらに時間が過ぎてゆくばかり。取り立てて会話をするわけでもなく、コズコズは大学のテキスト(美術史)に目を通したりしている。
「スグルッチ、マッサージしてあげようか?」

<< 122 >>

業を煮やしたアヤミが、そう言ってオレの背中に回った。
「じゃあ、お願い。いつものように!」と白々しく応えてうつぶせになるオレ。アヤミが馬乗りになる。これもクッキーのときにあった光景だ。しかし、コズコズは”やってらんねぇぜ!”とカントクのようにやっかむことなどなく、ほほえましくオレたちを眺めながら、相変わらずテキストに向かっているだけだった。
「ああ、キモチイイ!」と、オレがさらに白々しく声を上げたそのときだった。
“コンコン”と再びノックの音が。コズコズが応対に出た。オレとアヤミはマッサージをやめなかった。
「あっ、どうも。すいません、飲み会を途中で帰ってしまいまして」
「うんん、それはいいんだけど…」
「どうかしたんですか?」
「―スグルッチ、来てる?」
「ええ。いますよ」
「何してんの?」
「なんか疲れてるらしくて、今、アヤミちゃんにマッサージしてもらってます。呼んできますか?」
「―いや、大丈夫だけど。みんなが待ってるんで、早く飲み会に戻ってくるようにって…」
金田さんだってことはノックの瞬間に勘づいた。だから、オレはあえてアヤミにマッサージを続けさせたのだ。これはあくまでも自然な光景だと、金田さんとこずえちゃんに印象づけるために。アヤミ本人とオレ自身にも思い聞かせるために。
つくづく数奇だと思う。飲み会から逃げた金田さんをオレがたしなめに行って口論になったのはいつぞや、たった半月足らずで立場が逆転してしまった。それぞれの経緯こそ違え、”youが飲み会に来ないのはおかしい! 来るべし!”と、お互いのエゴを押しつけあっている格好だ。オレは今、はっきりとそれを自覚している。しかし、彼女は違うだろう。今や盲目の女性である彼女は、決して自覚などしないはずだ。”アナタが悪い! 悪いのはアナタ!”“こんなオンナに誰がした? アナタがした!”―彼女に限らず、そんな感傷が女性の本性だとオレは薄々気づきつつある。薄々の時点で早くも懲り懲りなのだ。
 盲目の金田さんが、こずえちゃんの肩越しにこっちを見たことだろう。うつぶせになっているオレにはわからない。それに、あいにくというか幸いというか、オレたちがマッサージをしている位置は、部屋の間取りにしてちょうど死角になっている。
「スグルッチ! いい加減にしてよ! これ以上、私をバカにしないでよ!」

<< 123 >>

と金田さんが飛び込んでくるのを覚悟しながら、オレはうつぶせでアヤミの馬乗りを許したまま息を潜めた(死んだふり)。
「―じゃあ…」
「はい。わかりました」
しかし、金田さんは引き下がった。とりあえずは命拾いしたと密かに胸をなで下ろしたが、彼女の突然の訪問にアヤミは何を思っただろうか? 
「何? 金田ネエさんがスグルッチを呼びに来たんだ?」
勘の鋭いアヤミのことだ、何気なく尋ねているようで何かしらの異変を感じているはずだ。
「どうせ前田の差し金だろ? いいよ、行かなくても。代わりにコズコズが行って来てよ!」
「いやぁ、私もいいですよぉ!」
お茶を濁すようにしてコズコズにけしかけるオレ。彼女は相変わらず何も気づいていないが、事態は中東情勢さながらの一触即発だった。ここにいては危険だった。オレがいるとバレた以上、金田さんが今度は偵察ではなく、いよいよ討ち入りにくるだろう。
「スグルッチ、玄関にタバコ吸いに行こっ!」
こずえちゃんの鈍感に加えて金田さんの邪魔立てで、アヤミの辛抱の糸が切れたようだ。このままここにいるのも危険だが、公共の場で彼女と二人きりになるのはもっと危険だった。彼女の誘いを保留にしていったん飲み会の場に戻ったほうが賢明だった。しかし、オレはそうしなかった。金田さんの討ち入りよりもアヤミの誘いを断るほうが怖かった。一度でも彼女の誘いを断ったら、それで彼女を失ってしまうのではないかと。失うものがあるとき、人間は正気でなくなる。再び金田さんに踏み込まれようと、アヤミのそばを離れたくなかった。再び金田さんに踏み込まれたら、すべてが終るかもしれないのに。
“チュッ!”
ついにオレたちのキスは公共の場にも持ち込まれた。寮の玄関でオレたちは抱き合い、繰り返しキスをした。金田さんのときとやっていることは同じだが、形を整えただけの彼女とは違い、アヤミとは気持が入って乗っている。しかしながら、誰かがオレを見つめていることを決して忘れてはいない。金田さんではない。ほかのみんなでもない。オレ自身がオレを見つめている。
“チュッ!”
何度目にキスをしたときだろう、まるでイスラエル軍のブルドーザーような足音を響かせ、誰かが寮の玄関を上ってきた。
「スグルッチ!! いい加減にしてよ!! これ以上、私をバカにしないでよ!!」
「な、何言ってんだよ?!」

<< 124 >>

「結局さぁ、スグルッチは女の子だったら誰でもいいんでしょ?! 私じゃなくてもいいんでしょ?!」
「な、何言ってんだよ?!」
阿修羅のごとき形相でオレの胸ぐらをつかんできた金田さんに、オレがとっさに返す言葉といったら、それしかなかった。オレにうろたえる隙を与えないほど、凄まじい猪突猛進の奇襲攻撃だったが、ただならぬ事態を察したアヤミは素早く寮の中に避難したので、二人の衝突という最悪の事態はとりあえず、回避できた。
「ねぇ、スグルッチ!!」
「な、何言ってんだよ?!」
まさにまな板の上の鯉のオレだったが、ここで起こってしまったことを考えると、これから起こるであろうことを考えたくなく、顔面蒼白にして頭の中は真っ白で、ジタバタすることさえできなかった(むしろ恐怖で縮こまってしまったというべきか)。出刃包丁こそ握っていなかったが、彼女は一刀両断で換骨奪胎してやろうという殺気立った眼光でオレを間近に睨んだ。オレは彼女から目をそらす。そのうち大粒の涙が彼女の眼光を鈍らせる。
 どれだけの時間が経ったのかわからなかったが(たぶん、さほどの時間ではなかったはずだ)、怯えることしかできないオレを突き放し、金田さんは寮の中に去っていった。
“アヤミの部屋に殴り込むかもしれない!!”
怯えてばかりいてはもっと恐ろしいことになりかねないので、オレは動悸を抑えてアヤミ部屋に向かった。
 ノックをして重たい扉を開けると、幸い、アヤミとコズコズしかいなかった。当然、アヤミの表情は曇りに曇っている。気まずいどころの騒ぎじゃない。
「スグルッチ、いったいどういうこと?」とアヤミが尋問するより先に、
「話があるから」と、オレは神妙な面持ちで彼女をリネン室に誘った。

「ハーッ! もう、マジで?」
アヤミが深いため息で頭を抱えた。腹をくくるとか言っている次元でもないので、オレは先ほどの一大事の顛末から金田さんとの経緯を洗いざらいではなく、都合の悪くないところを(ほとんど全部、都合が悪い)切り貼りしてアヤミに打ち明けた。白樺湖に来てすぐに金田さんに告白され、オレにその気はなかったが、友達としてなんとなく個人的につきあうようになった。しかし、次第に彼女が独善的になってきたので、最近になって別れ話をして彼女もそれを承諾した。

<< 125 >>

それなのにアヤミとオレが仲良くしているのが気にくわなくて自意識過剰になったゆえの暴発だろう、と、こんな具合に。つまりはクッキー事件のときと同じく、一方的に金田さんを悪者に仕立て上げたのだ。
「ハーッ! 私、こういう危ない男の人を見分けるのは自信があったはずのに。ショックだよ!」
再びアヤミが深いため息で頭を抱えた。カントクには「色男」と言われ、アヤミには「危ない男」と言われた。まるで地軸の一部がねじ曲がってしまったかのようだが(たしかに、この夏は異常気象の長雨だ)、こうなれば、オレは危ない色男の本領を発揮すべく、
「アヤミとこういう関係になる前に金田さんとは縁を切っていたから」と強調して(もちろんこれは偽証罪に当たる)アヤミの肩を抱き寄せてキスを求めた。金田さんとは一悶着があってもキスとセックスでなんとか円く収めてきた。しかし、アヤミにはその手は通用しなかった。彼女はオレの手を振り払って背中を向けた。血の気が引いた。背筋が凍りついた。いよいよ万事休すか?!
 短い夢だった。明日からは白馬に戻るまで、ただ黙々と仕事に取り組むだけだ。夢から覚めたオレは、現実と決別する準備を着々と進めるのだ。明日からは地軸も正常にもどり、夏本番の晴天を向かえることだろう。
「それで、金田さんとはヤッタの?」
アヤミが半身でうつ向いたまま詰問した。彼女にしてもそれが一番重要なのか? おそらくここが分水嶺なのだろう。正直に言うべきか否か?「やってない」と言えばちょっと嘘っぽいが、「ヤッタ」と言える勇気はあるのか? 
「―やってないよ。そこまでの仲じゃなかったから」
正直者が報われるのは所詮、民話の中だけ。現実はやはり証人喚問のごとく、都合よく嘘をついたほうが勝ちなのだ。夢は終ったと言いながら、本当は永遠に続いてほしい(カントクの言う「諦めた」と同じだ)。無理もない、これが三十路を前にして初めてオンナの味を知った遅咲きの有り様なのだ。遅咲きとは実に恐ろしい。アヤミを失いたくないがために、金田さんをここまで貶めてしまった。カントクが聞いたら真澄の一升瓶でぶん殴られるかもしれない。血だらけになってもいい。アヤミを失わなければ。アヤミを失うかもしれないと自覚したときの恐怖感はどうであろう?! この恐怖感は紛れもない現実なのか? それともやはり現実とは別世界ゆえなのか?

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「金田さんとのことは私がここに来る前のことだから、目をつむるっていうか、私がとやかく言うことじゃないんで…問題はこれからだよ!」
本当に夢はまだ終っていなかった。
「私はスグルッチのこれからを見て判断するから。私との関係をどれだけ大事にするかを」
奇跡が起ころうとしていた。
「オレはこれからもアヤミと真剣につきあっていきたいと思っている。金田さんはもう関係ないよ!」
その一言をオレは噛み締めるように言った。
 その後、アヤミの部屋に戻ったオレたちは、そのまま夜を明かした。コズコズがいるのにもかかわらず、オレはアヤミのベッド脇に並んで彼女と手をつないで寝た。コズコズはさぞかし迷惑だっただろう。しかし、オレはもうなりふりかまってはいられない。アヤミと一瞬たりとも離れたくなかった。とにかく、よりいっそう彼女と癒着を強めることが、オレがこの白樺湖で生き延びる術なのだ。そのためにはコズコズのプライバシーも犠牲にさせてもらう。大学一年生の彼女にはこれも社会勉強の一つだろう、なんて屁理屈だが。オレはアヤミの手を強く握った。彼女の手の温もりで、金田さんへの罪悪感を消し去るために。

「何が起こっても絶対に離れないでいようね!」
こんなにも憂鬱な夜明けは初めてだった。コズゴズが目を覚ます前にアヤミと一緒に起き、小さく囁いて強く抱きしめた。
“チュッ!”
こんな甘美なキスを二度と味わえなくなるかもしれないと思うと、このままずっとアヤミの部屋にいたかった。
 はたして本当に離れ離れにならずに済むのだろうか? 危機的ケースはいくらでも予想される。金田さんが改めてアヤミに立ち向かってオレとの(肉体)関係を暴露したり、金田さんに過剰に同情したカントクが、彼女の代弁者としてアヤミに立ち向かったり、金田さんがオレとアヤミに対するネガティブキャンペーンを繰り広げ、世間の風当たりに耐えられなくなってアヤミがアルバイトを辞めたり、金田さんが支配人にチクってオレをクビにしたり…自分の部屋に戻るわずかな道のりで、オレには幾重にも懸念が募った。
「お帰り」
カントクはもう起きていた。
「―ハァーッ、ついに来るべきときが来たって感じだね!」
カントクは深いため息とともに言った。やはりあの後、金田さんはみんなにぶちまけただろうか?
「いや、それはなかったけど、いきなりスゴイ形相で出ていったきり戻ってこないんで。

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そのうちフルフルと宮野尾さんが心配そうに部屋に帰ったから、ほかのみんなは何事か?!って聞くに聞けない様子だったけど、ボクと工藤くんはピンと来たね! アヤアヤと衝突したんだろ?」
「衝突ってわけじゃないけど…」
「しかし、スグルッチもバカだよね! あんな、みんなでいる場所でアヤアヤと二人していなくなったら、バレるに決まってんじゃん!」
たしかに。カントクの言うとおりオレはバカだ。バカでもいいからアヤミと二人っきりになりたかった。アヤミと離れたくなかった。
「それで、どうすんのさ?」
「どうするのって?」
「金田ネエさんのことさ! このまま捨て石にするのかい?」
捨て石とは人聞きの悪い。オレたちはすでに別れ話を済ませているのだ。
「別れ話をしたのに、なんでネエさんは昨日みたいなことをするんだろうね? スグルッチの別れ話が中途半端だったんじゃないのかい? 変に期待を持たせるような言い方をしたんでしょう? それなら自業自得だね! ネエさんがスグルッチにゾッコンだってこと、スグルッチ本人が一番知ってるじゃないか!」
まったく、おっしゃるとおりで返す言葉がない。
「やっぱりネエさんじゃなくてアヤアヤを選ぶのかい?」
この期に及んでも自明のことだが、オレは慎重にうなずく。
「ハァーッ! ネエさんがアワレだよ! ボクはもうどうなっても知らないから!」
知ってくれなくてもいい。これまでどおり、金田さんにアヤミのことを、アヤミに金田さんのことを、彼女たちから聞かれてもしゃべらないでくれれば。
「しゃべるわけないだろう! ボクを見くびらないでくれよ! そんな、スグルッチを売るような真似をしたところで、自分が惨めになるだけじゃないか! ただし、キミの味方になるかどうかはわからないけどね」
最後の一言が不気味というか嫌みったらしい(また真澄の出費がかさむのを意味する)。そこでオレは、
「金田さんのことを引き受けるつもりはないか?」と、不謹慎と知りつつもあえてカントクに聞いてみた。
「何言ってんだい! 冗談じゃない! スグルッチの二番煎じなんてゴメンだね! それに断っておくけど、ボクは他人が箸を付けた料理は食べない主義だから」
金田さんを料理に例えるとは、厚かましい(童貞らしい)口ぶりだが、(カントクはしばしば「据え膳食わぬは」

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などと女性を食い物に例えるが、そのほうがよっぽど女性を蔑視していることに彼は気づいていない)それならばけっこう。
とにかく、これで完全にカントクに弱みを握られてしまった。そしてフルフルともこれでいっかんの終りだろう。今頃は一晩中涙に暮れた金田さんをあやし疲れての寝床で、オレへの嫌悪と軽蔑と失望を募らせているに違いない。ああ…
「ヤダヤダ、やってらんねぇぜ、もう!」
それはこっちのセリフだよ!

「あっ、おはよう」
「おはよう…」
9時直前とかなり遅めの朝食に向かったところ、厨房の入り口でフルフルとすれ違った。いつもなら笑顔で挨拶をしてくれるのに、今朝はそうじゃなかった。彼女は目をそらして素っ気なく挨拶を返しただけだった。心なしか青ざめた顔付きのようにも見えた。否定しようのない気まずさだった。
フルフル以外は表向き、オレに対して特に接し方が変わった様子はなかった。金田さんとはまだ顔を合わせていない。彼女はいつもどおり、早朝からのフロントでオレは10時からのルーム清掃。彼女だけじゃなく、できることならアヤミ以外とは当分、誰とも顔を合わせたくなかった。しかし、

「スグルッチへ 直子より」

昼食を終えて部屋に戻ると、ベッドの枕元に置き手紙があった。
 午後からもずっと金田さんに出くわさなかった。どこかにいるには違いないが、まるで置き手紙だけを遺して忽然と行方をくらましたようだった。
「私はずっとあなたの味方です」―3時にルーム清掃が終ると、オレは独りで大浴場に浸かりながら金田さんの手紙を何度も何度も反芻した。別に何かを洗い流したくてこの時間帯に大浴場に入ったわけではない。ルーム清掃でやたらと汗をかいたりして大浴場に入りたい気分だったら、そうしている。
「私はずっとあなたの味方です」―彼女が看護婦を辞めて白樺湖に来てからオレと出会うまでの経緯、出会ってから今日までの日々についてつづられた三枚の手紙の最後には、そんな言葉がしたためられていた。そこで彼女が在日の家系であることを初めて知ったが、それは大した問題ではなかった。それより、どうして、「私はずっとあなたの味方です」なんて言えるのか?! 未曾有の痛みと苦しみが剥き出しのオレの胸を襲う。しかし、金田さんの小さな胸はもっと悶え苦しんでいるだろう。「暮らす場所が離れても」と続く手紙。

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彼女がこのアルバイトを辞めてここを去ることを、それは暗示しているのだろうか? その一文を読んだオレは欠落感を禁じ得ない。金田さんがいなくなる寂しさ。それもないわけではない。彼女との短い想い出が走馬灯のようにオレの瞼を駆けめぐる。しかし、それ以上に、彼女をここまで追いつめてしまったオレの欠落した倫理感、そして彼女の誤解が招く、オレの精神の空洞がそれだった。
「スグルッチがほかの女の子に癒しを求めた」と彼女は記すが、それは悲しい誤解なのだ。何度も言うが、金田さんにもアヤミにもオレは「癒し」など求めてはいない。オレがアヤミにマッサージをしてもらっていたから、金田さんはそう思ったわけでもないだろう。つまりは結局、彼女自身がオレに「癒し」を求めていることの裏返しなのだ。そこにオレと彼女の決して埋まることのない深い溝がある。そんな誤解(あるいは意図的な誤解)に基づく、まるで真空管のような関係。初めからそのつもりだったのに、金田さんの手紙という形跡でそれが白日のもとに晒されると、胸が塞がる。しかし、胸が塞がるとは正しい行いをしている人間が抱く感想だろう。カントクの言う「誠実な人間」が。だから、せめて最後の最後ぐらいは、誠意を込めて金田さんに接しなければ。彼女の手紙に答えなければ。彼女の誤解を解いてもう一度、今度は完全な別れ話をしなければ。
 結局、その日は一度も金田さんと顔を合わせなかった。
「ネエさん、夕食にも来なかったよ!」
オレが部屋に戻るとカントクがそう告げた。
「かわいそうに。ご飯も喉を通らないくらいショックなんだね!」
おそらく、フロントに就く以外は貝のごとく自分の部屋に閉じ籠り、フルフルに慰められながら涙に暮れているのだろう。
「手紙、ありがとう。心して読ませてもらったー」
眠りにつく前、オレは最後のスカイメールを金田さんに送った。
翌日、お昼の三十分休憩で、オレは金田さんを訪ねた。夕方や夜中だと下手に長引いてそれがアヤミに知られたら、“ヨリを戻すんじゃ?”と彼女が疑心暗鬼になるのを用心したからだ。金田さんの部屋は2階の突き当たりにある。そこの非常扉を開けた階段の踊り場に彼女を呼び出した。壁に耳あり障子に目あり。リゾートアルバイトなんて、いつ誰がどこで目を光らせて聞き耳を立てているかわかりゃしない。だから手近かな場所で手短かにケリをつけるのだ。
「手紙、ありがとう」

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すでに深呼吸を済ませたオレは、最初の一言をそう切り出した。すると金田さんは緊張した面持ちを崩して語り出した。
「私ね、今日、スグルッチに呼び出されたとき、きっと別れ話なんだろうなぁって絶望的になったけど、それよりもスグルッチと久しぶりに二人っきりで会えるのがうれしくて。今も胸がドキドキしてるの。なんでだろうね? 別れ話をするのにね」
そんなふうに言わないでくれ。ただでさえ、かける言葉が見つからないのに。
「スグルッチの気持が私から離れていったのは仕方がないっていうか、最初から気持なんてなかったんだろうけど…」
「そ、そんなことは…」
「でもいいの。私はスグルッチのこと、これからも大好きだし。今日まで十分、幸せな思いをさせてもらったし。ホントはもっともっと、ずっとずっと一緒にいたかったんだけど…」
「―ごめん…」
「いいのよ。謝んなくても。謝るのはむしろ私のほうだから。せっかくアヤアヤと二人っきりで楽しんでるのを邪魔しちゃって」
「いや、そんな…」
「ただ、一つだけ言いたいのは、スグルッチはね、もっと思いやりを持ってヒトに接してほしいの」
彼女は言う。ほかに好きな女性ができたのなら、もっと慎ましくやってほしかったと。どうして私の傷口に塩を塗るように、これ見よがしにアヤアヤといちゃつかなきゃいけないのかと。それで私がどんな気持になるのか考えたことがあるのかと。耳が痛い。立派な原告側の正論。しかし、正論とは得てして現実離れしているもの。ましてやここはリゾートという現実とは別の世界。胸が痛い。いったいなんと言えば、彼女に優しく引頭を渡すことができるのだろう? 最期の最後でせめてもの思いやり。それは今の気持を正直に伝えることなのか、それとも…
「キミを裏切り、傷つけてしまったことは、いくら詫びても詫び足らないと思う。許してもらおうなんて思わない。どんなに恨まれ憎まれても仕方ないと思ってる。だけど、」
「―」
「オレはアヤアヤとつきあっていきたいと思ってるから」
その一言を告げた瞬間に、彼女は顔面蒼白になり、硬直した。
「それは、それは私に言うことじゃないよ」
「ごめん…」
「ヒドイよ…」
結局、ほかに相手ができてしまった以上、何をどう言ってもやっても思いやりに欠けてしまうのか…
「ごめん…」
「カッちゃん、スグルッチどこ行ったか知んねぇ? なんか見当たらねぇんだけど」

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非常扉の向こうで、前田とカッちゃんの声がした。これ以上の長居は危険だった。
「じゃあ、そろそろ時間なんで」と、オレは先に腰を上げた。
「―わかった。じゃあ…」と、彼女はうつ向いたままでオレを見送らなかった。
その日の夕方、いつもどおりフロントに出勤したオレは、職場の不穏な空気に背筋を寒くした。
「お疲れ様です」と型どおりの挨拶をしても誰一人として型どおりに返してくれないのだ。気のせいか、みんながマイナスの眼差しをオレに投げかけているように感じた。それは気のせいではなかった。
「スグルッチ、オマエってやつはホントに…」
普段から血色の悪い支配人が、やたらと血相を変えてオレに迫ってきた。薄気味悪い笑みを浮かべているのはいつもどおりだが、それがやたらと引きつっているのが、やはり穏やかではない。それでオレは、この不穏な空気の訳がわかった。それでも何事もまずはしらばっくれてから。
「な、なんでしょう?」
「なんでしょうって、オマエってやつはホントに…」
バカの一つ覚えの支配人なので、オレは自ら言うしかなかった。
「金田さんですか?」
“そうだよ!”と支配人が目配せした先には、事務所の一番奥にあるロッカーを前に、真っ赤に腫らした目頭をハンカチで押さえる金田さんがいた。
その晩、このところの恒例に違わず、アヤミにメールで呼び出され、オレは彼女の部屋でコズコズと三人で過した。
それにしても、よくも金田さんは事務所でオレのことをぶちまけてくれたものだ。おそらく、あの手紙を読んだオレが、思い直して戻ってきてくれることに、彼女は一途の望みを託していたのだろう。その望みもあっけなく消え、怒りに狂った彼女は阿修羅と化してしまったのだ。おかげでオレは一躍、白樺湖の悪党になってしまった。
「スグルッチは悪人だから!」と、カントクがしばしば口にしてきたのが、これで晴れて公にも認められたわけだ。
「オマエってやつはホントに…まったく、もっと大人にならにゃイカン!」
金田さんをはばかりながら、支配人が事務所でそう言ってオレに説教をしたが、何をかいわんやだ!
「今まで何人バイトの女の子食ったかわかりゃしねぇ!」なんて言っておきながら、いざ実際にオレが同じことをすると、もっともらしい説教をしやがる。あるいは全部がハッタリだったのか?

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「スグルッチはヒドイ! 見損なった! 私は断然、金田ネエさんの味方だから!」
悪事千里を走る。一度表沙汰になったら最後、世間が勝手に騒ぎ立てる。リエリエが「反スグルッチ」の第一声をダイニングで上げたとカントクは言うが、それこそ自分のことは棚に上げて何をかいわんやだ! オレにフェラチオをしたのは言うに及ばず(たぶん記憶が飛んでいるのだろうが)、彼女はシンタローくんとつきあっているではないか!
「リエリエの本命は工藤くん」という大方の予想が見事に外れ、彼女はシンタローくんこと社員の中岡慎太郎といつの間にかこっそりとつきあっていることが、このほど公になった(あえて死語で例えれば、バサロ恋愛というやつだ!)。彼女の思わせぶりなのかこっちが勝手に思い込んでいただけなのか、とにかく、工藤くんにしてみれば“散々気を持たせやがってチクショウ!”と、悪態の一つもつきたくなるくらいのがっかりぶりだった(事実このところ、彼自慢の賄いにも精彩を欠いている)。しかし、問題は工藤くんを袖にしたことではなく、シンタローくんとつきあっていること自体なのだ。なぜなら彼には、上諏訪のアパートに住まわしているカノジョがいるからだ。しかも二匹のコブ付きで。軽井沢店に勤めていたときに仲睦まじくなったと人づてに聞いただけだが、いわく付きなのは間違いない。そういえば、リエリエが白樺湖に来てから、シンタローくんは上諏訪にめっきり帰らなくなったが、まさか彼の部屋で彼女とそんなことになっていようとは、まさに“お釈迦様でもご存知あるまい”だった。
「私たちのこと、とやかく言う人には言わせておけばいいよ! そんなに言うんだったら、自分たちだって激しい恋愛、してみればいいじゃん!」
早速、見えない風当たりを受けたのか、コズコズがいないときにアヤミがそう言った。その言葉に勇気づけられ、オレは世間の白眼視と金田さんへの罪悪感に耐えることができる。ただ、アヤミのその一言は逞しくもあるが、どことなく恐ろしくもあった。その恐ろしさはいったいどこから来るのだろうか…
「ネエさん、今度の花火大会の日を最後に辞めるんだってよ!」
アヤミの部屋に向かおうとするオレを呼び止めるように、カントクが言った。

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本当は明日にでもすぐ辞めたいと涙ながらに訴えるのを、支配人、副支配人格のミヤピー、イチサン、三船さん、工藤くん、シンタローくんにリエリエと、その場にいた全員で説得して引き止め、白樺湖の花火大会まで何とか続けてもらうことにしたのだと。カントクはあたかもオレの責任問題を言わんばかりの口ぶりだったが、それはお門違いだ。なぜなら、金田さんが職場で私情をぶちまけたのは明らかな反則で、社会人にあるまじき行いだから。しかし、オレはそのことで腹を立てたりはしない。なぜなら、古今東西、反則で成り立っている(あるいは成り立たなくなる)のが男女の仲だとオレは知ってしまったから。一旦リングに上ったら泥仕合はおろか、チェーンやサーベルの凶器攻撃で血まみれになってこそ男であり女であるのだ! それにそもそも、シンタローくんとリエリエに限らず、支配人だってミヤピーだって反則スレスレの激しい社内恋愛をしてきたはずだ。もっとも、支配人に言わせれば、「大人の反則」かもしれないが。
とにかく、金田さんが辞めることにオレの責任はない。責任はないが、罪悪感とは別の寂しさが募った。いつかはアヤミも同じようにオレのもとを去っていくのだろうか…と。 そのときオレの隣にいるのは誰だろうか…と。
“チュッ!”
そんな日は決して来てほしくない。白馬に戻ってノーマルヒルとラージヒルを爆発したとき、その日は訪れるというのに。
“チュッ!”
コズコズを凌いで玄関に出たオレとアヤミは、何度も何度もキスをした。せめてここ白樺湖にいる間だけは、覚めない夢を見ていたい。覚めない夢を。
物すごい物音がしてオレは目が覚めた。夜中の2時過ぎ、アヤミと玄関で別れてから小一時間が経っていた。どうやら隣の前田たちの部屋から聞こえてくるようだが、まるで米俵を放り投げたような地響きがする。中学生の林間合宿じゃあるまいし、枕投げなんていい加減にしろよ!と、オレは苦情を言いに扉を開けた。するとどうだろう、男衆の輪の中に金田さんがいて、いつから寮にあるかわからない巨大なペンギンのヌイグルミを投げ飛ばしたり蹴飛ばしたりしているではないか!
「あのさぁ、カントクもオレも寝てるんで、静かにしてくれないかなぁ!」
オレがそう言うと、金田さんは手足を止めて虚ろに殺気立った目付きでこっちを向いて睨んだ。

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その瞬間、きな臭い空気が流れて男衆の全員が息を飲むように沈黙した。金田さんは明らかに酔っぱらっている。というより、まるでラリっているみたいだった。そのままこっちに向かってきそうな勢いだったので、オレは扉を閉めて部屋に戻った。
それから約十五分後、再びウトウトし始めたオレだったが、足元に何かの気配を感じて再び目が覚めた。起き上がると心臓が止まりそうになった。
「ナ、ナオ、いや、金田さん?」
「そうだよ。私だよ」
刺される! とっさにそう察したオレは、ベッドから飛び降りた。カントクはいつものように爆睡している。
「どうしたの?」
「来ちゃいけなかった? 以前は毎晩のようにここに来たじゃない?」
「いや、いけないってことはないけど…」
やっぱりいけない。カントクの手前もあるし、何よりアヤミに知られたら厄介だ。金田さんは先ほどの暴動で相当なアドレナリンが出ているのだろう。その勢いで最後の乾坤一擲を食らわせに来たに違いない。刃物こそ持っていなかったが、目付きは相変わらずジャンキーだった。
ジャンキーにはジャンキーなりの対応をということで、とりあえず、廊下に彼女を連れ出した。
「私はねぇ、今度の花火大会が終ったら辞めるから」
「―聞いたよ」
「私はねぇ、ここを辞めたら、いっぱいやりたいことをやるんだから!」
「やりたいことって?」
「やりたいこと? それはねぇ、いっぱい遊んで、それから、いっぱい恋をして、アンタのことなんかきれいさっぱり忘れてやるんだから!」
やりたいことがなんだかわからなくて鬱屈していた彼女が、オレと別れたことでやりたいことがわかった。皮肉といえば皮肉だが、それも所詮、遊ぶとか恋をするとかたわいもないもの。つまりはオレとの関係もたわいのないものだったのか?
「それからねぇ、今までアンタに縛られてほかのヒトとつきあうことができなかったけど、この際だから、辞めるまでだけど、ほかのヒトと遊びまくってやるんだから!」
「オレに縛られていた」とは人聞きの悪い。自分で勝手に縛っていただけじゃないか。それに彼女が誰とつきあおうと遊ぼうと、もはや(初めから)知ったこっちゃない。
「黙ってないでなんとか言ったらどうなのよ?!」
「―ゴメン…」
それしか言葉が出なかった。ジャンキーの彼女が哀れだったし、彼女を哀れむオレ自身も哀れだったから。

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すると彼女は多少、まともな目付きに戻って言った。
「スグルッチ、アンタはねぇ、たしかにおもしろいよ! アンタ以上のヒトはなかなかいないよ!」
「そんなことはないよ」
カントクには悪党だとか色男だとか言われ、金田さんにはおもしろいとか頼もしいとか言われる。もはや笑うしかない。
「何ニヤニヤしてんのよ?!」
「いや…」
「私はねぇ、ホントはアンタと別れたくないんだから。わかってんの?」
「―わかってます」
「じゃあなんで別れんのよ?!」
「―ゴメン。実はオレ、」
非現実的世界のジャンキーが相手なら、この際、しゃべっても構わないと思った。それに「ゴメン、ゴメン、」で逃げ切ってしまうのは卑怯だと、今さらながら思った。いや、今さらだからこそ、謝罪だけでなくきちんと説明責任を果たそうと思った。それが金田さんへのせめてもの罪滅ぼしだと。
「実はオレ、リゾートアルバイトに来たのはやりたいことがあったからなんだ。それは白馬でなんだけど、それがいきなり白樺湖に来ることになって。だから冬に白馬に戻ってそのやりたいことをやり遂げるまでは、つまり、ここ白樺湖にいる間は成り行きに任せるっていうか、波が来たら波に乗りたいっていうか、」
ここまでしゃべってみてオレは我ながら、なんだかおかしなことに気づいた。もともと金田さんに手を出したのは、いや、彼女の手出しを許したのは、たしかに成り行き任せに近かった。近かったというのは、成り行きに任せた動機が、金田さんが長野オリンピックでの白馬でのあの彼女の穴埋めになり得るかもしれないという魚心に水心だったからだが、そもそも現実と決別しようとしている人間が過去の穴埋めをする必要があるだろうか? 現実とは別世界だと言っているここ白樺湖で、非現実的な波に乗って過去に白馬で起こった現実の穴埋めをする。まったく、おかしな話ではないか?!
「スグルッチの白馬でやりたいことって何?」
「白馬でやりたいこと? やりたいことは、ノーマルヒルとラージヒルを爆破することかな!」
相手がジャンキーだったから言ってみた。ジャンキーが相手なら、この際、景気づけにちょうどいいと思った。すると彼女は、
「―スグルッチって、」と健常者の目付きに戻ってオレを凝視するではないか。やはりマズかったか?
「―なんて、もちろん冗談なんだけど」と言おうとしたら、
「スグルッチってやっぱりおもしろいね!」

<< 136 >>

と彼女が満面の笑みで言った。それはリネン室で最初の別れ話をする直前に見せたとき以来の笑みだった。
「ねぇ、スグルッチ、」
彼女は満面の笑みに真剣味を増して言った。
「今ならまだ間に合うよ! 今なら私、スグルッチのこと許すから!」
もはやジャンキーではない。いや、ジャンキーだからこその迫真なのか?!
「今しかないよスグルッチ! じゃないと私、ホントにもう行っちゃうよ!」
戦争は一度始めたら泥沼にはまっても途中でやめられないように、一度裏切ったらとことんまで裏切るしかない。悩むまでもないことだが、彼女のこの健気さをどう断ればいいのか? 悩めば悩むほど彼女を傷つけ、自らの首を絞めることになる。
「ごめん。」
「―」
「ごめん。それはできない。このまま波に乗らせてくれ!」
それが本音だった。三十路を前にした男子の言うべきセリフではないが、初めてまともな本音で彼女に相対したので、オレはいたたまれなさで顔を伏せた。すると彼女は、
「スグルッチらしいね! スグルッチらしいよ!」と悲しそうな笑顔でオレの肩を抱いて頭を撫でた。「オレらしい」とはいったい何を言うのか? そもそもオレは自分らしさなんて初めから持ち合わせちゃいない。彼女はオレの何を知っているというか?! 彼女のこういう「理解」が怖くてならなかった。
「オッ、二人ともなんか深刻な感じじゃん?!」
前田が廊下に出てきて冷やかすように言った。さっきまでの暴動で、金田さんが彼らにオレのことをどこまでしゃべったのか知らないが、お調子者の前田が、この目撃談をよそでうっかり口にしないとも限らない。それが万が一、アヤミの耳に入りでもしたら…
「いや、別に深刻でもないけど。じゃあそろそろ寝るから」と、オレはお茶を濁して立ち上がった(結局、最後はいつもこれだ!)
「さようなら。ホントに…」
ベッドに戻ってまもなく、金田さんから最後のスカイメールが届いた。
翌日から金田さんは、本当に人が変わったようにほかの男子と遊び歩いた。この機に乗じて安川くんが彼女に告白するというハプニングもあったが、オレともアヤミともその後は平穏無事だった。この一週間、緊張感に苛まれっぱなしのオレだったが、アヤミはもっぱら強気だった。

<< 137 >>

彼女と二人でいるときに金田さんと顔を合わせたときなど、オレは逃げ出したくなるほど狼狽するのに、アヤミはあえて金田さんに見せ付けるかのように、オレに腕を回して頭をもたげかけたりするので、オレには怖いくらいだった。

2002年8月10日。白樺湖の花火大会はあいにくの濃霧に覆われた。まるで摩周湖かと見まがうほど、真っ白で真っ暗な湖畔に打ち上げの快音だけがこだまし、見えない花火で夜空が地味に色づくばかり。この奇妙な光景を、オレはアヤミの部屋から彼女と二人で眺めた。ほかのみんなはシゲさんも引き込んで、金田さんの送別会がてら湖畔で花火観覧に出かけた。もちろん、オレたちは呼ばれなかった。
“金田さんはどんな思いで、この見えない花火を眺めているのだろう…”
そんなことをちらっと思いつつ、オレたちは仲間外れの勢いに任せ、初めてまともにセックスをした。

金田さんが去った。みんなに見送られて涙ながらに西白樺湖のバス停を後にしたことだろう。この日はちょうどアヤミと二人で休みだったので、オレたちは金田さんの顔を見ることもなく、朝一番で霧ヶ峰から美ケ原へと出かけた。お盆のこの時期、霧ヶ峰は花盛りを過ぎていた。ニッコウキスゲがきれいさっぱりと姿を消した高原は、秋を受け入れずに早くも冬の気配を漂わせていた。一ヶ月前に金田さんと見た満面のニッコウキスゲが懐かしい。花の中で始まり花の中で終る白樺湖の一日。金田さんが去りニッコウキスゲが消えても、オレの覚めない夢は続く。

金田さんが去って誰にも気兼ねなくアヤミに会えるはずだった。
「今夜もあちらですか?」と、カントクのやっかみは相変わらずだが、今やこれは挨拶代わりのようなもの。それでも、
「今頃、金田ネエさんはどうしてるだろうね?」などと折りに触れては言うので、ぶん殴ってやりたいときもある。しかし、カントクを敵に回すことになるので、それはできない。
「アヤアヤとだっていつまでも蜜月が続くと思ったら、大間違いだからな!」
カントクの機嫌を損ねるような言動をオレがすると、彼はしばしばそう言う。どういう意味だと迫れば、
「アヤアヤが知らないスグルッチのこと、つまりは金田ネエさんやクッキーのことをボクが全部、彼女にしゃべったっていいんだからね!」と脅迫紛いなことを言う。

<< 138 >>

オレとアヤミを引き裂こうというのか?! 上等じゃないか!! やれるもんならやってみろ!! それにしてもカントクは、そんなにオレのことが嫌いなのか?! いや、オレというより、うまくいっているやつが嫌いなのだろう。わかりやすい。こんなわかりやすいやつが映画監督になったら、日本の映画界はきっと復興するだろう。どうであれ、オレは好かれるのも初めてなら、ここまで露骨に嫌われるのも初めて。だから、カントクの反旗に戦々恐々とする半面、それが愉快でもあった。
カントク以上に厄介なやつが一人、いや、二人いた。まずは前田。
「スグルッチ来てる?」と毎晩、何かの口実でオレを訪ねるのにかこつけてアヤミとコズコズの部屋を覗きにくるのだ。お目当てはもちろんコズコズのほう。彼女にしてみれば毎晩、オレ一人だけでも迷惑千万なのに、ましてや前田はもってのほかだろう。彼が自分に気があることをすでに知っている彼女は、口には出さないで顔に出して欝陶しがっていた。初めのうちは断るタイミングを逸して成り行きで受け入れていたが、さすがにこうも毎晩だとうんざりだし、彼らしい調子に乗って引き上げる時刻が遅くなる一方なので、何かしらの手を打つことにした。
第一の手。アヤミの部屋ではなく、玄関の喫煙場所で彼女と二人きりになる。しかし、これだと前田だけではなく、誰かしら必ず(入れ代わり立ち代わり)やって来てオレたちの時間を妨害する。知らないはずがないのだから、気を利かせて一本だけ吸ったらさっさと立ち去ればいのに、三本も四本も吸ってもまだ居座るやつもいるから、オレとアヤミは痺れを切らせてコズコズのいる部屋に戻るから元の木阿弥。それにコズコズを部屋で独りにしておくのは危険。今のところまだ間違いは起こっていないが、オレとアヤミが部屋に戻ると、前田がちゃっかりと腰を下ろしていることがあった。コズコズはベッドの上で大学の書物に当たり、前田はあぐらをかいてそんな彼女を持て余すという気まずさだった。
「アヤアヤ、夜はなるべく部屋にいて! またマエピーに来られると困るから!」とコズコズに泣きつかれてこの手は無効に。
第二の手。オレがアヤミたちの部屋に行く時間を遅らせる。これだと「スグルッチに用がある」という口実は使えない。すると前田はオレの部屋に張り込んで、オレが動くのを虎視眈々とうかがう作戦に出た。

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22時に勤務を終えて戻ってくると、すでに彼がオレの部屋で待っている執拗さ。
「あれ、今日は下に行かないの?」
「うぅん、そうだねぇ…」
そんなやり取りで無駄な時間を過してしまう。そのうち、
「まだ来ないのぉ?!」とアヤミから催促のメールが入る。無益な板挟みに耐えられなくなってこの手も断念。
第三の手。これはアヤミの傑作なのだが、彼女の二段ベッドにシーツで寝台特急にあるようなカーテンを作り、前田が来たら、そこに隠れる(勤務を終えると自分の部屋には戻らず、アヤミたちの部屋に直行する。お風呂も着替えも彼女たちの部屋でする)。これはなかなか功を奏した。
「スグルッチ来てる?」
「いや、来てないよ」とコズコズが応対に出る。
「―何、あのベッド? カーテンが付いてんじゃん? アヤアヤが作ったの?」
「そうだと思う」
「あの中にスグルッチが隠れてんだろう?!」と言いたげな前田の口ぶり。それでも懲りずに彼はまたやって来る。
「スグルッチ来てる?」
「あぁ、私、今、寝てたから、スグルッチがこの部屋にいるかどうかわからない…」
いい加減、コズコズも投げやりな応対になってくる。
「いるかどうかわからないって、見ればわかるじゃん?!」
「そうだけど、私、わからない…」
「アヤアヤもいないじゃん?! 二人であのカーテンの中にいるんじゃないの?」
「そうかもしれないけど、私にはわからないんで…」
たしかにオレたちはこのカーテンの中にいる。このカーテンは思わぬ副産物をもたらした。前田だけではなくコズコズからもブラインドになるので、彼女が寝ているときでもこっそりとセックスができてしまうのだ。前田の闖入を凌ぐと、今度はコズコズが眠りにつくのを待つオレとアヤミ。息を殺して求め合う。思わず声を上げそうになるのはいつもオレのほうだった。コズコズは気づかずに眠っている。あるいは気づいて眠っているとしたら、見かけによらずの図太さだ。ひょっとしてアヤミがカーテンを作ったのは、初めから前田ではなくコズコズ対策だったのかも。
「スグルッチ来てる?」
前田はどこまでも懲りない。そんなにコズコズが好きなら、オレをダシになんかしないで、「コズコズに逢いにきた」と正直に言えばいいのに。どうせ知られているいることだし。しかし、それができないのが彼であり、そんな彼が(カントクと違って)憎めない。
「スグルッチ来てる?」

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憎めなくても迷惑なのは変わらない。最後には鍵を掛けて応答もしない非常(非情)手段に出ることにした。
「スグルッチ、いるんだろ? ちょっと用があるからスグルッチの部屋で待ってるから!」
ドア越しに前田は叫ぶ。戻ったら何を言われるかわからない。こうしてオレはアヤミとコズコズと三人で夜を明かすのが習慣になった。コズコズはさぞかし迷惑だったろう。

「スグルッチ、なんかズルくねぇ?」
「何が?」
「コズコズとアヤアヤの部屋って男子禁制なんかよ?! オレッチとかが行っても入れてくれないじゃん!? つーか、最近は返事もしてくれねぇし。電気がついてて声も聞こえるのに鍵掛けて思いっきりシカトされてるって感じじゃん!!」
前田の不満がついに噴出した。お昼休みにオレの部屋に乗り込んできて神妙な目付きで迫るのだ。
「オレッチとかカッちゃんとかはダメなのに、スグルッチは特別扱いなんかよ?!」
「別にそうわけでもないだろうけど…」
そういうわけなのだ。オレとアヤミの関係が知られる前から、彼女の部屋には引っ切りなしに誰かがやって来た。あのまじめな安川くんだって当初はアヤミ目当てにちょくちょく顔を出していたのだ。しかし、そこには必ずオレがいた。彼はしばらくしゃべった後、
「じゃあそろそろ。フゥッ…」と無念のため息をついて帰って行くのだった(アヤミを諦めて金田さんに触手を伸ばしたとしたら、彼は見かけによらず見境がない)。オレがプレゼンスを示すことで、二人の関係が囁かれるようになってからは、前田ともう一人以外はほとんど近づかなくなったが、不満分子は彼らだけではないのかもしれない。とにかく取り急ぎ、前田にはガス抜きが必要だった。このまま放っておいたら何をしでかすかわかりゃしない。

「エーッ、それはちょっと勘弁ですよぉ!」
アヤミと相談の上、明日は四人の休みが重なるから(前田とコズコズは夕方からの出勤だが)、前田を誘って一緒にバイクで出かけようとコズコズに提案したのだ。当然、彼女は難色どころか拒絶反応を示した。
「そこをなんとか! 奉仕活動の一環だと思ってさ!」
「なんで私が奉仕活動なんか?!」
「大学でもボランティアの授業があるでしょ?」
「メチャクチャです!」
奉仕活動なんて前田が聞いたらさぞかし傷つくだろう。
「コズコズ、多分これが最初で最後だから。

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一度一緒に出かければ、コズコズが自分に気がないことを実感して諦めると思うよ」
「そうかなぁ? 調子に乗ってますます勘違いしそうな気が…」
アヤミの読みが正しいのかコズコズの読みが正しいのか、馬は放してみなきゃわからない。

「スグルッチ、なんかヤッタゼって感じじゃねぇ!」
慈善活動だとも知らずに、前田は天にも昇るような上機嫌でコズコズに誘われたことを伝えにきた。
「マジでいいなぁ! オレも明日休みにしてもらって一緒に行こうかなぁ!」
端にいたカッちゃんが羨ましそうに呟いた。
「ダメダメ! カッちゃん、バイク持ってないでしょ!」
「シンタローさんに車借りるから、五人で行こうよ!」
カッちゃんは意外に本気で、この後、支配人に明日の休みを掛け合ったから驚いた。彼に来られては元も子もないので、オレは前田と共闘してカッちゃんの試みを潰した。そして前田は大張り切りで、彼の愛車=カワサキZRXの整備に精を出した。
「そんなにタンデムシートばっかり磨いたってしょうがないだろ!」
それを見ていたカッちゃんがやっかんで皮肉った。
コズコズの慈善活動は一応、成功だった。のっけからまるで鯛を釣り上げたかのように浮かれていた前田に対し、彼女はまるでフグに当たったかのような浮かない顔つきで終始した。コズコズが怖がるのもおかまいなしに、前田はビーナスラインを爆走した。
「いやぁ、一晩整備した甲斐があって今日はキャブの吹けがいいねぇ!」
そんなことを絶叫したってコズコズにはわからない。調子に乗りすぎた彼は、霧ヶ峰インター手前の二段ヘアピンの突っ込みでブレーキングが遅れて危うくガードレールにぶつかりそうになる始末。まったく、危なくて見ちゃいられないが、オレとアヤミは得意のタンデムキスを繰り返しながら渦中の二人を追った。女神湖に来てもコズコズの顔つきは、この日の空模様のようにすっきりしなかった。このあたりから前田の顔色も曇ってきた。

「スグルッチよぉ、オレッチ、やっぱダメだよ…」
この日の終り、前田は露天風呂でため息交じりに嘆いた。女神湖でオレたちと別れた後、帰るついでに蓼科湖まで足を伸ばしてみようとコズコズに持ちかけたが、
「仕事に遅れるとマズイんで帰りましょう! 帰らせてください!」と突っぱねられたという。

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「コズコズ、やっぱ全然、オレッチに気がないよ! チクショウ、イイ感じになったら、途中の展望台でコクろうと思ってたのによぉ!」
それはご愁傷様。ちなみにオレたちは、そこで二回キスをした(茅野・諏訪のビュースポットを全部、キスで制覇することをオレは決めたばかり)。
「つーか、なんで気がないのに自分から誘ったのかなぁ?」
「さぁ?」
慈善活動だなんて口が裂けてもいえない。(そういえば、以前にはフルフルにカントクへの慈善活動をさせたことがあったっけ!)
「わかんねぇよなぁ、オンナって…」
オマエがわかりやすいだけだと思うが。
「もしかして、照れちゃって気持と反対の態度をとったとか? 女の子って得てしてそういうこと、あるよね?」
「さぁ、どうだろう?」
「そうかもしれない」なんて言ったら、コズコズの骨折りが水の泡になってしまう。「それはありえない」と言い放てば、前田がヤケを起こしかねない。若いってのは厄介なことだ!

そんな前田もコズコズも、8月末日で勤務を終えて帰ってしまうから寂しい。9月1日のホテルと周辺の観光地は、ゴールデンウィーク明けの5月6日とまったく同じ様相を帯びる。
「じゃあな、スグルッチ! アヤアヤとよろしくやりなよ!」
前田は結局、コズコズには手も足も出ず仕舞いだった。愛車のカワサキZRXのアクセルを吹かしながらそう言う彼に、不完全燃焼の顔色は隠せなかった。同じく、安川くんも失意の表情で愛車のヤマハXJRにまたがっていた。アヤミに相手にされず、失恋の間隙を突いたはずの金田さんにもフラれてオレの二番煎じもなれない散々な一ヶ月半だったことだろう。
散々といえばもう一人。
「どうもいろいろとお世話になりました。お二人とも末永くご円満に」
コズコズの別れの挨拶は、なかなか皮肉に富んでいる。そりゃそうだ。毎晩、ルームメイトが三十路前の変な男を連れ込んで、自分が寝ている傍らでセックスをされるは(最後のほうはオレに対して仕事でもそれ以外でも強気の言葉遣いをするようになった)、気違いじみた同級生につきまとわれるは。おまけに年寄りの豚のようなレストランチーフに毎回、チンプンカンプンな指示を出されるはで(「朝食を五分で食べろ」とカントクに命令され、かなりもめたことなど。ユニオンに加入した手前、きちんと三十分の食事休憩をとるべきなので、カントクのほうが間違っている。

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この一件で彼の不人気は女性陣だけでなく、男衆からも致命的になった。「じゃあ、どうやって忙しい朝を回せっていうんだ?!」と、ほかに誰もいないところでオレに悪態をついても遅い)二度とリゾートアルバイトなんてしたくないと思ったことだろう。三人とも大学一年生なわけだが、それもこれも社会勉強の一つ、なんて絶対に思わないでほしい。こんなところでの経験なんて実社会ではなんの役にも立たない塵芥かうたかたの夢(三人にとっては悪夢か??)にすぎないのだ。コズコズに悪夢を見せた罪を痛感することもなく、彼女が去ったこれから、オレたちはまた別の一人、いや、二人に悪夢を見せることになる。

「アヤアヤとだって、いつまでも蜜月が続くと思ったら大間違いだぞ!」
カントクの放言に反し、オレたちは本格的な蜜月に入った。コズコズの抜けたアヤミの部屋で同棲を始めたのだ。支配人が見回りにくる万が一に備えて荷物と着替えだけは自分の部屋に残しておいたが、アヤミの部屋にセッティングされたダブルベッドを(二段ベッドを半日がかりで分解してこしらえた)見られてしまえば、言い訳のしようがない。実際、たまたまちらっとオレたちの部屋を覗き、
「あれっ、あのダブルベッドって…」などと白々しく言うやつもいた。
「完全に引越しちゃえばいいのに。どうせ支配人だって気付いてんだから」
着替えに戻るたびにカントクが嫌みったらしく言う。そのとおりだと思うが、一応の建前を整えておくべきなのだ。
「ヘッ、何が建前だよ!? 聞いて呆れるぜ!! 建前を通すんなら、金田ネエさんを棄てずにアヤアヤを日蔭の存在としてつきあうべきじゃなかったのかい?! そういうのをご都合主義って言うんだよ!!」
ご都合主義でけっこう。さっさとアヤミの部屋に引き上げよう。
「まっ、ボクには関係ない話だからどうでもいいけどさ。それにスグルッチが出ていってくれたおかげで、この部屋を心置きなく使えるわけだからさ。あー、清々する!」
心置きなくオナニーでもしてくれよ!
オレとアヤミは文字どおり、一心同体となった。彼女は片時もオレを放さなかった。お昼休みのわずかな時間でもオレに抱きついて首筋にキスをし、乳首を吸い股間をむさぼった。おかげでオレは昼間っから悶絶の悲鳴を上げてしまう。夜はもっと激しい。お風呂から上ると、すぐにオレをベッドに押し倒して攻めるは攻めるは。

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そのうち、お風呂から上るのも待てなくなって浴室に侵入してきてはオレの入浴をじっと眺めているかと思うと、いきなり着の身着のままでオレに襲いかかる。
「イヤッ! ダメッ!」
「大人しくしろ!」
彼女の服を脱がせようとオレは応戦する。風呂場での取っ組み合いはベッドまでなだれ込み、グラマラスなだけでなく腕っ節も強い彼女に結局、押し倒されて手足の自由を奪われる。
「あっ、ちょっと、ギブギブ!!」
「ギブ? ギブ?」
「ギブギブ!! もうやめて!!」
「もう二度と抵抗しない?」
「しませんからヤメテ!!」
乳首と(特に右側)亀頭の上っ面を舐められると、オレは自分じゃなくなるくらいに悶絶し絶叫する。初めのうちは隣の工藤くんとワカちゃんの部屋をはばかってこらえていたが、継続は堕落なり、まもなく、どうでもよくなって夜中でもお構いなしに叫ぶは叫ぶは。

「オッ、キスマーク!?」
「えっ??」
うっかりキスマークをつけたままフロントに出勤して支配人に大目玉を喰らったこともあった。
「けしからん! いやしくもサービス業に携わる者が! お客さんに顔向けできないだろ?!」
「いや、これは猫が夜中に入ってきて引っ掻かれまして…」
「で、その猫はどうよ? いいカラダしてんだろ? 毎晩激しいの? 知ってんだぞ、同棲してるの」
「いや、まぁ、なかなか…」
「けしからん! 模範となるべき最年長のオマエが不純異性行為とは! ほかの入寮者に示しがつかんじゃないか! 厳重注意だな! ヒヒッッ!」
今さら示しも何もあったもんじゃないだろうに。
キスマークの不祥事はまたたくまに広がり、オレはますます白い目で見られるようになった。しかし、限度を知らないアヤミは、
「フフッ!」とメヒョウのような笑みを浮かべ、ますます激しくオレの首筋に吸い付いた。
「ちょっとヤバイって! また支配人に叱られちゃうよ!」
「―よし、上出来!」と、彼女はオレの首筋を離して目視すると、
「こうすればバレないから!」と、彼女のファンデーションをオレの首筋に塗りたくり、オレをフロントに送り出した。

白樺湖の秋は駆け足でやってくる。日々、色づいてゆく蓼科山麓の湖畔を眺めながら、オレは一日中、工藤くんと寮の改装作業に携わった。9月に入った途端にお客さんは激減するので、通常の業務では人が余る。そこで、このような珍しいシフトもしばしば組まれる。

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工藤くんと一緒に仕事をするのは実に久しぶりだったが、正直、オレは気まずかった。クッキーと金田さん、彼が仲の良かった二人を立て続けに放逐してしまったこと。毎晩、隣の部屋で耳障りな絶叫を聞かせてしまっていること。缶コーヒーで一服した折りを見て、オレは恐る恐る彼にうかがってみた。
「まぁ、たしかに聞こえるちゃ聞こえますけど…」
やっぱり…恥ずかしい…穴を掘ってでも入りたいくらいだ。
「でもまあ、ボクはそんなに気にならないですけど、ワカちゃんがねぇ…」
ワカちゃん。赴任早々、アヤミにストーカー騒動を起こしてオレに一発張られた彼にとっては、相当悩ましい騒音だろう。
「聞こえる! 聞こえる!って、ここだけの話、毎晩壁に張り付いて聞き耳を立ててますよ!」
「すみません…」と言うしかなかった。
「いや、まぁ、これはもっとここだけの話ですけど、声が漏れてくるのは、何もスグルッチたちばかりじゃないですから」
「というと?」
「ほらぁ、だって、」
反対側の部屋ではシンタローくんとリエリエが同棲しているから、と工藤くんは皮肉な顔つきで言った。
「むしろ向こうのほうが気になりますよ! だってねぇ…」
なるほど。工藤くんにとっては悩ましいどころの騒ぎじゃない、悪夢の毎晩だろう。
「だから二人とも開き直って、ときどき、それぞれが同時に右側と左側の壁に耳を付けて聞き合いっこをしてますよ。端から見たらかなり滑稽な光景ですよ。これは」
たしかに。コントにでもなりそうだ。
「それにしても、ボクたちの境遇はなんだろうなって思いますよ。これが世にいう負け組ってやつなのかって」
何をおっしゃいますか、工藤くん。近経を修めたキミが「勝ち組・負け組」なんて言葉を易々と。それに、カントクにも言いそうになったが、そもそもこんなところで働いている時点で、誰もが立派な負け組じゃないかと、オレは工藤くんに言ってしまった。
「じゃあスグルッチもアヤアヤも負け組だと?」
「負け組だね!」
「じゃあ、シンタローさんもリエリエも?」
「負け組でしょ!」
オレがそう言うと、工藤くんは少しだけ相好を崩して言った。
「なるほど。みんな負け組ですか。それでスグルッチは、アヤアヤとは今後、どうするんですか?」
「それは、」
白樺湖が終ればそれでおしまい、と言うべきだった。
「どうなるんだろうね…」

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それからしばらく、オレと工藤くんは黙ったままだった。半袖には肌寒い夕方のそよ風が、二人を吹き抜けた。

一人、また一人と気づいたらアルバイトがいなくなってゆく9月。毎年第一土曜日は諏訪湖の花火大会の総決算となる「全国新作花火競技大会」が催される。その日に帰ることが決まったのはフルフルだった。郡上八幡からご両親が彼女を迎えにきて一緒に花火大会を見て帰るという。
アヤミとの関係が明るみに出てからというもの、フルフルとはまともに口をきくことがなくなっていた。金田さんの惨劇を日夜、目の当たりにする羽目になった彼女は、どんなにかいたたまれなかったことだろう。そう思うとオレは自ずと彼女を避けるようになり、彼女もオレを避けているようだった。それでも彼女がオレを気にしているのは知っていた。寮やホテルですれ違うと、彼女は何か言いたげな眼差しを向けてからオレに背を向けるのだ。
「何、スグルッチ? 何か言いたいことがあるなら、はっきり言いなよ!」
言いたいことがあるのはオレのほうなのかもしれない。ある日、夕方の館内巡回のとき、リネン室でフルフルにばったり出くわした。お客さんに何か用事を言いつけられて来たのだろう彼女に、「お疲れ様」以外の言葉をかけたくてわずかに立ち往生してしまったのだ。
「何? スグルッチ、」
一度目は訴えるように、二度目は諭すように彼女は言った。
「いや、別に…」
本当のところ、彼女がオレのことを、オレとアヤミのことをどう思っているのか聞きたかった。フルフルはアヤミとも見えない距離を置いて接していた。敏感なアヤミのことだから、そんなフルフルとの距離感に気づいていても表向きはなんら変わることなく接していた。平穏無事。しかし、それは嵐の前の静けさのようにも思えた。最後の最後でフルフルがアヤミに何かをけしかけるのではないか。オレは二人の姿が見えないと”まさか?!”と、いつも生きた心地がしなかった。
フルフルの有言無言のプレッシャーにたまりかねたオレは、彼女が帰る前々夜に彼女の部屋を訪ねた。
「ちょっと話したいことがあって」
すると彼女は意外な微笑で、オレを迎え入れてくれた。
フルフルと膝をつき合わせてしゃべるのは、彼女がここへ赴任して間もないころ、独りで部屋にいるオレを訪ねてきたあのとき以来だった。あのときは彼女を押し倒すことばかり考えていた。

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フルフルを押し倒せば、現実と決別する起爆剤になると。しかし、図らずも起爆剤はフルフルではなくアヤミによって引火した。それによって金田さんを死地に陥れ、オレ自身も大やけどを負ったことは言うまでもないが、フルフルだって痛手を負ったはずだ。うぬぼれでもいい。「カナダのカレシがいなかったらスグルッチとつきあいたいぐらい」という彼女の本気の冗談を、非現実的世界から現実を照らす一途の光明だと今でも思っている。その光明に現実への希望を託すことができたかもしれない。しかし、アヤミという正真正銘の非現実によってオレはそれを断ち切ってしまった。
「やっぱりそうだったんだ…」
金田さんとアヤミとのことを全部、改めてというか初めてフルフルにしゃべると、彼女も初めてというか改めて青色吐息でオレと向かい合った。どんなに激烈に非難され糾弾されるかと思いきや、彼女は意外な一言で答えた。
「―でも、いいと思う」
自分はたまたま金田さんのルームメイトだったから、彼女の肩を持たざるを得なかっただけで、ほかのみんなはどう思っているのか知らないけれど、自分はスグルッチとアヤアヤが一方的に悪者だとは思わないと。
「私、アヤアヤのこと、好きだよ。あの子、なかなかおもしろいから。それに、スグルッチのことも、ちょっとがっかりしたけど、好きなのは変わらないから」
フルフルに好きだと言われても、もはやよこしまな欲望は沸き起こらない。工藤くんもこないだの作業のとき、フルフルと同じことを言ってくれた。捨てる神あれば拾う神あり。いくらここが現実の別世界でも、この事実は事実としてありがたく受け止めようと思う。
「誰とつきあおうと別れようと、自分の信念に一途であれば、自ずと生涯のパートナーは決まってくると思うから」と、フルフルは言う。
「フルフルは、どんな信念でこれから?」
「私はカナダで就職して、ゆくゆくは今のカレシと結婚する。それが今の信念っていうか希望かな。スグルッチは? アヤアヤとずっとつきあっていくの?」
「白馬のノーマルヒルとラージヒルを爆破して現実と決別するのが信念だから、アヤミとは白樺湖が終ったらおしまい」などとやはり言えるわけがないので、工藤くんのときと同じように曖昧な返答になってしまう。そもそも、信念なんて所詮は絵に描いた餅、どうせ世の中も自分もままならぬ。

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カントクまがいのそんなニヒリズムをよしとしているオレだから、フルフルのような若くて美貌のくせに知性の持ち主が、信念に基づいて自らの道を歩んでいることに驚嘆し、尊敬の念すら覚える。
「また、お互い成長ときに、どこかで会えるといいね!」
彼女のようなすばらしい女性に少しでも好かれたのだから、もはや心残りなく白樺湖に幕を閉じ、白馬に戻ってノーマルヒルとラージヒルを爆破して現実と決別できるはずだ。
二日後、フルフルは笑顔で手を振り、白樺湖を去っていった。

「ねぇスグルッチ、ちょっと困ったことになったんだけど…」
フルフルを見送った寂しさと切なさで虚脱感にとらわれていたお昼休み、アヤミが浮かない顔つきで部屋に戻ってきた。なんでも、カッちゃんに、“今日の花火大会に一緒に行こう”と誘われたらしいのだ。
今はなき前田ともう一人の厄介なやつとは、誰であろう、このカッちゃんだった。彼がアヤミを狙っていることは、当初から勘づいていた。というより、入寮してまもなく、前田と三人で玄関で煙草を吸っているとき、
「オレ、アヤアヤのこと気に入ってるんだよねぇ!」と臆面もなく漏らしたので、それは間違いなかった。もちろん、そのときはまだオレとアヤミのことを知らなかったのだろうが、しかし、二人の関係が明るみに出てからも、彼は前田に便乗してちょくちょくアヤミの部屋に顔を出していたばかりか、前田とコズコズが帰ってからは単独でときどきアヤミを訪ねてきた。ただの無神経なのかそれともいい度胸をしているのか、とにかく、オレは彼が目障りでならなかった。オレは彼を恐れていた。前田と一緒で、彼もどこかおっちょこちょいで憎めないキャラクターなのだが、何分、ひいき目に見ればジャニーズ系のハンサムなのだ。女心と秋の空。アヤミがいつカッちゃんに気を移すとも限らなかったので、一瞬たりとも油断が許されないオレは、カッちゃんをアヤミに近づかせないようにこの一ヶ月余り、ひそかに腐心が続いていた。しかし、諏訪湖の花火大会の今日、彼はついに大勝負に打って出たというわけだ。
「それで、断ったんだろ?」
「それが…」
断るタイミングを逸してしまったとアヤミは言う。
「どうして”私はスグルッチと一緒に行くから”と言って断らないんだ?!」とアヤミを叱り付けてやりたかった。

<< 149 >>

きっぱりとそう言わないところに(何事もタイミングとフィーリングに委ねてしまうところに)アヤミの危うさがあった。彼女は公衆の面前で堂々とスキンシップを図ってくるくせに、「スグルッチとつきあっている」とは絶対に公言しなかった。それどころか、オレ本人に対しても「好き」だとか「つきあおう」だとかの、いわゆる「愛の言葉」を発したことは一度もなかった。毎晩、ベッドでじゃれあいながら、オレの耳元で甘い囁きのようなことをやる彼女に、
「何? 好き? オレのことが好き?」とけしかけると、
「好きじゃないよ!」とそっぽを向く。そうかと思うとすぐに向き直ってまたオレにカラダを絡めてくる。
「好き?」
「好きじゃないよ!」
正直、オレは不満だった。しかし、その不満を口に出すわけにはいかない。なぜなら、まるで言葉と気持をもてあそぶかのような彼女のそんな態度は、現実とは別世界のここ白樺湖においてきわめて真っ当な態度であり、まさにオレが金田さんに示してきた態度そのものなのだ。(するとオレが金田さんを棄てたように、いつかはオレもアヤミに棄てられてしまうのだろうか…)
ただし、アヤミとオレとは決定的な違いがあった。彼女はメールに取り付かれていた。関係を持って間もなく、朝晩の挨拶はもとより、面と向かっては絶対に口にしない甘く湿っぽい言葉を、ハートマークなどの派手な絵文字入りでまめに送ってくるのだ。実物の彼女とのギャップにオレは当初から戸惑い続けつつも、彼女に媚びを売るような絵文字で返してしまう。とにかく、彼女は躁でも鬱でも常にメールでしか自分の気持を表さなかった。だから実物の彼女とメールの彼女と、あたかも二人いるような錯覚に陥りそうだったが、イマドキの女の子は、あるいはこれが普通のスタンスなのかと、腑に落ちないながらも消化するしかなかった。
さて、話は戻ってカッちゃん。アヤミが断りきらなかったので、彼はさぞかし張り切って4時の仕事上りを待っていることだろう。しかし、そこはあいにくというか運よくというか、この日はオレとアヤミが揃って3時上りなので、カッちゃんが寮に戻ってくる前にこっそり出かけて彼をぶっちぎっることにした。
「スグルッチ、早く! もうすぐ4時だからカッちゃんが戻ってくるよ!」

<< 150 >>

“オマエがきっぱりと断れば、何もこんなにこそこそとせわしなくてもよかったのに!”と立腹しつつも、俊敏な彼女に感心し(いつもオレが後手に回る)、昼下がりの逃避行に胸を踊らせる。
“チュッ!”
無事、脱出に成功して白樺湖を背にしたオレたちは、いつものようにバイクを飛ばしながらキスをした。
“なんだよ、チクショー!!”と、今頃カッちゃんが半ベソで地団駄を踏んでいると思うと、それはそれは愉快だった。
諏訪湖の「全国新作花火競技大会」は、聞きしに勝るきらびやかさと賑やかさだった。上諏訪側の湖岸には自動車が数珠繋ぎの渋滞。車道以外はどこも足の踏み場もないほどの黒山の人だかり。そんな中をかい潜り、なんとか場所を確保したオレたち。
花火の打ち上げ場として作られた諏訪湖の初島から、縦横無尽に打ち上げ仕掛けられる花火。山下清や原田泰治ら地元の作家が好んで描いたのが頷ける、桁違いのスケールと色彩。
“チュッ!”
頭上の花火と正面の照り返しでお互いの輪郭を明るく染めながら、オレたちは黒山の人目も憚らず繰り返しキスをした。
「ねぇ、スグルッチ、」
アヤミが珍しくまじめな目付きでオレに向き合った。
「私のこと、好き?」
「えっ?!」
アヤミにしてはありえないせりふが、とても唐突に投げかけられたので、オレは咄嗟に戸惑いながらも「好きだよ」と返した。すると、
「私のどこが好き?」と、さらにありえないせりふを続けたから、戸惑いは当惑に変わった。
アヤミはなぜそんなことを聞くのか? まさか彼女も金田さんのように、オレのことを真剣に考えているのか? この一言に下手に答えれば、オレの非現実的世界が瓦解しそうな気がした。言い換えれば、この一言にどう答えるかで、白馬で現実と決別しなければならないオレが、白樺湖の(今は諏訪湖畔だが)非現実を引きずってしまいかねないのだ。だから迂闊には答えられない。かといって気の利いた答えを返さないと、彼女の機嫌を損ねてしまう。
「どこがって、それはやっぱり、」
「乳房と唇」だなんて正直に言えるわけがないので、
「性格かな…」と、ちっとも気の利かない返答をしてしまった。
「性格って? 例えば?」
「例えば、明るいとことか、積極的なとことか」
明るくて積極的な女の子なら、何もアヤミに限ったことではない。

<< 151 >>

今はなきクッキーしかり、そんな女の子は星の数ほどもいる(それだけが取り柄の女の子も多い)。
「ほかには?」
「ほかには、意志が強そうなところとか…」
我ながら、なんて優等生的な答弁だろう!(そういえば、金田さんの討ち入りに遭ってアヤミとリネン室で向かい合ったときも、オレは優等生になった。優等生とは平気で嘘がつけることなのか?)これじゃあアヤミも納得しないだろう。
「―そうなんだ…」
アヤミは神妙な面持ちでオレを見つめた。ここが現実と非現実の分水嶺だと覚悟した。しかし、
“チュッ!”
アヤミはオレの膝に乗っかって胸に身体を預け、首に腕を回してキスをしただけだった。それはいつもと変わらない彼女だった。
「アヤミはオレのこと、好きか?」と聞き返そうかと思ったが、やめた。どうせ、「好きじゃないよ!」と不敵な笑みを見せるのが落ちだから。そんなやぼなやり取りをするくらいなら、このカラダの温もりとクチビルの潤いを味わい尽くしたい。今、オレの頭上に開花して散ってゆく諏訪湖の打ち上げ花火のように、最後の非現実の夢を、はかなくも燃やし尽くしたい。
“チュッ!”
クライマックスに向かってスケールを増す花火を浴びながら、オレたちは小さなキスを繰り返した。

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第四章白馬編 悪夢

-153-

オレは五人目の女の子を連れて白馬に戻ってきた。しかし、彼女はまるで手のひらを返したように、オレに冷たく接するようになる。逆上したオレがとった行動は…

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白馬の冬は完膚無きまでの雪に閉ざされていた。「三度山に雪が来れば次は里に降る」といわれ、12月の半ばを過ぎると周囲の峰峰から麓の村々まで一面、白銀の雪景色が広がる。糸魚川沿岸の日本海から北風に乗った冬型の気圧配置が北アルプスの峰峰で停滞するため、白馬の冬空に一日中太陽を拝める日は極めて少なかった。


12月。オレは待望の白馬に戻った。ホテルパイプのけむりは、ゲレンデがオープンを迎えても、例年にも増して(減らして)集客の出足が悪く、オレたちアルバイトは一日中ユニットバスの配管を掃除するなど、通常ではない業務が続いた。
「ハァーッ、いつまでこんな作業をやらせるつもりなんだ?!」
オレの隣でそう悪態をついたのはカントクだった。彼は白樺湖を終えると待望のインドに旅立つはずだったが、9月に入ってから工藤くんと二人で茅野・諏訪のうまいもの食べ歩きに明け暮れたため(「負け組二人のやけ食い紀行ですよ!」とカントクは自らを揶揄していた)、資金が足りなくなってここ白馬店で引き続き勤める羽目になったのだ。
「オッ、スグルッチ、まじめにやっとるか?! さぼっとったら減給だからな、ヒヒッッ!!」
そう言ってオレたちの作業を見回りにきたのはハツカネズミの支配人だった。彼はこの12月で白馬店に転勤になったのだ(だからカントクもこっちに来た。違う支配人では雇ってもらえないかも、とハツカネズミに脅されて)。
「なんだよ、支配人のやつ、相当暇なんだな! まったく、やってらんねぇぜ!」
白馬に来てもカントクの悪態は健在だ。お客が入らなければ、館内のボイラーは止まったまま。昼間は照明もまともにともらない。オレだって悪態の一つもつきたい気分だった。
オレは白樺湖の非現実をを引きずったまま、ここ白馬へ来てしまった。それは何もカントクとハツカネズミの支配人との腐れ縁のせいではない。作業の手を止めたオレは、また客室の窓から、ノーマルヒルとラージヒルが立つ南の方角を見つめた。

白馬に戻ってから毎日、オレはジャンプ競技場に足を運んだ。あるときは深々とあるときは濁々と降り注ぐ真っ白な雪に紛れ、白銀のカクテルライトに照らされたノーマルヒルとラージヒル。二つのジャンプ台は八ヶ月前と何も変わっていなかった。
この八ヶ月で変わったのはオレ自身だった。
オレは後悔していた。ここ白馬に、アヤミを連れて来てしまったことを。


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白樺湖を終えたのは10月1日。この日がアヤミとの別れの日、非現実の夢から覚める日、のはずだった。その日が刻一刻と迫って断腸の思いを隠せないでいたオレに対し、アヤミはあえて言葉を慎むように接していた。だから彼女もそのつもりでいるとばかり思っていた。しかし、
「スグルッチ、これ、受け取って!」と、西白樺湖での別れ際、彼女は、親指と人差し指で摘めるほどの石ころのようなものをオレに差し出した。
「これは?」
「これはね、」
アヤミは言う。つがいで磁石になった小石なので、お互いにこれを持っていれば引き合うから絶対に離れ離れにならないと。
「財布とかに入れて肌身離さず持っていてね!」と、アヤミは自分の磁石を財布に入れてみせた。
「それから、これ、」と、ニッコウキスゲがいっぱいに写っている霧ヶ峰の絵葉書をオレに手渡した。それは車山肩のコロボックルヒュッテで、二人で買ったときのものだった。
「ダメッ! アヤミが帰ってから見て!」
裏面を読もうとするオレを、アヤミはそう言って照れながら遮った。正直、オレは衝撃を受けた。新潟港(小樽および苫小牧行きのフェリーが就航)まで見送りに行こうかというオレの提案を頑なに拒んだ彼女が、最後の最後でこんなサプライズを用意しているとは。
「じゃあね。スグルッチ!」
茅野駅行きのバスがいつまでも来なければいいと思った。しかし、定刻どおりに西白樺湖のバス停に入線してきた。彼女が乗り込む間際、オレたちは人目も憚らず抱きしめ合った。ずっとずっとこのままでいたかった。

「スグルッチと出会えたこの三ヶ月足らず、短い間だったけど、とても充実して過ごせました。スグルッチがいてくれたおかげで、情緒不安定な私には、かなり救いになりました。これから先はまだどうしたいのかはっきりわからないけど、二人で話し合って最善の結論を出そうね。じゃあね! 大好きだからね!」
アヤミが去った後、オレは寮のベッドで(久しぶりにもとの部屋に戻った)何度も何度も彼女の絵葉書を読み返した。
「なんだい、スグルッチ?! まるで廃人みたいじゃないか?!」
カントクの冷やかしにも耳を貸さなかった。そして読めば読むほど、彼女の真意がどこにあるのかわからなくなった。
思えばアヤミは奇妙な女の子だった。

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なぜ、わざわざ札幌から長野くんだりまでリゾートアルバイトに来たのか、自分はこれまでどんな人生を歩み、これからどんな人生を歩もうとしているのか、自分はどんな女性なのか、アヤミがまじめに語ることはほとんどなかった。ただし、出会って間もなく、彼女は札幌に彼氏を残してきたことを明かした。それなのに、オレとあらぬ関係に陥った。そして陥ってからも、
「微妙…」と漏らしつつも、彼氏との関係は続いていたようだった。しかし、彼女のオレへの求愛は毎晩、常軌を逸する一方だったので、
「白樺湖が終ったらどうする?」と、半分は探りを入れるつもりで、また半分は本気で彼女に尋ねてみた。すると彼女は、
「私はいずれ家族で海外に移住する計画があるんで、スグルッチとは長くは付き合えないから…」と視線を遠くして言った。だからこそオレも、現実とは別世界での関係だと割り切って、いや、彼女が初めから割り切っていたからこそ、オレは現実と決別する起爆剤として彼女とつきあうことができた。しかし、
「スグルッチ、私、スグルッチに伝えておかなきゃいけないことがあるの」と、白樺湖もいよいよあと二日で終りという朝、アヤミが居住まいを正してベッドの上でオレに向き合った。
「札幌のカレシとさっき、正式に別れたから」と彼女は言った。さっきとはメールでだろう。所詮、メールで別れたりする関係なんてたかが知れていると思いつつも、いつになく一途な彼女の眼差しにオレは胸が高鳴った。

「どうなるんだろうね? スグルッチとアヤアヤは。ボクの予想だとだと所詮はひと夏のアバンチュール。そうそう長続きするもんじゃないでしょ! ってゆーか、長続きしないでほしいね!」
カントクが嫌なことを言いやがった。
「またまたぁ! カントクはいまだにやっかんでんですかぁ? ちなみにシンタローさんは、このたび、こぶ付きの彼女と正式に別れてリエリエと正式につきあうようですよ」と工藤くん。彼のリクエストもあって白樺湖を発つのを一晩延ばしたオレは、久しぶりに三人で酒を酌み交わした。
「この夏の屈辱をボクは一生忘れないから!」とカントク。工藤くんの賄い料理の中でオレが一番の好物だった秋刀魚の天麩羅をオレへの送別としてこの日、再び振る舞ってくれた工藤くんの真心をオレは一生忘れないだろう。

「おはよう。今朝はこっちはすごくいい天気だよ。そっちも暖かい?」

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宇都宮に戻ってからも毎朝毎晩、札幌のアヤミからメールが届いた。たとえメールでも欠かさず、「おはよう」・「おやすみ」と挨拶を交す毎日はすてきだったが、いよいよノーマルヒルとラージヒルを爆破する具体的な準備をしなければならなかったので煩わしかったし(何しろ返信が遅れると不機嫌な絵文字が送り付けられるので)、終ったはずの非現実にいつまで引きずられるのかと当惑が甚だしかった。いっそのこと一切のメールを無視して自然消滅に持っていこうかと思った。しかし、
「よかったぁ。あんまり返信が遅いんで事故にでも遇ったかと思った。バイクに乗るときはくれぐれも気をつけてね!」なんてしおらしいメールが来ると、彼女が愛しくてたまらなくなった。結局はまた成り行きに任せるしかなかった。そしてまもなく、
「私も一緒に白馬に行ってもいい?」と彼女のメールが囁いた。


再び白馬の地を踏んでからというもの、オレは寸暇を惜しんではジャンプ競技場に足を運んだ。一週間以内に爆破を決行するつもりだった。必要な機材や爆薬は、前職の伝を使ってほぼ万端に揃えることができた(裏を返せば、オレはこの日のためにあえて発破・粉砕部門のある施工会社に四年間も勤めたともいえる)。しかし、12月を半月を過ぎた今日も、ノーマルヒルとラージヒルはオレの目の前に毅然とそびえ立っている。
「私も一緒に白馬に行ってもいい?」
アヤミの囁きになびき、オレは彼女をここへ連れて来てしまった。その囁きで、彼女のオレへの気持が本物だと思ったから。そう思った瞬間、白樺湖での半年が非現実ではなくなった。この世に本物などありゃしないと知っていながら。

「スグルッチ、その後、あの巨乳ちゃんとはどうなってんのよ? 最近、あんまりラブラブじゃないみたいじゃん? 喧嘩でもしたのか? ヒヒッッ!!」
「えっ?! いや、そんなことは…」
支配人に突っ込まれ、不覚にもオレはフロントで狼狽してしまった。

 10月1日に別れてから2ヶ月、ここ白馬で再会したアヤミは、白樺湖での彼女ではなかった。白樺湖では毎晩、彼女の部屋に呼んでくれたのに。一緒に煙草に行こうと誘ってくれたのに。ここ白馬に来てからは、オレのほうから水を向けても、
「今、ミネちゃんがいるから無理!」
「今日は寒いから行かない!」
そんなにべもない返事ばかり。

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しばらく途方に暮れてから、オレが独りで煙草を吸いに白樺ゲレンデに赴くと、アヤミがルームメイトのミネちゃんこと赤松峰子やほかの男子たちと楽しそうに煙草を吸っているではないか!! オレを見ても気まずそうな顔一つしない彼女。どうしてオレが彼女たちから一歩距離を置いて独りで煙草を吹かさなきゃならないんだ?!

 白馬でもアヤミは人気の的だった。彼女はここではフロントの配属になったが、すぐに仕事を覚えてそつなくこなした。同じフロントのリーダーこと神田カツノリやレストランホール担当のトシくんこと宮城トシユキなどがアヤミ狙いの容疑者だった。アヤミ自身もすぐに彼らと打ち解け、とても楽しそうに過していた。
 リーダーはボーイスカウトのリーダーをやっていたから”リーダー”で、リゾートアルバイトは初めての経験。トシくんはいわゆるボーダーで、数年前からこのパイプのけむりをシーズンの住み処としている。
「トシさんに可愛がってもらってます!」と、まるで兄弟の仁義を交したかような口ぶりで(長そうなものに巻かれたがるやつはどこにでもいる。白樺湖にはいなかったが)リピーターのアルバイトであるトシくんの腰ぎんちゃくになっているリーダーに嫌悪感を覚えたし、トシくん自体とは可もなく不可もなかったが、オレはボーダーとかリピーターとかにアレルギーがあったので正直、こんなやつらにアヤミを奪われてたまるか!!と、ことあるごとに、いや、ことがなくとも拳を握りしめた。
 こうなるとカードを切るしかなかった。白樺湖では決して切る必要のなかったカードを。
「えっ?! マジっすか??」
「えーっ! 意外ってゆーか信じられない!」
風呂場でフロントでベッドメイクの最中で、誰かと世間話をするたびにオレは、
「アヤミはオレのカノジョだから!」というステートメントを表明した。すると、誰もが目を丸くしたり鼻の穴を広げて驚くので、オレは憤慨した。このステートメントは両刃の剣だった。オレのプレゼンスを明らかにすることでアヤミを狙う面々への抑止力になることは確かだが、万が一、誰かがその抑止力を無視して横恋慕のあげくにアヤミと結ばれでもしたら、オレはとんでもない生き恥をさらすことになる。そう。まさに白樺湖で金田さんが曝したような。そこでカードの万全を期するため、オレはカントクにまた一役買ってもらおうと思った。

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白樺湖で酸いも甘いもともにした仲だから。
「ヤなこった! なんでオレがスグルッチの後方支援みたいなことしなきゃいけないんだよ?! ボクは自衛隊じゃないからね! まぁ、白馬錦の一升瓶を買ってきてくれるなら、考えてもいいけど」
“スグルッチとアヤアヤはつきあってるから”と、さりげなくプロパガンダをしてくれとカントクに頼んだが、悪し様に断られた(白馬錦の要求は無視した。たかり癖がつくのも困るので)。
「それに何が酸いも甘いもだよ?! 甘い汁を吸ったのはスグルッチだけじゃないか! キミのせいでボクがどれだけ白樺湖で苦汁を嘗めてきたと思ってんだよ?! おごれるものはひさしからず。この期に及んで悪あがきはみっともないって!」
さすがにそこまで言われる筋合いはないので、オレは思わずカントクの胸倉を掴んでしまった。
「ぼ、暴力はよしなよ! 日本は平和主義の国じゃないか!」
何寝ぼけたことを言ってやがる?!と思いつつも、
「悪かった…」とオレは鉾を納めた。するとカントクは気まずそうに言った。
「これはスグルッチには言うまいと思ったけど、アヤアヤがスグルッチのステートメントをひそかに否定して回ってるって、知らないよね?”私とスグルッチはなんの関係もないから”って」
その瞬間、オレは気絶しそうになった。


 12月24日。クリスマスイヴ。よもやここまで来て、この日の訪れを憂鬱に迎えようとは夢にも思わなかった。今日までの半生、オレは女の子とクリスマスを一緒に過したことはなかった。それは今年も変わらないはずだった。変わらないどころか、一切の現実と決別するためにここ白馬にやって来たオレにとって、クリスマスなどという世俗の祭事にはもはや関わりのないはずだった。しかし、アヤミをここ白馬に連れて来てしまったがために、現実にすり替わってしまった白樺湖の非現実を引きずったまま今日、オレはこの日を迎えてしまった。しかも、その非現実的現実に自らお墨付きを与えようと、
「アヤミはオレのカノジョだ!」と宣言してしまった。そこへ、白樺湖を知る支配人が気を利かせてオレとアヤミの休みをこの日に重ね合わせたのだ。こうなるとクリスマスイヴを彼女と一緒に過さないわけにはいかなかった。
「エーッ、私、みんなと一緒に滑りたいのに…」
「二人で一緒にスキーをしよう!」とオレが誘うと案の定、アヤミは嫌な顔をした。

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「みんなと一緒に」―白樺湖のアヤミだったらありえないせりふだ。こんな日和見主義者・迎合主義者になり下がってしまった彼女など、もはやこれまで、となるのが本当なのに、とりあえずはみんなでゲレンデに向かい、リーダーやトシくんに穏やかな睨みを利かせ、さりげなくオレとアヤミをみんなから分断するという苦肉の策に出てしまった。そして運よく最初のゴンドラで二人きりになれたが、苦肉の策は文字どおり苦肉でしかなかった。兎平の終点まで、オレたちは会話どころか目を合わせることすらなかった。久しぶりの晴天となったこの日、五竜岳と唐松岳、そして鑓・杓子・白馬の白馬三山、八方尾根を囲む峰々の純白な彫刻のような山肌と、絵の具を敷き詰めたキャンパスのような青空のコントラストが、筆舌に尽くしがたいほど美しかった。しかし、そんな青空がひび割れて真っ赤なヤプール人の魔の手が伸びてアヤミを連れ去ってくれないかと願うほど、内面のオレは屈託していた。
「私、疲れたんでそろそろ帰る」
お昼を過ぎた頃、アヤミがそう言ってオレから離れた。
「昼飯は? どっかで一緒に食べようよ!」
「いい! 賄い頼んであるから」
そう言ってアヤミは脱兎のごとく引き上げてしまった。そんな、賄いなんて殺生な! やはり最初からオレと過す気など毛頭なかったのだ。ピンチどころの騒ぎじゃなかった。このままでは先のステートメントが早くも張り子の虎になってしまう。アヤミをリーダーかトシくんに奪われてしまうのか?! なんとかしなければ。そうかといってこの場で、
「オレと別れるってのか? 別れるってのはすなわち死ぬってことだぞ!」などと”逆湯島の白梅”さながらの愁嘆場を演じるわけにもいかなかったので、オレは白樺ゲレンデ(パイプのけむり白馬店の鼻先にあるゲレンデはこういう名前。今や皮肉)の端っこで肩に粉雪を積もらせながら呆然と立ち尽くすだけだった。

どんなふうに 見つめたなら 伝えられるだろう
その笑顔を いくつも知りたくて

BoAの歌声がゲレンデのスピーカーから流れ、白銀にこだましていた。午後の3時を過ぎ、降る雪が増していた。オレは独り、白樺ゲレンデのカフェテリアでコーヒーを何杯も飲んでいた。とてもスキーをする気にはなれなかった。アヤミの部屋に押しかけて、
「オマエはホントにオレとつきあう気があるのか?!」と、白黒はっきりさせたかった。

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しかし、クリスマスイヴの昼間から、そんなみっともない真似はできない。ルームメイトのミネちゃんに見られたら、たちまち寮内に広まるだろう。そんなことになったら、先のステートメントは張り子の虎どころかレイムダックになってしまう。やはり恐れたとおり、オレのステートメントは自らの首を絞める羽目になった。しかし、アヤミをほかの男に奪われるのがもっと怖い。これからオレはどうしたらいいんだろう?

優しい春 眩しい夏 淋しい秋冬も
約束する キミの傍で眠ろう

アヤミと手足を絡めて眠りについた白樺湖が思い出された。BoAの歌声が切な過ぎた。

「あれっ? スグルッチ、こんなところで独りで何やってんですか?」
心ここにあらずで窓の外を眺めていたら、不意に誰かに声をかけられた。リーダーとトシくんだった。
「どうしたんですか? アヤアヤと一緒に滑らないんですか?」
さすがに痛いところを突かれる。これだからクリスマスイヴは嫌なんだ!
「いやぁ、アイツ、寒いとか疲れたとか言って先に帰っちゃったよ」
オレは苦し紛れがバレないように言った。
「えっ? だって今、向こうの名木山でマアくんと滑ってますよ!」
「えっ?!」
それを聞いた瞬間、オレはまた気絶しそうになった。
「マアくんと? 二人で?」
「いや、まぁ、マコッちゃんとウラえもんもいますけど」
マアくんこと荒木マサアキは、リピーターではないボーダー。社員志望らしいが、無口な彼は目立たない存在だった。一方、マコッちゃんこと内藤マコトはトシくんと同じリピーターのボーダーで、まもなく正社員になるという。社長以下、白馬の正社員に覚えめでたい彼は、寮長格の存在で、オレたちアルバイトの仕事ぶりを指導するばかりか私生活にもしばしばクチバシを入れる嫌なやつだったが、フランシスコ・フィリオにそっくりな風貌はハンサムの好青年で通っていた。ウラえもんこと浦田ノリコは同じくリピーターのボーダーでマコッちゃんのカノジョ。気品はなかったが、端正な容姿と活発な性格でなかなか魅力的な女の子だった。
 マアくんとアヤミが? まさか? 名木山の現場に向かう道中、オレはこれまでまったくのノーマークだったマアくんの存在を振り返った。彼は周りの連中とほとんど接触を持っていなかった。

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食事のときも独りで厨房で食べたり(彼はマコッちゃんらとともに厨房の担当)、どこへ行っているのか知らないが、夜はほとんど部屋になかったりと、そんなアウトローな存在だった。白樺湖でもそうだったが、喫煙場所がオレたち従業員の憩いの空間だった(社長の方針で、パイプのけむりの従業員は館内および寮内での喫煙は厳禁だった。聞けば、数年前にボヤを出したのがそのきっかけらしい)。トシくんやリーダーとアヤミが一緒にそこで煙草を吸っているのはときどき見かけたが、マアくんとは一度もなかった。むしろ、彼はそういった公共の場を避け、独り別のところで煙草を吸っている節があった。つまり、彼はアヤミとの接点がまったくなかったのだ。
“たまたまだろう?!”
オレは無言で繰り返した。たまたまアヤミがもう一度滑る気になって乾燥室で準備していると、たまたまマアくんやマコッちゃんたちと一緒になった。マコッちゃんとウラえもんはつきあっているから、行き掛かり上、アヤミはマアくん寄りになっただけ。そうとしか思えなかった。いや、そう思うしかなかった。しかし、
「マアくん、スゴイ!」
たまたまにしてはアヤミはやたら張り切って滑っていた。マアくんが生き生きとしているのも初めて見た(アヤミがいなくても、滑っているときはいつもこうだと思いたいが)。午前中のオレのときとはまるで別人のようなアヤミを目の当たりしたとき、オレは初めて彼女に憎しみを覚えた。
「ふざけんじゃねぇ!」と四人に割って入ってアヤミをぶん殴ってやりたかったが、ここで早まるわけにはいかない。前方にあるノーマルヒルとラージヒルを見上げて歯を食いしばったオレは、
「なんだ、来てたのかよ!」と白々しく四人の輪に加わった。顔面が引きつっているのが自分でもわかった。オレを見てアヤミが露骨に嫌な顔をした。マアくんはいつもの能面に戻り、マコッちゃんとウラえもんは気の毒そうな目付きでオレを見た。


 白馬に来る前から不吉な予兆がなかったわけではない。
「私も一緒に白馬に行ってもいい?」とアヤミのほうから囁きかけたくせに、再会の日が迫るに連れて彼女のメールが少なくなっていった。オレから送信しても待ちに待った彼女の返信は、
「元気だよ。じゃあまた」と、絵文字も写メールも何もない淡泊なものになった。彼女の気持が離れてしまったのは明らかだった。しかし、「大好きだからね!」

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と絵葉書で言ってくれたこと、つがいの小石を渡してくれたこと、そして彼女のほうから白馬に一緒に行きたいと囁きかけたことで、オレは彼女を本物だと信じて疑わないことに決めてしまった。一度決めたら後には引けなかった。現実と決別しようというオレがなんて保守的なんだ!?と、我ながら愕然とするくらいだったが、アヤミの遅延行為はオレへの気持が安定期に入った証だと自らを励ました。安定は停滞から衰退への始まりだと知っていながら。
 そもそもアヤミは白樺湖のときから本当にオレのことが好きだったのか?
「大好きだからね!」と絵葉書では言ってくれた。メールでは派手なハートマークを飽きるほど送ってくれた。しかし、面と向かって「好きだよ」ないし「つきあってほしい」の言葉は一言も発していなかった。照れ屋だからと取れなくもなかったが、本当は好きでもなんでもないんじゃないか? 好きでもないが、とりあえず、キープしておく。オレが金田さんに対したスタンスと似たり寄ったりではなかったか?
 それでは壮絶の極みだった毎晩の求愛はどう解釈すべきか? ダジャレを言うつもりはないが、あれは求愛ではなくて「吸愛」ではなかったか? なぜなら彼女はオーラルプレイ一辺倒で、オレからの愛撫や挿入に対しては淡泊なばかりか、
「ダメッ!」と、オレの執着を遮ったり、
「もういいよ! 飽きた!」と真っ最中に切り上げたりがしばしばあった。だから、彼女はオレからオンナの喜びを得たことはなかったはずだ(ゆえに、オレたちの情事は壮絶であっても濃密ではなかった)。
「スグルッチには性的魅力を感じないの!」
酔っぱらった彼女が思わず漏らしたことがある。オレはあまりにもショックで言葉を失うばかりか、思わずニヒルな笑みを浮かべてしまった。アヤミは咄嗟に”シマッタ!”というような顔をしたが、すぐに猫に戻ってオレにしな垂れかかった。
「冗談じゃねぇぞ!」とアヤミを突っぱねてやりたかったが、これが彼女の本音だろうと思うとそれもむなしく、オレの股間にある彼女の頭を見下ろすことしかできなかった。
「性的魅力を感じないの!」
生まれて初めてオレは本格的に傷ついた。ハゲと言われて硬直するカントクの気持がわかるような気がした。金田さんにだって、オレは口が裂けてもそんなことは言わなかったのに。

<< 163 >>

 性的魅力を感じない代わりにアヤミはオレに人間的魅力を感じていたかといえば、決してそんなこともないだろう。
「私はフィーリングかな? それと雰囲気とか」
男性をどこで選ぶのかとアヤミに聞いたことがあった。そのときの答えがこれだった。「フィーリング」―なんとも危うい言葉だった。しかし、オレだって女性を選ぶ前提条件、いや、絶対条件が色気、つまり、下半身のフィーリングなのだから、アヤミのことをとやかく言えたもんじゃない。そして彼女の言うフィーリングとは、セクシャルなものでもなければパーソナリティに対してでもない。それはまさに雰囲気、表面的なキャラクターに対してだった。ここ白馬で、「なんだかよくわからない」マアくんに興味を持ったように、白樺湖では、「何かがありそうな」オレに惹かれたのだろう(金田さんもオレを「一目見た瞬間にただ者じゃないと思った」という)。しかし、裸にしてみたら特に何もない。けれど、いずれ何かが出てくるはずだと、アヤミは毎晩、あくなき「吸愛」を続けたのだ。
 つまり、アヤミはオレという人格が好きだったのではなく、オレの人体をいじって遊ぶことが好きだっただけなのだ。そう、オレはただのおもちゃだったのだ。少女が人形に飽きたら最後、投げっぱなしにして埃まみれのがらくたになってしまうように(飽きるまでは本気で生涯の宝だと思っている)、白樺湖でのオレはアヤミのアンティックドールに過ぎなかったのだ(そんなかわいらしいものでもないが)。一度棄てられたら最後、誰もオレに振り向かない。そしてオレは首を傾げたまま言葉を失う。
それなのにオレは、白樺湖でのオレたちを本物の人間関係だと錯覚し、決別間際の最後の現実にすり替えてここ白馬にやって来てしまった。現実と決別するための起爆剤だったはずのアヤミのキスが、現実そのものにすり替わってしまったのだ。
本当にオレはアヤミのアンティックドールに過ぎなかったのか? すり替わってしまった最後の現実にけりをつけるまでは、ノーマルヒルとラージヒルを爆破して現実と決別することはできない。そう思って今日まで引っ張ってしまった。
 そもそも、オレが決別すべき現実とはいったいなんなのか? 白馬に戻ってきてから毎日、オレはノーマルヒルとラージヒルの目の前でそのことを自問した。現実。

<< 164 >>

それは社会の閉塞感というより窒息感、人間関係の希薄化というより凶悪化、それら以外の何物でもなかった。そしてインチキな目付きの大統領と減らず口ばかりの総理大臣に代表されるように、空疎・虚飾・いつわり・まやかし。―長野オリンピックの歓喜と感動、快感と興奮さえもそれであるばかりか、原田雅彦の大ジャンプがまさにそれらの象徴であると、この四年間で、ここにそびえ立つノーマルヒルとラージヒルがそれらの形骸であり遺物であると、今年の2月に白馬を訪れて悟ってしまった。
 それなのになぜ、たかだか半年足らずの交遊と耽溺で、それが現実とは別世界のものだと認識しておきながら、いつの間にか、いや、意図的に現実の末端に刷り込んで現実との決別にまったをかけてしまったのか? 


「なんだいスグルッチ、まるでブタがフグに当たったみたいな、あっ、失敬。まるでキルケゴールみたいな顔色じゃないか!?」
夕食後、部屋で沈痛な面持ちでいるオレを見てカントクが言った。オレが鋭く一瞥をくれたので言い直したのは、絶望的な顔色をしているという意味だろう。
 ここ白馬でもカントクと二人部屋だった。白樺湖のすべてを知る彼に、ここでの没落ぶりをさらすのは誠に慚愧に耐えなかった。
「アヤアヤがマアくんと滑ってたんだってね?」
カントクの一言がオレの胸を串刺しにした。早くも知れ渡っているとは恐ろしい。
「アヤミとはもうダメかもしれない…」
白樺湖を知るカントクにだからこそ、オレは弱音を吐いてしまった。
「そうですか。でも、いいじゃないか! 今まで散々いい思いをしてきたんだからさ」
カントクはあっさりと、しかもやたら嬉しそうに言った。誰だって友達がカノジョとうまくいかなくなったときは嬉しいものだが、彼ほど露骨に喜ぶやつも珍しいので、かえって清々しいくらいだった。童貞もここまで来ると、悪い意味で聖人君子の様相を帯びるのだろう。
「それに、落ち武者に鞭打つようで申し訳ないんだけど、こうなったのも言ってみれば、スグルッチの自業自得なんだよ!」
今のオレの立場は、白樺湖で金田さんが貶められた立場にそっくりそのままだとカントクは言う。
「これで少しはネエさんの身にもなれたでしょう?」
金田さんの怨念が、オレとアヤミを引き裂こうとしているともカントクは言う。

<< 165 >>

怨念とか、そんなのはデタラメだが、万が一、本当にマアくんにアヤミを奪われる羽目になったら、カントクに言われなくてもこんな見事な自業自得はざらにない。そんなことになってたまるか! そんなことになるくらいなら、今夜、これからけりをつけてしまおう!

「アヤミはホントにオレとつきあう気があるのか?!」
ルームメイトのミネちゃんがいるのを承知でアヤミを引きずり出して尋問してやろうと彼女たちの部屋に押し入ったら、ミネちゃんはいなかったので、これ幸いとオレは開口一番、アヤミにそう叩きつけた。
「何よ?! いきなり入ってきて」
小憎らしい面構えでとぼけたふうに言うアヤミに、オレは彼女の今日の行動と白馬に来てから今日までの態度を問いただした。
「そんなこと言われても…」
身に覚えがないとでも言いたげなアヤミに、オレは怒りと呆れをぐっとこらえて続けた。
「アヤミはいったい、これをどう思ってんだよ?!」
「何それ? あぁ…」
そう言ってオレが見せつけたのは、白樺湖での別れ際に彼女からもらった霧ヶ峰の絵葉書とつがいの磁石だった。
「そんな、昔の話…」
昔の話?! わずか三ヶ月足らず前の話を「昔」言い切ってしまう彼女の感覚はなんだろうか?? この三ヶ月足らずで、白樺湖と白馬との連続性が断絶してしまうなんてことがあり得るのだろうか??
「昔の話って…だいたい、アヤミはなんでオレと一緒に白馬に来たんだよ?!」
「それはだって、スグルッチが一緒に行きたいって言ったからじゃん!」
たしかに、白樺湖が終る間際に何度か誘いを向けたことはあった。しかし、灰色の態度だったアヤミが白黒はっきりさせたのは、彼女自らのメールだったではないか?!
「そんな、別に、私はどうでもよかったのに…」
「どうでもよかった」とはどういうことだ?! オレは怒りと呆れに交じって不思議さというか不気味さというか、アヤミに対してえたいの知れない思いが沸き上がって来た。
「わかった、ってゆーかわかんないんだけど、とにかく、今後、アヤミはオレとつきあっていく気があるのかないのか?!」
これがオレの最後通牒だった。これでアヤミが「ない」と言えば、明日にでもノーマルヒルとラージヒルを爆破し、すり替わってしまった白樺湖も含め、いよいよ一切の現実と決別してやる。アヤミはうつむき加減でオレから視線を逸らすと、
「わかんない…」

<< 166 >>

と言って苦笑いを浮かべた。なぜ、この期に及んで「わからない」などという答えが出てくるのか? その苦笑いはいったいなんなのか? オレのほうこそわからない。
「わかった。わからないんならもういい! 別れよう!」
そう言い捨て、オレはアヤミの部屋を後にした。彼女は苦笑いのまま硬直していた。

「あれっ?? スグルッチ、いったいどうしたっていうのさ?!」
部屋に戻って荷物をまとめ始めたオレに、カントクが慌てふためいて尋ねた。
「辞める。今までいろいろ厄介をかけた。申し訳ないと思っている」
「辞めるって、今すぐにかい?!」
「ああ」
「ちょっと待ってくれよ!! いったいどうしたっていうんだい?!」
「さっきアヤミと別れた。だから、もうここにはいられない」
「ちょっと待ってくれよ! だからって、何も今すぐ辞めるこたぁないだろ!」
「もういたくないんだ!」
荷物はあっという間にまとまった。
「スグルッチの気持はわからなくはないけど、金田ネエさんだってスグルッチにフラれてから一週間は我慢してがんばったじゃないか!」
「これ以上、金田さんを引き合いに出すのはやめてくれないか!」
そう言ってカントクを怒鳴りつけた瞬間だった。携帯電話のメール受信音がなった。しばらく耳にしなかったメロディー。それはアヤミからだった。オレは無心でメッセージを開いた。
「さっきは、ごめんなさい…」


 12月31日。2002年の大晦日の朝、オレはまた白馬ジャンプ競技場に独り立っていた。ノーマルヒルとラージヒル、二つのジャンプ台は依然、オレの目の前にそびえ立っている。なぜか?


 クリスマスイヴのあの晩、アヤミと決別するつもりだったのに、彼女のメールがそれを拒んでしまった。あの後、アヤミの部屋に行ったオレ。苦笑いの硬直から解けて小さい笑顔で迎えてくれた彼女。ルームメイトのミネちゃんは彼氏のキムキムこと木村ユウゴと泊まりがけで出かけたようだったので、オレはそのまま彼女の部屋で一夜をともにした。彼女の愛情がここにあるのか確かめるようにオレは寝床で彼女と手足を絡めた。白馬に来て初めて彼女とキスをした。彼女のキスは今や現実と決別する起爆剤ではなく、すり替わった現実の残り香だった。彼女の唇も胸の谷間も白樺湖での手答えはなくなっていた。

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ここで踏み止まったところで、それはその場凌ぎの引き延ばし策でしかないことはわかっていた。それなのにこうしてアヤミにしがみついてしまうとは。つまり、今や白樺湖以前の真っ新な現実に決別する意志を、白樺湖以降のすり替わってしまった現実への執着が飲み込んでしまったのだ。オレは敗北感に打ちひしがれた。自分自身に対する。アヤミに対する。長野オリンピックと原田雅彦に対する。


 この一週間で、オレとアヤミ以外でもちょっとしたいざこざがあった。
 アヤミのルームメイトのミネちゃんこと赤松峰子は、オレたちと同じくカップルでここに来ていた。彼氏のキムキムこと木村ユウゴは、いつも気むずかしい顔つきでピリピリしていた。ミネちゃんが思いのほか社交的に振る舞うのがその原因で、彼女が誰かに気を移すのではないかと、彼はあからさまに恐れていた。その恐れが妙ないざこざを引き起こした。
 キムキムの束縛にうんざりしたミネちゃんは彼と距離を置くようになり、その代わりにほかの男子、とりわけトシくんと仲良くなった。ある晩、2号館のフロアでミネちゃんはトシくんにキムキムのことを相談していた(トシくんの腰巾着であるリーダーもいた)。オレは毎晩、アヤミの部屋をこっそり監視していたので、そのシーンを目撃していた。しかし、それがどういうわけか翌日、話に尾ひれが付いてキムキムの耳に入り、
「トシのやろうが峰子を口説いてキスをしやがったって?!」と彼は激怒し、
「トシをぶん殴ってやる!!」と、中休みにトシくんが滑っている白樺ゲレンデに乗り込んで大立ち回りを演じた。当然、キムキムは即刻クビ。彼に愛想が尽きたミネちゃんはここに残ると主張したが、キムキムが無理やり大阪に連れて帰ってしまった。
「だからカップルを採るのは嫌だったんだよなぁ! 一人がコケルと二人の人員を失うことになるんだから。かといって人手が足りないから採らないわけにはいかなかったし。スグルッチも頼むよ! 巨乳ちゃんと喧嘩して二人いっぺんに辞めるなんてことがないようにな!」
言葉の文で支配人は言ったのだろうが、オレとアヤミの関係はすでに薄氷のものだった。キムキムのうろたえぶりと暴発に、オレは不吉な既視感を覚えていた。アヤミが一人部屋になったことも吉報以上に不吉な予感だった。そしてそれが的中した。

「スグルッチ、マアくんには気をつけたほうがいいぞ!」

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午後のルーム清掃を独りでやっていたオレのところへ、マコッちゃんがやって来てそう言った。出し抜けに何を言い出すのかとオレは戦々恐々とした。なんでも今、アヤミとマアくんがまた一緒に滑っているらしい。マコッちゃんはそれを忠告しにきたのだ。
 クリスマスイヴのあの一件以来、アヤミとマアくんに目立った動きは見られなかった。やっぱりあれはたまたまで、オレの取り越し苦労だったんだと安心し始めた矢先だった。
「スグルッチは気づいているのか知らないけど、けっこう二人で出かけてるみたいじゃない」
マコッちゃんの証言で、オレはまた気絶しそうになった。そんなはずはなかった。クリスマスイヴの喝が多少なりとも効いてアヤミはあれ以降、大人しくしているはずだった。それに、アヤミへのマークが甘かったがためにオレを奪われてしまった白樺湖での金田さんの轍をを踏むまいと、オレはクリスマスイヴ以来、マアくんを徹底的にマークしていたつもりだった。オレは毎晩、彼女とマアくんの下履きがそれぞれに所定の置き場にあるか確認していたし、アヤミがいない隙を狙って彼女の部屋に忍び込み、彼女の携帯電話の履歴を盗み見ていた。アヤミのだけでは飽きたらず、オレはマアくんの携帯までも盗み見た。彼は大部屋で夜中以外は扉が開けっ放しだったので、それは容易だった。二人ともに疑わしい履歴は見られなかったのに。
「今日なんかマアくん、いつもはモタモタと厨房の仕事をやるくせにやたらテキパキと片づけやがって! なんでだろうって思ったら、アヤアヤと滑りに行くからかよ!」
マコッちゃんは普段からマアくんのことを悪く思っているようだ。
「あんなんじゃマアくん、とても社員になんかなれないよ!」とマコッちゃんはしばしば陰口を叩いていた。思えば白樺湖には彼のような陰口の亡者もいなければ、マアくんのような孤立の信者もいなかった。やはり白樺湖は特別の世界で、ここ白馬こそ現実の縮図なのだ。そんな現実にオレはいつまでぶら下がろうというのだ?!
「アヤアヤはスグルッチのカノジョだって知ってるはずなのに。もはやマアくんは確信犯だよ!」とマコッちゃん。マアくんがアヤミに横恋慕をしているとマコッちゃんは訝っているようだが、オレは違った。むしろアヤミのほうから積極的にアプローチしているのではないか? 白樺湖でオレにやったように。

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 名木山ゲレンデで催されるカウントダウンの花火大会をみんなで見に行こうと誰ともなく言い出して話しがまとまった。
「私は行かない。大勢で行動するのは好きじゃないから」
夕食後、アヤミに参加の意思を尋ねたら、そんな答えが返ってきた。おかしなことを言うじゃないか?! クリスマスイヴのスキーでは、「みんなと一緒に滑りたいから」とオレを敬遠したのに。思えば、白樺湖でも来て間もない頃は、
「みんなで休みをもらってキャンプに行こうよ!」なんて言っていたくせに、オレと結ばれた途端に一転、彼女はみんなから一歩距離を置くようになった。だから、その一言を聞いたとき、オレは血の気が引いた。それはすでに彼女がマアくんと結ばれてしまったことを意味するのか? マコッちゃんの忠告でオレが白樺ゲレンデに見に行ったときの二人の仲睦まじそうな様子を見たらさもありなん。しかも、ホテルパイプのけむりの目と鼻の先にある白樺ゲレンデではないか!! 確信犯どころかもはやオレを挑発しているに等しい。そんな二人を直視できなかったオレは、飛び込んでいって二人を殴り倒してやりたい衝動を抑えるのが精一杯だった。オレは決めた。マコッちゃんの言うように二人が夜中に出かけているのが本当だとわかったら、オレはアヤミを叩きのめす。ノーマルヒルとラージヒルを消すより先に、アヤミをこの白馬から消してやる。金田さんが白樺湖で味わった屈辱を、オレがこの白馬で味わうわけにはいかないのだ。「金田ネエさんの報いだ!」とカントクは言うだろう。しかし、そんな絵に描いたような報い、認めるわけにはいかないのだ。金田さんの報いを受けるより先に、オレはアヤミに一矢を報いてから現実と決別する。アヤミのキスだったはずの現実と決別する起爆剤は、アヤミへの暴力にすり替わってしまった。
「じゃあ、カウントダウンはアヤミの部屋で一緒に過そうよ!」とオレは誘った。しかし、
「私、疲れてるからもう寝る。ゴメン」と断られた。本当に寝るのならそれでいい。しかし、信じる者は足下を掬われる。オレは彼女が不穏な動きをしないよう、花火大会には行かずに寮の玄関に張り込んで彼女を監視することにした。
 ホテルパイプのけむり白馬店の建物は四棟ある。フロントのある新館の1号館と旧館の3号館を繋ぐ2号館が最も古い建物で、ここに全店舗の本部事務所と従業員寮があった。

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暖炉の吹き抜けのフロアの一角に寮の玄関があり、アヤミのいる女子部屋の入り口があった。さすがに大晦日だけあって22時の消灯を過ぎても館内のざわめきは普段以上だった。みんなが出かけてから、ナイトランプの薄明かりだけになった2号館のフロアで、オレは独り、息を潜めてアヤミの部屋を張り込んだ。窓の外から世間並みのざわめきが聞こえる。創業時の面影を留める2号館では、ボイラーの暖気は隙間風にかなわない。窓辺に降り積もる雪の重みが聞こえてきそうな寒さ。カウントダウンが終り次第、張り込みをやめようと思った。アヤミを信じているからではない。こんな息苦しい時間に耐えられなかったから。こんなに息苦しいのなら、みんなと一緒に出かけて気を紛らしたほうがマシだった。カントクでさえみんなと一緒に出かけたのだから。カウントダウンが済んだら、新年になろうが、今夜はそれで終り。自分の部屋に戻って目をつむってしまおう。(金田さんの報いどころか、白樺湖での彼女そのままの弱気ではないか?!)
 名木山方面から花火が上った。2003年の始まり。長野オリンピックから五年が経とうとしていた。あの日あの時も原、田雅彦のゴールドメダルを讃える花火が名木山に上った。あの日あの時の歓喜と感動、無限の快感と興奮に満ちた花火が、偽りとまやかしでしかなかったとすれば、3ヶ月前にアヤミと二人で見た諏訪湖の花火は違うのだろうか? オレは張り込みをやめて名木山ゲレンデに向かった。
 そこにはあの日あの時とさして変わらない光景があった。
「アケオメ! コトヨロ!」
「ハラダ! ハラダ!」
花火に向かって缶ビールを片手に駆け出し、雪上にダイビングをする大衆。原田雅彦の大ジャンプに酔いしれて涙ながらに抱き合う観衆。
「あれっ? スグルッチ、結局来たんだ?」
ウラえもんに見つかって声をかけられた。パイプのけむりの連中もそんな大衆の構成員だった。もちろん、このオレ自身も。だだし、一人だけ欠けているやつがいた。それに気づいたオレは血の気が引いた。
「スグルッチ、」
そんなオレの顔色に気づいたのか、マコッちゃんが近寄ってきて言った。
「やっぱりマアくん、アヤアヤと出かけたようだね!」
バカな?!

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「マアくん、カウントダウンに来ないって言うから、どうするんだろうと様子をうかがっていたら、なんだかこっそりと出かけていったから、気づかれないように後を付けてみたんだ。すると彼の車で上の国際ゲレンデのほうに向かったから、おかしいなって思ったら、国際の入り口でアヤアヤをピックアップしていったよ!」
そんな…オレはその場に膝から崩れ落ちそうになった。
 滑る地面に足下をとられながら、息を切らせて寮に戻ったオレは、アヤミの部屋の入り口に駆け込んだ。彼女のティンバーランドのレディースブーツは所定の場所に変わらずある。オレは扉をノックした。応答がない。寝ているはずなのだ。オレはこっそりと扉を開けた(社長の方針で、白馬店の従業員寮には鍵が付いていない)。そこはもぬけの殻だった。オレの目をくらますため、アヤミはいつものティンバーランドを所定の場所に置き、オレの知らない履き物で玄関の窓からこっそりと抜け出していたのだ。完全にハメられた! オレはアヤミの部屋の真ん中で膝から崩れ落ちた。
 再びオレは2号館のフロアで張り込んだ。今度はアヤミとマアくんの現場を押さえるために。さすがにスノーリゾートの大晦日。午前3時を過ぎたのに館内にも外通りにもまだざわめきが残っていた。、こんな苦痛な時間がオレに待ち受けているとは、よもや夢にも思わなかった。白樺湖の天国から白馬の地獄へ。絵に描いたような転落ぶりは、まさに長野オリンピック以降の日の丸飛行隊そのままではないか!? 白樺湖でアヤミと最初に出かけたあの日、金田さんも今のオレと同じ心境でオレたちの帰りを待っていたのだろうか? オレのバイクがあるのか100回見に行ったという彼女が決して大げさではなかったことが今にしてわかった。しかし、オレは金田さんとは違う。彼女は最後までオレを信じたがためにハメられっぱなしナメられっぱなしで自滅していった。オレは、被った屈辱は目に見える形でお返しする。この後、アヤミが帰還したら、徹底的に叩きのめして二度とマアくんに近づけないようにしてやるんだ。それで恐れをなして彼女がここを辞めることになれば、それはもはや御の字。白樺湖からすり替わってしまった現実にけりを付けることとは、今やアヤミと別れることではなく、彼女をここ白馬の地から消し去ることになってしまった。

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ようやく内外のざわめきが落ち着いた午前5時過ぎ、マアくんの所有するパジェロVRのヘッドライトが、オレの潜む2号館の窓をきつく照らした。
 アヤミが2号館に姿を現した。マアくんも一緒に。もはや説明の余地はない。オレは女子寮の入り口内側に忍び込んで身を潜めた。アヤミはマアくんとキスをした。白樺湖で毎晩、オレにやったように。
「じゃあね! また明日!」
アヤミはマアくんと別れた。二人いっぺんに叩きのめすと騒ぎが大きくなるので、今朝のところはマアくんを泳がせることにした。とにかく、まずはアヤミに思い知らせてやることだ! オレの恐ろしさ、いや、オレの真剣な思いを。
「オイ!」
“ハッ!”
アヤミが女子寮の内側に入ったところで、オレは声をかけて立ちふさがった。不意の闇討ちで、彼女は心臓が止まったかのように棒立ちになった。しかし、次の瞬間、マアくんに助けを求めようと身を翻そうとしたので、オレは彼女の片手をきつく捕まえた。
「イヤッ!」
「静かにしろ!」
そのまま、もう片方の手で彼女の口を押さえながら、オレは彼女を2号館の玄関、内扉と外扉の間に引きずり出した。
「イヤッ! 痛い!」
オレは平手で彼女の顔面を連打した。手加減はしなかった。彼女の断末魔が、夜明け間近の静かな2号館のフロアにこだました。ほかの従業員や宿泊客に見つかる恐れもお構いなしだった。
「イヤッ! 痛い!」
「甘く見るなよ! オマエがそのつもりなら、オレは黙っちゃいねぇぞ! 今度やってみろ! こんなんじゃ済まないぞ! オレはここをクビになるのも警察に捕まるのも覚悟の上なんだ!」
「イヤッ! 痛い!」
最後にもう一発、きつく張って、オレは彼女を捨て置いて2号館を去った。彼女はしゃがみ込んだまま、恐怖と苦痛で痙攣していた。
白樺湖で金田さんがオレにやったことを、オレはそっくりそのままアヤミにやり返したのだ。ただし、金田さんは暴力を振るわなかったが。

「スグルッチ、アヤアヤとなんかあったのかい? なんか今日の彼女、やたら元気がないんだけど。それに “もうここのバイトを辞めようかなぁ。”なんて言ってたようだし」
カントクが部屋にいるときに尋ねてきた。オレは、”シメタ!”と思った。もちろん、今朝方の闇討ちのことを話すわけにはいかないので、
「別に。ただ、やっぱり、あんまりうまくいってないから…」と無難にごまかした。

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「そっか。スグルッチとなんかあったっていうか、マアくんとなんかあったのか?!」
カントクの無神経な一言が、またオレの胸を串刺しにした。闇討ちでの捨てぜりふでもオレはマアくんの名前を出さなかった。現行犯を抑えたのにもかかわらず、オレは、アヤミとマアくんがどうにかなってしまったことを決して認めたくなかった。認めるにはあまりにも辛い現実だった。認める前に、アヤミがここから、オレの視界から、オレの現実から消えてしまうことを狙っていた。カントクの証言はその可能性を示唆していた。
 アヤミだけでなく、オレはマアくんにも手を打った。
「マアくん、ちょっと、」と、オレはお昼休みに声をかけ、彼を地下の従業員駐車場に連行した。身に覚えのある彼は、明らかに怯えていたが、いつものポーカーフェースを崩さなかった。
「夕べは誰とどこへ行ってたの?」
「えっ?」
マアくんは狼狽して言葉に詰まったが、すぐに開き直ったかのように言い返した。
「どうしてそんなこと、スグルッチに答えなきゃならないんですか?」
「ふさけんな!」と、一撃を食らわしてもよかったが、マアくんの度胸に半ば感心もし、こここはあくまでも威嚇に意味があると自制心を励まして続けた。
「アヤミがオレのカノジョだって知ってた?」
「―やっぱり、そうなんですか…」
“やっぱり”とはどういう了見なのか? 彼は言う。アヤアヤがここに来てからまもなく、彼女のほうからしばしば誘ってくるようになった。しかし、彼女はスグルッチとつきあっているとマコッちゃんに聞かされた。だから、彼女に直接尋ねてみたが、
「別につきあってないから」と答えた。だから誘われるがままに昨夜も出かけてしまったと。
「いったい、どっちなんですか?!」とマアくんは迫った。
「もう一度言うけど、オレとアヤミはつきあっている。だから、もう二度とオレを出し抜いて二人で出かけないでくれ!」
「わかりました。ただ、誤解しないでほしいのは、オレは決して二人で出かけてるわけじゃありませんから。彼女が遊びに行きたいっていうから、白馬にいるオレの友達も一緒に飲みにいったりしてるだけですから」
「じゃあなんでキスするの?!」
「えっ?!」
「キスしてだじゃん! 今朝、アヤミの部屋の前で!」
「それは…」
マアくんが開き直って”アヤミはもらった!”とのたまえば、この場で決戦に及ぶ覚悟だった。しかし、

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「すみませんでした。もう彼女には二度と近づかないので」と素直に頭を下げた。
「マアくんのその言葉を信じるから」とオレが言うと、彼は緊張をほどいて言った。
「でも、なんで、彼女はつきあってないなんて言うんですか?!」
「それは…」
今度はマアくんがオレの痛いところを突いた。ここへ来る前に白樺湖のときからいろいろあって今は彼女なりにそういう言い方をしているが、ここのバイトが終ったらオレたちは結婚しようと話しているから、とオレは苦しいはったりをかました。
「だったら、スグルッチのほうからも、もうオレに近づくなって言ってくださいよ! オレ、ホント、気が狂いそうですよ!」
マアくんは今にも泣き出しそうな顔つきで言った。彼の切実さは痛いほどわかる。それはオレ自身が白樺湖で経験したことだから。ただし、オレは気が狂うより先に快楽に身をゆだねてしまった。それが巡り巡ってなんの因果か、オレの人間関係の圏外にいるはずのマアくんとこうして対峙している。
「オレ、スグルッチと喧嘩してまでアヤアヤとどうにかなろうなんて思ってませんから! ただでさえオレ、マコッちゃんから悪者扱いされて嫌な立場にいるのに。彼は最悪ですよ! こんなこと言いたくはなかったけど、彼、スグルッチのいないところで、”スグルッチはもうダメだよ! 絶対アヤアヤと別れるよ!”なんて陰口を言ってるんですよ! そのくせオレがアヤアヤと一緒に滑ってたりすると、変な嫌みを言ってきたり。オレ、スグルッチとこうして初めてまともにしゃべってみて、マコッちゃんが言うような悪い人じゃないと思ったから、これ以上こじれたりしたくはないんですよ!」
この場の難を逃れるためにマコッちゃんを引き合いに出した感はあるが、マコッちゃんがオレのことを悪く言っているのはさもありなん。それに、オレもマアくんのことを、マコッちゃんが言うような悪い奴だとは思えなかった。だから、マアくんとの衝突はできるだけ避けたかった。しかし、それは無駄な努力だった。

 初日の出間際の武力制裁が功を奏し、正月三が日のアヤミは生き馬の目を抜かれたようにおとなしかった。さすがにマアくんとの接触も断っているようだった。

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二人へのマークをはがしたわけではなかったが、万が一、また二人の現場を押さえでもしたら自分がどうなるかわからなかったので、オレは毎日の仕事を終えると早々にお酒を浴びて正体不明になった(これも白樺湖での金田さんと変わらない)。
「あの巨乳ちゃん、このところめっきりテンションが低いけど、喧嘩でもしたのか? えぇ?」と、ハツカネズミの支配人も異変に気づいていた。
「ええ…まぁ、ちょっと…」
「ダメじゃないか! 職務に影響を来す! 破局? 破局? ヒヒッッ!!」
ただし、彼女がここを辞めるという情報は、この支配人の口からも伝わってこない。すると、四日目からは、何かが吹っ切れたように彼女は生き生きとし始めた。
「井岡さん、こちらのお客さんをお願いします」
フロントでオレと勤務が重なることもときどきあったが、彼女は敬語で事務的に接してくるのだ。ただし、リーダーやほかの男子従業員とは、今まで以上になれなれしく接しているのが憎たらしい。この態度で、彼女はオレに何を言おうとしているのか?! それが明らかになったとき、オレの暴力はいよいよ歯止めが利かなくなった。

 ほかのホテルと違い、パイプのけむりは、その安価のおかげで三が日を過ぎても盛況が続いた。そんなある日、オレがウラえもんとベッドメイクに勤しんでいるときだった。
「スグルッチ、昨日の夜、アヤアヤが私の部屋に来たんだけど…」
ウラえもんは、言うべきか言うべきではないか迷いながら切り出した。嫌な話が始まるのは間違いなかった。
「何? なんかあったの?」と、オレは深呼吸をしてから聞く構えを整えた。
「私、スグルッチがかわいそうだと思って」
カワイソウ?? 「かわいそう」とはどういう意味なのか??
「アヤアヤったらもう、”マアくん! マアくん!”ってばっかりで、相当マアくんにぞっこんみたい。私たちからしたら、”アンタ、スグルッチとつきあってんじゃないのかよ?!”って突っ込みたくなったけど、そんなこと眼中にないってどころか、”スグルッチが私とマアくんの仲を妨害するの!”なんて言い出す始末で。私、あきれちゃった。スグルッチ、アヤアヤを殴ったんだってね? それでさすがにしばらくは落ち込んでたみたいだけど、彼女は決心したって言うの。スグルッチの妨害に負けずにマアくんと結ばれてみせるって。

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まったく、神経を疑うっていうか、あっ! スグルッチ! 大丈夫?!」
オレはついに気絶した。

 目が覚めるとオレは部屋のベッドで横たわっていた。
「気が付いたかい?」
カントクが付き添ってくれていた。
「年末年始のかきいれどきで相当疲れがたまってたんだね。ウラえもんがそう言ってたよ。彼女がここまで運んできてくれたのさ。女だてらに頼もしいね、彼女は」
アヤミのことが原因だとしゃべらなかった(カントクが突っ込まないので、そうだろう)彼女の気遣いにオレは感謝した。しかし、アヤミとオレの関係が崩壊したことが明るみに出るのは、もはや時間の問題だろう。
「今、何時?」
「今? 1時過ぎだね。今日はもう、ゆっくり休んだらいいさ。支配人も休みにしてくれるみたいだよ。昼食も厨房にとってあるから」
午後1時。アヤミとマアくんの勤務形態からして一番、監視を怠ってはいけない時間帯だった。
「スグルッチがかわいそう」―先ほどのウラえもんの証言がよみがえり、オレの胸を八つ裂きにする。気絶したおかげで、オレはいよいよ決心できた。
”ここを辞めてくれ!”とアヤミに直訴しよう。
”ここを辞めてさえくれれば、マアくんとどうなってもかまわないから”という条件付きで。もちろん、アヤミがそれを飲むとは思えない。そうなれば、オレはノーマルヒルとラージヒルを爆破した後、アヤミと差し違えて現実と決別するどころか生涯を終える覚悟だった。どうせ爆破した後には両手が後ろに回るのだから。金田さんは一週間も我慢したが、オレにとっては、そんな一週間は無意味でしかない。
 オレはアヤミの部屋を訪ねた。入り口の下足置き場にはいつものティンバーランドがあった。しかし、油断はならない。そうそう同じ手に引っかかってたまるか! オレはノックした。応答がない。嫌な予感がした。昼寝をしていると願いつつ、オレはこっそりと扉を開けた。しかし、やはり、そこはもぬけの殻だった。またしてもオレを欺くために置かれた扉の前のティンバーランド(それにしても、いつ頃から彼女はこんな小細工をするようになったのか?)。それをじっと睨んだオレは、再び狂気に目覚めた。
 オレは真っ先にマアくんの部屋に向かった。マコッちゃんが出てきて「マアくんはいない」と告げて薄笑いを浮かべた。コイツもそのうちぶん殴ってやろうと思った。
「アヤミ、見なかった?」

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オレは恥も外聞も忘れて寮内・館内の方々を尋ねて回った。
「アヤミ、どこに行ったか知らない?」
「さぁ…」と誰もが、鬼気迫る形相で訪ねてくるオレに当惑して答えた。アヤミの所在だけでは埒が明かないので、マアくんについても尋ねた。これで誰もが不信感を抱いたことだろう。いや、すでにもう知れ渡っているのかも。アヤアヤがマアくんに心変わりしてスグルッチが棄てられようとしていると。
「なんだスグルッチ、もういいのか?」
フロントまで尋ねにいったので、支配人に怪しまれた。
「アヤアヤ? 見ないよ。ただ、マアくんは4号館のほうに上っていくのを少し前に見たような。今日って4号館のルーム清掃、あったっけ?」
支配人は掃除表を覗き込んだ。駐車場を挟んでホテルの対面にある4号館は別館扱いで、本館の三棟が満室のとき以外は閉じられている。
「ないよなぁ? 今日、4号館の清掃。マアくん。クサイぞ! クンクン!」
クサイなんて次元じゃなかった。4号館のマスターキーはフロントの置き場にあった。
「ちょっと鍵を借ります!」
オレは4号館に急行した。
 4号館の各部屋は、未使用のときは鍵は掛けられていない。使用が決まった時点で、改めて清掃の確認をしてから鍵を掛ける。もし4号館で鍵の掛かっている部屋があったら、そこにアヤミとマアくんがいるはずだ。はたして2階の一番奥の部屋がそうだった。抜き足差し足で忍び寄ったオレは、ノックをしないで扉をこじ開けた。―そのとき義経少しも騒がず。―マアくんのあらわになった下半身にアヤミが口元を近づけていた。慌てて下半身をしまおうとするマアくんに、オレの“幻の左フック”が炸裂した。よほど打ち所が悪かったのか、彼は一発でのびてしまった。
「イヤッ! 怖い!」
振り上げた拳を今度はアヤミに向けるべく、オレは彼女を睨みつけた。腰を引きながら後ずさる彼女。さながら『サイコ』のように、オレは彼女を部屋の隅に追いつめた。
「イヤッ! 痛い!」
腰砕けになったアヤミの顔面を、オレは平手で連打した。
「痛い! やめて! やめて!」
「今度やったら、ただじゃすまないって言っただろう!」
「痛い! やめて! やめて!」
「ヒトの気持を踏みにじったら、どうなるか思い知らせてやる!」
アヤミの断末魔を浴びながら、オレの脳裏になぜか金田さんが浮かんできた。

<< 178 >>

彼女の気持を散々踏みにじったあげくが、アヤミへのこの暴力ってことなのか?
「スグルッチ!! オマエ、何やってんだ?!」
支配人が駆けつけてオレを制した。部屋の入り口には、フロント勤務の社員の面々がやじ馬のごとく顔を出していた。


 ノーマルヒル=K点90・ヒルサイズ100メートル・全長318・標高差107メートル・鉄筋構造。ラージヒル=K点120・ヒルサイズ130メートル・全長385標高差138メートル・鉄筋コンクリート構造。―ついにこの二つのモニュメントを爆破するときがやってきた。

アヤミとマアくんに暴力を振るった現行犯で、ホテルパイプのけむりを即刻クビになったオレは、荷物をまとめ終わると、おそらくこれが最後になるであろう、白馬ジャンプ競技場に足を運んだ。パイプのけむりの駐車場に待機させていたオレの自家用車(宇都宮の実家から持ち込んだ)には、ここへ来る以前に、前職でのコネクションを利用して調達した爆薬一式が詰め込まれている。今夜、白馬村が寝静まったら、満を持してそれらをここに持ち込み、甲種火薬類取扱保安責任者の技能をフル稼働して最短時間で両者に仕掛ける。そして紫色の夜明けで五竜岳と唐松岳の頂がオーロラ色に染まると同時に、爆破のスイッチを押す。以上が、ここへ来るまでに何度もシミュレーションを繰り返した段取りなのだが、正直、オレに逡巡が生じつつあった。


「こんなことになってしまって残念だけど、スグルッチとは白樺湖からいろいろあったから、ボクは最後まで見送るよ」
オレの去り際を見送ってくれたのはカントクだけだった。
「カントクは、インドにはいつ?」
「そうだね、4月ぐらいかな? まだどうなるかわからないけど」
ホテルパイプのけむり白馬店がバックミラーから遠ざかっていくと、白樺湖での日々が走馬燈のようにオレの瞼を駆けめぐった。

<< 179 >>

インドに行ってもカントクは、”やってらんねぇぜ!”とぼやくのだろうか? 大学に戻ってからも前田は、コズコズのケツを追っかけ回しているのだろうか? カッちゃんは今頃、どこのリゾートでどんな女の子を物色しているのだろうか? 工藤くんはこの冬も毎晩、壁に耳を当てているのだろうか? シゲさんは相変わらず不倫談義に花を咲かせているのだろうか? クッキーはホープロッジでも誰かの寝込みを襲ってフェラチオをしているのだろうか? フルフルは今頃、カナダで彼氏とよろしくやっているのだろうか? 白樺湖で彼女を押し倒しておけば、白馬でアヤミに暴力を振るうこともなかったかもしれない。金田さんはどうしているだろう? 物憂そうな瞳で背中を丸めた彼女が、今にもこの坂道を上ってきそうな気がした。金田さんだけでなく、支配人にも不義理を行ってしまった。思えば、こんなオレにでも軽薄ながらもフレンドリーに接してくれた彼は希有な大人だった。しかし、
「警察沙汰にはしないから、おとなしく荷物をまとめるこった! 今月分の給料はすぐに精算してやるから。まったく、オマエってやつは、どこまでも子供っていうか、いくら痴情のもつれでも女の子に手を挙げるなんてあり得んぞ! 立派な犯罪者じゃないか! 犯罪者!」
支配人に散々罵倒された。マコッちゃんには白い目で見られて鼻で笑われた。ウラえもん以下、ほかのみんなには気の毒そうな視線を投げかけられた。当然、アヤミとマアくんの姿は見えなかった。止めに入った支配人の背中に恐怖の号泣でしがみついたアヤミの姿が、オレの瞼から離れなかった。彼女のほっぺたの温もりと柔らかさが、いつまでもオレの手のひらに残っていた。この温もりと柔らかさは、白樺湖ではオレの唇のものだった。結局、彼女は白樺湖という非現実的世界での気まぐれな妖精でしかなかったのだ。それをわかっていながら、現実との決別の地であるここ白馬まで彼女を引っ張ってしまったのが失敗の元だった。わかっていながらなぜ、オレはそうしてしまったのか? アヤミに暴力を振るってまで守りたかったものは何だったのか? 暴力という取り返しのつかない振る舞いをしでかした以上、もはやすべてに弁解の余地はないのだが…
正しいことをしたとは思わないが、後悔はしていなかった。彼女を殴打したことで、彼女への愛憎を洗いざらい清算できた。後悔はしていないが、悲しい。

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とても悲しい。長野オリンピックの歓喜と感動、無限の快感と興奮が、原田雅彦の大ジャンプの残像が、奇しくも同じここ白馬の地で、アヤミへの暴力として帰結してしまったのだ。


北国の分厚い闇に包まれる間際、ノーマルヒルとラージヒルは鮮やかなカクテルライトに照らされ、その巨大な輪郭を浮かび上がらせた。今夜、このカクテルライトが消えれば、二つの輪郭は永遠に闇の中に葬り去られるはずなのに。オレの両肩に降り積もる粉雪が重たい。アヤミへの愛憎を清算できた代わりに、オレは自身の現実に悲惨な爪痕を残してしまった。つまりは長野オリンピックが、原田雅彦の大ジャンプが偽りやまやかしだという以前に、オレ自身が偽りの人間性しか持ち得ず、まやかしの人生を送ってきたからなのだ。一人の女性の真心を踏みにじり、もう一人の女性に暴力を振るって初めてそれに気づくとは、支配人に言われるまでもなくオレは子供以下の人間なのだ(フルフルに言わせれば、信念のない人間ということだ)。
そんなことを考えながら爆弾を仕掛けていたら、全部終ったときには夜明けまであと数時間という刻限だった。白馬村はまだ深い眠りの中にある。誰にも見つからなかったはずだ。見つかったところで、あとは手元にあるこの爆破のスイッチを押すだけだ。さあ、押すんだ! この手で偽りとまやかしに満ちた現実を葬り去り、その象徴であるノーマルヒルとラージヒルの崩壊をこの目で見届けるんだ! 大きく深呼吸してスイッチに指をかけたそのときだった。
北の空が異様に明るいのに気づいた。夜明けにはまだ早い。それに、夜明けなら東の空から紫色に染まるはずなのに、北の空が夕焼けのように真っ赤に燃えていた。火事に違いなかった。この季節のこの土地ではさほど珍しいことではない。しかし、嫌な胸騒ぎがしたのは、火事がちょうどホテルパイプのけむりの方角と一致していたからだ。消防車のサイレンがけたたましくなった。まさかとは思ったが、さすがに落ち着けなくなった。ここでノーマルヒルとラージヒルを爆破しても、火事の騒ぎとごちゃ混ぜになって世間に与えるインパクトが半減してしまう。いや、インパクトにこだわっている場合ではない。

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もし火事が本当にパイプのけむりであれば、むしろ鴨が葱をしょってやって来たような願ってもいないシチュエーションではないか?! オレ自身の偽りとまやかしの集大成となったホテルパイプのけむり白馬店を、ノーマルヒルとラージヒルと同時に葬り去ることができるのだから。しかしオレは、重なって鳴り響く消防車のサイレンを追いかけるように、パイプのけむりに向かって走り出していた。
嫌な胸騒ぎは的中した。燃えているのはホテルパイプのけむり白馬店の2号館だった。火の手は予想以上に激しく、築数十年の古い木造建築は、消火活動もむなしく、全焼を免れない勢いで燃えさかっていた。着の身着のままで避難する宿泊客。次々とやって来るやじ馬。消防車と救急車のけたたましいサイレン。駆けつけるパートカー。さながらグラウンド・ゼロのようなパニックだった。
普段から血色の悪い支配人が、最悪の顔色で駆けつけた。ただし、社員で最初に駆けつけたのは、ほかでもない社長だった。彼は毅然と消防団に消化活動の指示を出し、避難誘導の陣頭指揮を執っていた。つい数時間前までオレの同僚だったアルバイトの面々も、着の身着のままで飛び出し、社長の指示を仰いでいた。カントクもマコッちゃんもウラえもんもマアくんも。彼らに交じってなぜか見覚えのある顔ぶれが二人。白樺湖で一緒だったナカちゃんこと中川ノブヒコとマッちゃんこと松田タカヒロではないか?! なぜ彼らがここにいるのか? それよりも、なぜ一人だけここにいないのか? オレの嫌な胸騒ぎが致命的になった。アヤミの姿が見えない。彼女の姿だけが。まさか…
「カントク!」
オレはカントクを捕まえた。彼のすぐそばではナカちゃんとマッちゃんが、とりわけナカちゃんがやたら取り乱して支配人以上に最悪の顔色になっていた。
「あっ、スグルッチ!」
カントクが叫んだので、みんながオレに気づいた。当然、気まずいとか言っている場合ではなかった。マアくんと目が合った。しかし、彼はナカちゃんと同様に最悪の顔色で取り乱し、オレどころではなかった。まさか…まさか…
「スグルッチ、大変だよ! アヤアヤと金田ネエさんが!!」
「えっ??!!」

 翌日、大町市の市民病院でアヤミは息を引き取った。全身大やけどだった。包帯だらけで横たわる彼女を、とても正視することはできなかったが、オレは人目もはばからずに号泣した。
「アヤミ! アヤミ!」

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白馬での憎しみは消え、白樺湖での優しかった彼女がオレの目の前に現れた。姫木平の利休庵で桁外れの天丼を食べてお腹を痛め、帰りの道すがらうずくまったオレのお腹をさすってくれた彼女。夕暮れの初秋、西日を浴びながら湯の道街道を走って奥蓼科温泉郷を目指した。山道で迷って右往左往するオレを、率先してナビゲートしてくれた彼女。いち早い紅葉を拝みに麦草峠を走って白駒池を目指した。風を切る寒さに耳たぶがかじかんだとき、背後から手袋の両手を回してオレの両耳を包んでくれた彼女。「掴まってないと危ないよ!」とオレが言うのに、「大丈夫だから!」と、彼女はずっとオレの両耳を暖めてくれた。
「アヤミ! アヤミ!」
オレは膝から崩れ落ちた。オレの横にはマアくんもいた。彼が泣いていたかどうかはわからない。しかし、たしかに、白樺湖ではアヤミはオレのものだった。こんな結末が待っているのなら、アヤミを白馬に連れてくるんじゃなかった。自らの信念のなさを今さら呪ったところで、彼女は永遠に帰ってこなかった。
 公式発表によると(あくまでも公式発表だが)、出火の原因は酒に酔って悪乗りした若い外国人のグループが深夜、、2号館のフロアにある暖炉に勝手に薪をくべてそれが引火したため、ということだった。暖炉のすぐ脇にある女子寮の入り口、その中でも一番暖炉に近い部屋のアヤミが逃げ遅れた。その夜は平均値以上に空気が乾燥していて火の周りが異常に早く、倒壊した煙突が小窓すらない彼女の部屋の逃げ口を塞いだのが災いした。しかし、いつもは俊敏な彼女が、どうしてその夜に限って逃げ遅れたのか? その日、オレから受けた二度目の暴力による心的外傷が、彼女から危険を回避する判断力と瞬発力を奪ってしまったのか? 長野オリンピックの歓喜と感動、快感と興奮が、原田雅彦の大ジャンプの残像が、同じここ白馬の地でむごたらしい暴力に帰結し、最後にはアヤミの命を奪ってしまった。悔やんでも悔やみきれない。償っても償いきれない。
 オレをどん底にたたき落としたのは、アヤミの死だけではなかった。
 アヤミとともに女子寮から逃げ遅れて大やけどを負い、目下、この大町市民病院で生死の境をさまよっている女性がいた。誰であろう、それは金田さんだった。

 金田ネエさんこと金田直子。彼女が白樺湖を去ったのは、去年の8月10日。

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オレとアヤミが白樺湖を終えた10月1日以後、白馬店に転勤になったハツカネズミの支配人の後を受け、白樺湖店の支配人に昇格したミヤピーこと宮下ヒロシくんの要請で(シンタローくんや工藤くんの同意もあって)彼女は白樺湖店に復帰した。そこでナカちゃんと意気投合し、昨年末に電撃結婚を果たした。ときを同じくしてマッちゃんも、新しいアルバイトの女の子と電撃結婚を果たし(半ばグループ交際だった)、新婚二組で、白樺湖店でお世話になったハツカネズミの支配人とカントクに年賀の挨拶がてら二泊三日でスノーボードを楽しみに(ナカちゃんもマッちゃんもボーダー)昨日の夕刻から白馬店を訪れた。以上がカントクから聞いた経緯だった。「支配人とカントクに」と言うが、白馬店にはオレとアヤミがいるのを知らないわけがないだろう。彼女はいったいどんな腹づもりで白馬店の軒をくぐったのか?
”アナタに棄てられたおかげで、私はこんなに幸せになりました”と、当てつけに来たのだろうか? オレとアヤミの現状を知って何を思ったのだろうか? 
 しかし、もっと不可解なのは、金田さんが逃げ遅れたのは、火の手が上った時刻の女子寮に、しかもアヤミの部屋に、彼女と一緒にいたからだった。ナカちゃんとマッちゃんと彼の新妻は、カントクの部屋で酒盛りを始めたが、金田さんは、
「アヤアヤの部屋に行って来る」と、アヤミの部屋を訪ねていったきりだったので、ナカちゃんたちはそのまま眠りについてしまった。金田さんはいったい何が目的でアヤミの部屋を訪ねたのか? 火事の巻き添えを食うまで、二人で何を話し何を行っていたのか? ナカちゃんに尋ねてみても、
「わからない。ただ、”アヤアヤと話したいことがあるから”って言うだけで…白樺湖のことを今さら蒸し返すのもお互いに気分が悪いんで、オレは気が進まなかったんだけど、どうしても話したいことがあるって聞かなかったから。やっぱり、是が非でも止めればよかったんだ! オレの責任だよ!」としか言わないで、彼は嘆き崩れた。
「どうしても話したいこと」―それはいったいなんだったのだろうか? 幸せをつかんだ今だからこそ、白樺湖での恨み辛みをアヤミに訴え、すっきりとした気分で新婚の第一歩を踏み出そうとしたのか? それにしては、火の手が回った明け方近くまで、彼女の部屋にいたのは不自然ではないか?
 今となってはその真相はわかる術がない。

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オレはナカちゃんに断って金田さんを見舞った。アヤミと同じように包帯だらけになった金田さんは、人工呼吸器をつけられてベッドに横たわっていた。五ヶ月ぶりの対面。意外に早い再会が、まさかこんな姿でとは…オレは嗚咽をしながら、彼女の手を握った。昨夜の真相がわかるとすれば、それは彼女が一命を取り留めることだが、もはや真相なんてどうでもいい。長野オリンピックと原田雅彦の大ジャンプにかこつけた自らの信念のなさが、金田さんの精神だけではなく、肉体までも瀕死に陥れてしまった罪悪感と絶望感で、オレは今すぐにでも死んでしまいたかった。


札幌のご両親がアヤミの亡きがらを引き取りに来られた後、オレは独りで白馬村に引き返した。跡形もなく焼け落ちてしまったホテルパイプのけむりの2号館を目の当たりにし、オレはきつく胸を締め付けられた。早朝から瓦礫の撤去と1・3号館の復旧作業が続けられていた。当分の間、ホテルは休業を余儀なくされるだろう。カントクたち住み込みのアルバイトは、社長から一時見舞金をもらって(何しろ、誰もが着衣以外の私物をことごとく焼け出されたのだから)一旦解散になった。
「おっ、スグルッチじゃないか!」
支配人が姿を現した。ついさっきまで大町市民病院で、アヤミのご両親に謝罪と補償の接見を社長や専務とともにおこなっていたはずだ。相変わらず、彼の顔色は最悪だった。無理もない。就任早々の大火事で、従業員に死傷者が出たのだから。お客さんと隣近所には被害が一つも及ばなかったこと、ホテルパイプのけむりの中枢である本部事務所の重要書類と現金および手形類が耐熱金庫に守られて無事だったことが、不幸中の幸い(もちろん、口には出せないが)だったかもしれない。彼にしてみれば、オレの暴力沙汰はすっかりどこかへ吹っ飛んでしまったようだ。それでもオレは彼に会わせる顔はない。
「スグルッチよぉ、オレはこれからどうすりゃいいんだよ?!」
支配人は今にも泣き出しそうになってオレにすり寄った。オレもそう言って誰かにすがりつきたかった。オレは支配人に断って2号館の瓦礫を探索した。アヤミの遺留品が残っていないかと。完膚無きまでに塵芥となってしまったそこに、オレは石ころのようなものを見つけた。我ながらのめざとさに感動し、それを拾い上げた途端にオレは涙がこぼれた。

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それは白樺湖での別れ際、アヤミがオレにも持たせたつがいの磁石だった。あの大火の中で、よくもこれだけが焼けずに残ったものだ。オレは自分のそれを財布から取り出してアヤミのに近づけた。磁石はかすかに引き合った。
「アヤミ…」

 オレは白馬ジャンプ球技場に足を運んだ。今朝方、暗闇に沈むはずだったノーマルヒルとラージヒル。今や彼らは長野オリンピックと原田雅彦の大ジャンプのそれだけではなく、オレ自身の偽りとまやかしの現実の象徴となってしまった。昨夜仕掛けた爆弾は見つかることなくそのまま残っていた。管理は意外と杜撰なんだ。無理もない。こんな巨大なモニュメントをくまなくそつなく維持管理するには、白馬村という小さな行生体にはあまりにも負担が大きすぎるのだ。だから木っ端みじんに爆破してしまえば、村民からは案外喜ばれるのかもしれない。そして二つのジャンプ台とともに、オレ自身も爆死するのがふさわしかった。爆弾の配線をやり直し、ラージヒルの支柱に人柱のようになりながら爆破のスイッチを押せばそれは可能だった。
しかし、それではあまりにも容易すぎるのではないか? このノーマルヒルとラージヒルが象徴する偽りとまやかしの現実と完全決別するためには、もっとほかのやり方が、あるいは長野オリンピックの原田雅彦と同じやり方があるのではないか? 二つのジャンプ台を爆破してオレ自身も爆死するのは、それからでも遅くはない。
オレは再びノーマルヒルとラージヒルを見上げた。大きい。あまりにも大きい。オレのような小者が立ち向かうには。

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第五章エピローグ

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ジャンプ台の爆破をひとまず思いとどまったオレは、白馬にとどまってどうするのか?

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2003年1月24日、白馬ジャンプ競技場ではFISワールドカップ・ノルディックジャンプが開催される。アダム・マリッシュ、シモン・アマン、ヤンニ・アホネンなど、内外のトップジャンパーが今夜、ここで一堂に会する。五年前の威光は衰えたが、原田雅彦も依然、日本ジャンプ陣の中心選手だった。ノーマルヒルとラージヒルは今夜、世界最高の舞台として再びきらびやかなカクテルライトにまみえる。そしてオレ、井岡卓はFISの開幕を数時間後に控えたジャンプ競技場のすぐ隣、名木山ゲレンデの中腹から延びるミドルヒルのスタートゲートに立っていた。



(続く)

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